書いてみると案外かけるんだよなぁ……
「良いですか、アレクさん。この電球をじっと見つめて、ゆっくりと深呼吸してみてください」
暗闇の中に豆電球が現れ、辺りに穏やかな熱が広がった。大きなの影が夕焼け色の天井にぶつかり、背中を丸めて二人を覗き込んでいる。
「はい、テルミン先生」
テルミンの指示に従いオレンジ色の菱形を見つめているうちに、焦点が滑り出し、アレクには電球の大きさが分からなくなってくる。温かな光はアレクの世界を埋め尽くして、やがてアレク自身になった。
「いいですよ、いいですよ……上手く行っています。よく事件当時の状況を思い出してください。ここは地下のポンプ場です。そしてあなたは一人で電源装置の修理をしています」
カバーを外してみたものの、締め忘れたねじ穴が見つからない。
「ここは地下室で、俺は電源を修理している……早くビスを留めて、天使様に――」
ゴム手袋が濡れて、ビスが上手くつかめない。アレクがきつく噛みしめた奥歯に、テルミンは低く抑えた声で、そっと問いを挟み込んだ。
「そのとき、あなたの周りに靄が出ていたのではありませんか?」
そうだ。あの時地下室は霧で満たされていた。
「はい……立ち込めた霧に懐中電灯の光が当って、光の筋が出来るのが見えました」
テルミンは強く頷き、アレクのうわごとに合わせておぼろげな言葉を並べた。
「霧? ……アレクさん、そのときおかしな匂いがしませんでしたか?」
フィラメントが放つ赤みがかった光は、テルミンの言葉を乗せてアレクの中に流れ込んできた。
「匂い……匂い……そういえば、何か嫌な匂いがするような」
アレクが鼻をひくつかせると、テルミンは薄い唇を小さく曲げた。
「そしてあなたは、その匂いを嗅いでいるうちに次第に頭が重くなってきた。違いますか?」
テルミンは席を立ってアレクの傍に屈みこみ、アレクに合わせて小声で訊ねた。頬骨の影に両目が沈んでいる。
「そう……そうだ。段々目の前が白くなって……」
アレクは小さく舟をこぎ出し、テルミンはゆっくりと白昼夢の舵をとった。パイプ椅子が軋む音はのんびりと繰り返しながら、物語の奥へと次第に迷い込んでゆく。
「思い浮かべてください。あなたの目の前は段々白くなってゆく。ゆっくりと、少しずつ……あなたは今体が軽くなってきたような気がしていますね。まるで精神が体から離れてゆくような……やがてあなたは気を失ってしまいます。アレクさん、今、何が見えますか?」
テルミンの姿や電球の明かりは、いつの間にかアレクの目の前から消えている。
「何も。真っ白です」
視線がほつれたまま口の中で呟いたアレクに、テルミンは用意された結末を与えた。
「そして気がつくとあなたは病室にいた。そうですね?」
テルミンが部屋の明かりを点けるとアレクは乾いた目をしばたかせた。スリッパがゴム質の床を叩く、平たい音が近づいてくる。
「は、はい。確かそんな感じだったと思います、テルミン先生」
テルミンは席に戻り、書類を斜め読みしながら一人で何度か頷いた。
「やはりそうでしたか。アレクさん、あなたが倒れていた地下室には、冷媒のガスが充満していたそうです。先日のテロで、パイプの見えないところに亀裂が入っていたとか」
毒性の強いガスではないが、長時間吸っていたため昏倒してしまったのだという。
「一時的とはいえ、あなたは仮死状態にありました。そして主によって選ばれたのです。ラザロのように」
テルミンの説明にアレクは目を輝かせた。
「マジですか! 今日から今までの二倍お祈りしなきゃ」
テルミンは細い目をわずかに曲げ、枯れた声で笑った。
「ええ、主の愛があなたを生かしているということを、忘れないように……もう退院してかまわないと思いますが、念のため来週の金曜日に経過を見てみましょう」
テルミンは豆電球に黒い布を被せ、アレクを連れて部屋を後にした。
翌朝、ノンナはアレクを病室まで迎えに来た。ノンナの持ってきた着替えはピンクのバミューダパンツと白い糊のきいたワイシャツだ。
「ありがとな。入院した時もいろいろ運んでもらったみたいだし」
アレクがボタンをかけ終えると、ノンナは部屋の鍵を差し出した。ミツバチの絵が描かれた、六角形のキーホルダー。やはりノンナが預かっていたらしい。
「気にしない、気にしない。でも、ホントに何にもなくてよかったね」
火の光を浴びていないせいか、ノンナの笑顔がいつにも増して眩しい。二人はエナメルバッグに荷物を纏めてエレベーターに乗り、ロビーで手続きを済ませた。ピョートルと看護婦たちは軒先まで見送に来ており、ピョートルは傘を貸してくれようとしたが、アレクはノンナの傘に収まる事にした。
「相合傘も、久しぶりだねぇ」
浸りきっているノンナの隣で、しかし、アレクは傘の骨から滴る雨粒をちらちらと盗み見ている。
「そうだけど、なあ、なんか今日は嫌にジメジメしてないか」
肌に触れた雨粒の感触に、アレクは小さく体を震わせた。
「アレク、夏風邪? 帰ったらカモミール淹れたげよっか。せっかく帰ってきたんだもん、早く治して、皆でナホトカ行こう」
背中に抱き付いたノンナの腕にアレクはそっと手を重ね、低い声で約束した。
「ああ、みんな一緒だ」
二人はバスで寮まで戻った後一旦別れて荷物を下ろす事にしたが、部屋の扉に鍵が刺さらない。ノンナが自分の鍵と間違えたらしい。アレクはもう一度階段を下りて、表でノンナと鍵を交換する羽目になったのだった。