トリシャさんはネタの火薬庫である。
「K。コイツ、お前の知り合いじゃないよな?」
勿論そんなはずはない。
こんな奇天烈な外人、忘れる方が難しいだろう。
「アホか」
では一体、誰の知り合い、もとい弟子だというのだ。
パラガスを振り返って見たが、やはりこちらも心当たりはないらしい。
「一度『みすまる』に戻って聞いてみよう。マッシュの怪我も手当てした方がいいし――」
くノ一の師匠とやらは、常連客の可能性が高い。
俺の相槌は、しかし、くノ一の叫び声に遮られた。
「マッシュ……師匠でオジャルか? 師匠、マロでオジャル! トリシャにオジャル!」
まさか。俺は凍り付いた。
俺のことを師匠と呼ぶのは、知りうる限りトリシャさんだけだ。
美少女だといいなぁ程度には思っていたが、金髪碧眼はヒロインの鉄板だが、レイヤーまとめスレも決して嫌いではないが!
いつもブログにコメントをくれるあの知性的なトリシャさんが、白昼堂々忍者ごっこに興じる残念な人であるはずがない!
俺は一度深呼吸してから、恐る恐るくノ一に尋ねた。
「と、トリシャさん? トリシャさんなのか? 『夙川日記』の?」
脇ではパラガスとKが訝しげな顔で俺と自称トリシャさんを見比べている。
一台のミニバンがべたついた音を引きずり、束の間の静けさを横切った。
「師匠、助けタモ……」
トリシャさんは目に涙を浮かべ、俺に助けを求めている。
金髪碧眼の美少女に哀願されてはどうにも断りようがない。
俺は肩を落として溜息をつき、事実を認めることにした。
「け、K……俺の知り合いだった。トリシャさんを放してくれ……」
Kが手を放すや否や、トリシャさんは素早く飛び退り、生米をKに投げつけた。
「キュウキュウニョツリーッ!」
いきなりのお祓い殺法に、俺たちは言葉を失った。
パラガスはともかく、無教養なKには何をされたかも分かるまい。
ニットワンピについた生米を払い落とすことも忘れ、呆然と立ち尽くしている。
「師匠、この女に近づいてはなりマセヌ! 今は人の形をしてオジャルが、ソノ正体は賀茂派の陰陽師が放った式神でオジャル!」
忍者の次は陰陽師か。
新たな設定が追加されるたび、心の中に収蔵された『美しきトリシャの肖像』が次々虐殺されてゆく。
「トリシャさん、何だ、その、コイツは百害あって一利なく、忌々しいのも確かですけど、流石に刺客ということは……」
ここは俺もトリシャさんの設定に乗るべきなのか、それとも妄想を解くところから始めるべきなのか。
俺が説明しかねていると、パラガスが手を打った。
「それで、Kさんを差し向けた陰陽師の居場所を探ってたんですね」
乗ったなパラガス。
余計にややこしくなっても、俺は絶対に責任を持たんぞ。
Kは掌を投げ出して無言で何やら訴えているが、今更俺に振られてもどうしようもない。
つやつやとしたポニーテールが躍り、空色の瞳が爛々と輝いた。
浮世は馬鹿ばかりで話の分かる者が少ないから困るとでも言わんばかりの笑顔だ。
確かに浮世は馬鹿ばかりだが、トリシャさんは思い至らなかったのだろう。
同じ分からないのでもレベルが高すぎて分からない場合と、そもそもの前提が隔絶しているので分からない場合があるという可能性に。
「Kさんは、マッシュを騙そうとしていた式神じゃありませんよ。carnaの極意を授かるべく『みずまる』を訪ねてきた、マッシュの一番弟子なんです」
いくらなんでも都合よく脚色し過ぎだ。
これではまるでKが真面目に修行しているみたいではないか。
パラガスの出任せは、やはりというかあっという間に見破られた。
「一番弟子? カヨウに頭の悪そうな女が……聞き捨てナラヌ! マッシュ流構築術の真理に開眼せし者はこのパトリシア・ポンバドゥールをおいて他にナシ! 一番弟子の座、貴様ナゾに譲るものカハ!」
新興宗教臭い言い回しに、パラガスは何か言いたげな視線をよこした。
何やら邪推しているようだが、俺は何も間違ったことは吹き込んでいない。
俺の議論について来られる人間は、今の日本には実際数人しかいないのだから。
「何やワレ、黙って聞いとれば好き勝手抜かしくさって! Cタケ、なんなんやコイツ!」
理解力の乏しいKにも、流石に自分の悪口は聞き取れるようだ。
Kはパラガスを押しのけ、トリシャさんの襟を締めた。
「『第五実験区画』……じゃなかった、俺のブログの常連さんでさ。トリシャさんていうんだけど、近々『みすまる』に遊びに来ることになってたんだ」
代わりにKをつけまわしていたとは、夢にも思わなかったが。
遠慮がちな執り成しはKには全く効果がなく、つま先立ちで耐えながら、トリシャさんは啖呵を切った。
「エエイ、そのケバケバしい手を放すでオジャル! 貴様もカードゲーマーなら、カードで勝負するがヨイ。一体どちらが一番弟子に相応しいか、目に物見せてくれヨウゾ!」
それとも何か、マロに勝つ自信がないとでも?
冷笑を浮かべたトリシャさんを、Kは乱暴に突き放した。
「ええやろ! 吠え面かかせたるわ!」
しめた。
時代遅れの決闘騒ぎも、キャットファイトよりはマシだ。
Kに場数を踏ませるにも、丁度良い機会だろう。
「それならとりあえず、『みすまる』に戻らないか? あそこなら対戦用のテーブルもあるし、多少騒いでも構わないだろう」
二人は顔を見合わせてから、別々に頷いた。
トリシャさんにとっては勝てる勝負、Kにとっては売られた喧嘩か。
『みすまる』に引返す道すがら、二人の後ろを歩きながらトリシャさんの背中を見つめた。
眠たげな春の日差しを受けて、ポニーテールが白金色に輝いている。
この勝負、順当にいけばトリシャさんが勝つだろう。
先日『夙川日記』に載せていた火水ロックなど、相当の出来だった。
carnaを始めたばかりのKとは、キャリアも才能も違い過ぎる。
「トリシャさんって、本名だったんだね」
俺の隣を歩きながら、パラガスがこっそり囁いた。
そういえば、さっきはパトリシアと名乗りを上げていた。
ひょっとすると、住んでいるのも本当に夙川かもしれない。
頭がいい割には迂闊というか、お馬鹿というか、評価のつけにくい人だ。
カードゲーマーをやっている以上、人よりも奇人変人に明るいつもりでいたが、ここまでの傑物には今までお目にかかったことがない。
「さあな。それよりパラガス――」
言いかけて、俺は溜め息をついた。
「どうしたの?」
そこはかとない喪失感に、その声はやたらと温かく染み込んできた。
ヤバい。
こういう風に話すとき、パラガスの優しさには底知れぬ破壊力がある。
村上春樹的に表現すると、それは吹雪の中で立ち寄った丸太小屋で供された、生クリームたっぷりのホットチョコレートに浮かんだマシュマロのような優しさなのだ。
「なんというかこの状況は、アレだ。ある意味、女の子たちが俺という天才を巡り戦おうとしているわけだ。00年代後半の、ご都合主義的なラブコメみたいに」
それは、大衆的な萌え豚どもにとって永遠の憧れである。
そして、洗練と知性によって選ばれたエリートオタクにとって、堕落したバビロン、忌むべき欲望であった。
真のオタクたるもの、その精神も童貞でなくてはならない。
いや、別に妻帯してもいいのだが、決して情欲に孤高の心を失ってはならない。
美少女を遠目に眺め、目で愛する、その萌えという抽象観念だけを愛すること。
それがオタクにとっての、正当なる愛の形なのだ。
「夢が壊されちゃったって? ハーレムの? それともトリシャさんの?」
真実ハーレムとは神経をすり減らせることであり、トリシャさんは奇天烈な日本かぶれの中二病外国人であった。
だが、問題はそこではない。
ハーレムはともかくとして、トリシャさんは一応美人の上、しかもフランス人ときている。
重篤のレイヤーだから、頼んだらメイドや巫女さんの格好だってしてくれるかもしれない。
これ以上望みようがないくらい、想像を絶していたせりつくせりなのだ。
「……さあな」
俺が愛していたのは人間ではなく、トリシャさんという一つの抽象観念、存在の可能性に過ぎなかった。
俺はその事実、即ち己のインテリ性に幻滅したのかもしれない。
止せ。これは世俗に流される前兆だ。
まやかしに流されぬよう、心を強くしなければ。
『みすまる』の看板を見上げながら、俺はパラガスに聞こえないよう、小さな声で呟いた。