ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――その18

ようやく路地の描写に入れた。

アゲインスターズもびっくりのアジアンカオスに突入だ。

17より続く


 リシュンはシャビィの目を見つめ、静かに頷いた。

「それでは参りましょう。この先に井戸があります。」

そこから井戸までは、いくらも離れていなかった。リシュンについて歩いてゆくと、すぐに広い空間が現れ、シャビィにもそれが貯水池であることが分かったのだろう、

「リシュンさん、梯子は?」

 と訊ねてみせた。リシュンが応える代わりに掲げたランプの暗がりに、鈍い陰りを放つ真鍮の梯子が浮かんでいる。リシュンはランプをシャビィに預け、素早く梯子を上って井戸の蓋にそっと手をかけた。小さな隙間から射し込む陰は、地下に慣れた目には重すぎる。リシュンの姿は夜に塗りこめられ、すっかり見えなくなってしまった。

「誰もいません。紐を落しますから……ちょっと待って下さい。」

 気が石にぶつかる、鈍い音がした。外に吹く夜風に吸いだされて、貯水池を覆う霧が陰の柱を昇ってゆく。

シャビィさん、ここまでランプを持ちあげられますか?」

 掘り抜きの井戸と違い、ナルガの井戸はごく浅い。うっすらと水面に映ったリシュンの影を頼りに、シャビィはランプの底を掌にのせ、なんとかリシュンに手渡した。ランプの底は温まっていたが、火傷するほどではない。リシュンが登りきるのを待って、シャビィも梯子に手をつけ、滑らないようにゆっくりと登った。家々の影や床下の明るみ以外はほとんど何も見えないが、磯の香りがかすかに混じったすがすがしい大気は、紛れもなく地上のそれだ。

「なんだか随分と久しぶりに太陽を見た気がしますよ。それに、身体が温まって……生き返ったような気分です。」

 大きな体を思い切り伸ばして、シャビィは満面の笑みで外気を胸いっぱい吸い込んだ。見上げる空はどこまでも深く、青い。

「ついてきて下さい。足下に気をつけて。」

 壁に手を突き、階段を上りだしたリシュンに、シャビィはなんとか追いすがった。暗くて段がよく見えない。気を抜けばすぐにでも足を踏み外してしまうだろう。闇に呑まれた広場の中で、家々の床下と嵌め殺しの窓だけが煌々と輝いている。

「ここは街のどのあたりなんですか?」

 先を行くリシュンに、シャビィは控えめな声で訊ねた。頭上の窓から、高い鼾が聞こえてくる。

「島の東側に住宅街があるでしょう――しょっ。」

 革が石を叩く乾いた音がした。

「そこ、段が欠けています。気をつけて。」

 シャビィは空いた手を前にかざして、足下の陰を払った。影のないリシュンは、一体どうやって歩いているのだろう。

「その住宅街の、一番北側です。」

 シャビィにも、伝聞だがある程度の地理は分かる。北側ということは、大通りから一番離れた地域だ。影のずれている方向、恐らくは海があるはずの方向、恐らくは海があるはずの方向を、シャビィ横目に確かめ、言葉を失った。まばらに穿たれた光の窓の向こうに、淡い光を帯びた海が一面に広がっている。ゆっくりと海の底を這う波頭の影に乗って、温かな潮風が寝静まったナルガの街を駆けあがってきた。指先に絡みつく粘り気の強い風は、塩辛くもどこかほろ苦い。

「リシュンさん。」

 潮の味をかみしめながら、シャビィはリシュンを呼びとめた。

「私はナルガに来たばかりにひどい目にあいましたが……捨てたものではありませんね、この街も。」

 目の前に広がる夜から、透き通った笑い声が返ってきた。

「ええ、ナルガのような薄汚い街にも、二、三はよいところがあるものです。この海はその一つですね。それとシャビィさん、階段がここで曲がっているので、とりあえず私のところまで登ってきてください。」

 リシュンにぶつからないよう、シャビィはそろそろと階段を登った。声のありかに近づいたところで手を差し出すと、ほっそりとした温かい手が、しっかりとシャビィを捕まえた。

「足を踏み外さないで下さい。ここから落ちるとただごとでは済みませんよ。」

 リシュンははシャビィの手を掴んで、家屋の隙間に引っ張りこんだ。下からは見えなかったが、ところどころ顔料が剥げた板張りの壁の間に、細い階段が続いている。裏道は、家々の影のおかげで随分と明るく、ゆるやかに曲がっているのが分かった。

「どうして階段に手すりがなかったんですか?」

 後ろを振り向きながら、シャビィが訊ねた。小道の入り口からは、暗く湿った風が流れ込んでいる。たなびく髪を払いながら、リシュンは答えた。

「昔はあったかもしれませんが、このあたりはだいぶ前に寂れてしまったそうです。あまりつかわれないので、直そうとする人もいないのでしょう。」

 なるほど、民家は多いが生活の匂いは薄い。階段の上に散らばった植木鉢の破片を踏まないよう、シャビィは足下を見て歩いた。寝静まった裏路地は緩やかに弧を描いて、二人の足音を呑みこんでゆく。陶片の散らばった一角を抜け、小さなアーチの落した白い影をまたぎ、平らな道をしばらく行くと、小さなY字路が現れた。角に立つ古びた家は射し込む陰に沈み、既にうち捨てられてしまったのだろう、玄関の扉が失われて、明るい室内が闇の中に口を開けている。

「どちらですか?」

 片方の道は海の方に下り、もう一方の道は急な角度で山側に上っている。

「左です。」

 リシュンは急な階段を一段飛ばしで上りだした。狭い上にうねっているため、シャビィの肩は左右につかえてしまい、横歩きでついていくのがやっとだ。家並みの狭間を流れる薄い雲のかかった空に、リシュンの黒い影が浮かんでいる。

「随分と窮屈な街ですね。」

 息も絶え絶えにシャビィがかこつと、リシュンの影が振り返った。

「昔はこの界隈にも人が沢山いたのです。これだけ家だらけにしても、足りないくらいの人が。」

 仔細を訊ねる間もなく、リシュンの姿は家の陰に消えてしまった。脇道があるのだろうか。シャビィは急いで追いかけ、この階段に合流している別の階段を見つけた。漫然と上っていては、まず見つからない場所だ。明るい道はゆるやかに下り、大きな空き地があるのか、途中で闇に呑まれている。

シャビィさん、見えていますか?」

 大丈夫です。短く答えて、シャビィは小走りで坂を下り始めた。太陽の陰に沈んだ細い道の奥に、明るい階段が見える。坂道は次第に水平に近付き、再び登り始めたところで、シャビィはリシュンに追いついた。

「ここまでお疲れ様でした。この先の階段を上れば、もうすぐです。」

 空き地の前を通り過ぎると、上り坂は石段の下に消えた。波の砕ける遠い音と、家並みをかすめる風の音が聞こえてくる。

「井戸から結構歩きましたね。ここまでくれば、誰にも見つからないような気さえしてきますよ。」

 呑気なシャビィに、リシュンは笑いを含んだ声で相槌を打った。

「井戸からは泥棒も出てきますからね。でも、この先にも人が住んでいるのですよ。」

 階段を上りきると、リシュンの言った広場が現れた。



19に続く

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