第二話
next目覚める傷痕 - ふたり回し
before水の天蓋 - ふたり回し
霞んだ背中を追いかけて
歪んだ道をひた走る
両脚に鞭をうって
十四の歳をけって
はまり込んだ深みの底に
向かっていると知りながら
街で一番早く起き出すのは、昴人に仕える使用人達である。水平線が白む前から、長い一日の支度が始まる。そんな街の様子を眺めながら走り込んで汗をかくのが、風音の日課の一つだった。
いつもより早く目を覚ました風音は、ぼんやりとした頭で、昨日の出来事を反芻していた。墜落、漂着、白い砂浜、暗い部屋、姿の見えない老婆と、突き刺さるいをりの眼差し。あまりにいろいろなことが起こりすぎて、また妙な夢を見てしまった。
思い切りをつけて寝台から飛び起き、顔を洗って着替えを済ませる。ふと思い出して、已然石(ヴィザルガ)を指に通す。「椏殻(アガラ)」、「崇辣(スーロ)」、「吐呪(テジュス)」。透き通った石に刻みこまれた態話詫(ディーヴァタ)が、窓越しの朝日にきらめく。物々しい装備だが、用心に越したことはない。階段を降りて、重たい黒檀の扉を押し開く。
ほの暗い石造りの通りにいるのは、井戸端で世間話をしたり、店の戸板を外したりしている上葉人くらいのものだった。長靴の底が軽石を叩く乾いた音が響き渡る。透き通った風が、体の中を吹き抜けていくような気がした。
出発の時刻を思うと、少し心配があったが、果奈の顔を見ていこうと、風音はそのまま町はずれに向かった。明るくなるに従って、町並みは少しずつさびしくなり、石畳が途切れると、そこはもう墓場の前だった。
柄杓を持った墓守は、右手を見せるとおとなしく下がった。已然石の威力が発揮されるのは、空戦や地上戦だけではない。専らの用途は、ちょっとした身分証明なのだ。粗い砂利を踏みしめて、奥へ向かった。
薄く伸びた石柱の影の間にいたのは果たして果奈だった。帰省の際には、欠かさず参っていた。
「私も、いいか」後ろから声をかけると、
「うん」と呟くように答えて、果奈は静かに立ち上がった。
「挨拶するのを、すっかり忘れていた。しばらくは帰ってこれないからな」
小さく手を合わせて、跪く。
「風音・・・風音は、内定が入ったとき、誰に一番に知らせようと思った」
「ど、どうしたんだ・・・そんな藪から、棒に」
語尾が上ずってしまった。長い影を眼でなぞる。
「私はね、風音だったな。お母さんでもなかったし、この人でもなかった・・・会ったことはないけれど、初めて聞いたときは、それはショックだったし、志願したのも、この人の家督を買い戻すためだったのにね」
何を説得しようとしているのか、風音にはさっぱりだった。果奈は続けた。
「でもね、本当は、そういうものなのかもしれない。それはそれで寂しいことだけど、そうじゃなかったら、生きていけないんだよ、きっと」
風音は、立ち上がって弁解した。
「いや、そうじゃない。その、何だ」
「え?」
「墓参りじゃなくて、逆・・・でもなくてだな」
「ごめん・・・何かあったの?」
果奈は顔を伏せて、上目がちに聞いてきた。
「昨日、妙な話を耳にしたんだが・・・絶対信じないぞ」
口を衝いて出てきたのは、自分にも思いがけない一言だった。
「あの島?」
「ああ、不溜人の老人なんだが・・・自分の一族が、水の天蓋の向こうからやってきたというんだ」
言葉が引き出されていくに従って、少しずつつかえていたものがほぐれていった。
「所詮、不溜人の戯言だ。それに、万が一本当だとしても、生きているはずがないことも、分かっている」
「いいんじゃない。信じれば」
果奈は迷わずに答えた。
「まさか、笑い物に・・・いや、咎められるべきかもしれない」
風音は、足元に視線を落とす。
「それでも、生きている可能性があるんでしょ。ダメもとで、信じてみなよ」
伏せた顔を上げると、いつもと変わらない微笑みが、そこにあった。力なくぶら下がった両手を拾い上げた果奈の手を、風音はぐっと握り返す。
「ありがとう」
思い出だけが眠る墓に、用などあるはずもない。暁光の中に立つ果奈の微笑みが、風音には見えていた。
「出発まで時間がない。急ごう」
支度を済ませて庭先に出ると、果奈が待っていた。玉之と、奉公人の双子も一緒だ。母のいないのを確かめて、声をかける。
「待たせたな」
めいめいの挨拶を済ませた風音に、果奈が歩み寄ってきた。
「なんだか、五年前を思い出しちゃうね」
「そうかな、あの時の方が賑やかだった。奉公人もたくさんいたしな」
「お母さんにも引きとめられて?」
肩をすくめると、大きな溜息が出た。
「よしてくれ。本当に大変だったんだ・・・今回はさすがに諦めたようだが」
「うまくいってるところ、見せてあげないとね」
「それ、前にも言ってなかったか」
腰に手をあてた風音に、果奈が振り返る。
「あれは、私のこと。どうなるか、全然見当もつかなくて・・・」
「うまくいったじゃないか」
「風音のおかげだよ。お父様に話をつけてくれなかったら、何も始まらなかったもの」
「果奈が父上の眼鏡にかなったんだ。見合っただけの努力をすればいい。私も、な」
風音は大きな荷物を引きずって、厩に向かった。見上げると、庇の下に態話託で「亜邦」と掘り込んであるのが分かる。
「そうだ、風音」
不意に果奈に呼びとめられる。
「何だ。式の打ち合わせもある。なるべく早く出発しなくては」
雲行きが怪しくなってきた。荷物がにわかに重くなる。
「ずいぶん重たそうな旅行鞄ですこと・・・何泊したら帰ってくるつもりなの?」
無事出発できた時には、すっかり影が短くなっていた。倍になった荷物をぶら下げ、雲の間を縫って翔る。空の富良樹に近づくにつれ、雲の形や、風の匂いも変わっていった。二人はその間、他愛ないおしゃべりや、その合間に訪れた静寂を楽しんだ。
《風音・・・本当にあれだけで生活するつもりだったの?》
《せっかく荷物を減らしたと思ったら、これだからな》
《柏木さんが、せっかく用意してくれたのに》
《・・・》
翼の先をよじって風を捕まえると、亜邦の体はぐんと持ちあがった。通灯を使って追いついてきた唯祈を目の端で認める。
《片付けなら、私、手伝うから・・・》
《違う。小回りが利かなくなるからだ。いざという時に戦えないようでは、兵とはいえない》
雲をよけるため、体を左に傾けて大回りに曲がった。掴んだ荷物が、振り子のように戻ってくる。右肩に力を入れて、輝く白の上澄みをなぞった。
《そうだ、風音。昨日、あのあとどうなったの?》
《あの後?母上のことか》
《うん、ほら、今朝もお見えにならなかったし・・・》
《大したことは言われなかったぞ。さすがにもう分かっていらっしゃるのだろう、もう止めるには遅すぎる》
雲の影に入ると、静かに肌寒さが這い上がってきた。
《・・・そっか。うん、それなら、いいんだけれど》
《迂回は面倒だ。突っ切るぞ》
目の前に現れた、ひときわ大きな雲に、風音は飛び込んでいってしまった。
《風音、待ってよ》
渋々、果奈もついてゆく。
雲の中は、鈍い灰色で満ちていた。通り抜ければ、この雲の先に空の富良樹が視界に入るはずだが、どんよりと、どこまでも底がない。風音は、思わず母の言葉を思い出す。果奈にも、同じことを言われるかもしれない、いや、確信が持てないから、言わずにいるだけなのだ。いきなりの突風にあおられ、はっとして唯祈の姿を後方に求めた、そのときだった。目の前で、光が、弾けた。
果たしてそこには、空の富良樹が広がっていた。十二の風音を圧倒した、そのままの威容である。一対一対幹からまっすぐ枝がのびた火の富良樹とは違い、ぐねぐねと放射状に開いた枝ぶりは、むしろ植物の根を思わせる。絡み合った枝の上に、四国とは比べ物にならない、あふれかえるような街並みが広がっている。
《風音!》
遅れて、果奈も這い出してきた。
《たったの2週間ぶりにしては、随分と離れていたような気がする。妙なものだな》
《豊作、とはいえ、具体的なところまでは分からないな》
《時期が良かったみたい。王室からは4口、婆羅門からは8口も募集があったんだって》
卒業試験を見ているのは、何も洛澄の関係者だけではない。姫君の護衛は、女性士官を目指すより、ずっと割に合う仕事だった。女性限定で競争率も低く、養成学校に青春を投じる少女のほとんどにとっては、まさに本命だった。
《ふん、果奈のほうが詳しいじゃないか。しかし、そうなると入隊組は私たちくらいのものか》
気のない返事に、果奈は少し話を振ってみた。
《あのね、もしも、だけど・・・非番が重なったらさ、》
《ああ、あの店にもまた行ってみたいが・・・相手は他にいるんじゃないのか》
《またそんなこと言って・・・》
速度を殺して、ゆっくりとアプローチをかける。空の富良樹の樹幹に広がる街は、あの街と、確かにどこかで繋がっていた。見慣れた翠の屋根が、会場の目印だ。
洛澄本部の広場は、入隊式の関係者であふれかえっていた。風、火、水、土、四国の空から集まった竜が、次々と舞い降りてくる。なんとか空きのある厩舎を見つけて、亜邦と唯祈を預けることができたのは、幸運だった。
「すごい人だね。なんだか、いよいよって感じがする」
「賑やかなのはいいが、流石にこれはな。食堂も混んでいるだろうし」
「それじゃ、その、さっそく」
果奈の提案は、風音の耳には届かなかったらしい。風音は早くも人ごみをかき分けていた。返事が来たのは、2回目に叫んだときだった。
食事を済ませて戻ってきた後は、予定通り、卒業生の控室に向かった。「早くからみんな集まってるだろうし」と果奈が顔を出したがったのだ。ところが、影に沈んだ渡り廊下の半ば、風音は急に呼びとめられた。
「よう、不知火。果奈も、元気してたか」
「玄谷か。なんでこんな所にいる」
負けじと風音は食ってかかった。
「せっかく石膏人形にしてくれたのに悪りィな。しぶといのが取り柄でね」
こうは言っているが、頭の包帯が痛々しい。強がりもいいところだ。
「あれだけ痛い目にあって、よくもまあ・・・懲りない男だ」
大げさに肩をすくめて、踵を返すと、
「あの程度で兜を脱ぐと思ったら、大間違いだからな」
大理石の床に革のこすれる大きな音が、廊下の賑わいを切り裂いた。幾起は、目を丸くする。いままでの風音が、とり合った例がなかったのだ。
「幾起、風音まで。ホラ、みんなに見られてるよ」
ぶつかった視線を見つめて、立ち止まる者が出始めた。静まった人ごみが、再びざわめきだす。風音は、口ごもったまま、視線を宙に漂わせた。一体なぜこんなことになるのか、まるで見当がつかない。
「そうだ、幾起。これからみんなの所に顔を出しに行くところだったんだけど、よかったら、一緒に来ない?」
果奈の助け舟に、幾起は頭をかきながら、ばつが悪そうに応じたものの、風音は黙りこくったままだった。張りつめた無表情の下で、何かを考えているのか、一人分の静けさの中にたたずんでいる。果奈の揺れる瞳だけが、その壁の向こうを捉えていた。
風音が口を開いたのは、しばらくして、再び雑踏が流れ出したときだった。
「そういえば、もうすぐ式の打ち合わせの時間だった。先に行っておいてくれ」
「そう、それじゃ、頑張って・・・」
一言だけ言い残して、薄闇の中に沈んでゆく風音が、一度だけ振り返った。目に映るのは、ただ、流れてゆく人ごみばかりだ。
人気のない東側のバルコニーにたどりつくと、冷たい手すりにもたれかかり、大きなため息をついた。富良樹の枝の間から、街の下を滑ってゆく雲海が見える。ぼんやりと街を眺めていると、流れているのは雲なのか、街なのか、次第に分からなくなってゆく。分かっているのは、目の前の風景が5年前にはここにはなく、7年前なら、なおさらのことだ、という、それだけだった。
初めてこの街を訪れてから、兄がいなくなってから、十分すぎる時が流れていた。
「信じられますか。私がもう、兄上より年上だなどと」
雲を運ぶ涼しい風は、風音にも容赦なかった。バルコニーの柵を歌いながらかけぬけて、深い瑠璃色の髪を乱していく。
「おいおい、あんたは、ひょっとすると・・・やっぱり。一の妹だろう」
突然声をかけてきた男は、実は風音にも見覚えがあった。以前兄が休暇中に連れてきた、宿合という男だ。このいかにも食えない細面は、なかなか忘れられるものではない。
「宿合さんですよね。お久しぶりです」
「やっぱり。そんな感じがしたんだよな」
宿合は、腹の底から陽気に笑った。天を仰いだ短い銀髪が、小刻みに揺れる。
「しかし、よく気付かれましたね。こんなに・・・」
「ああ、すっかり大きくなったな。それに、なんだ。こりゃまた、思いきって――あんなに長い髪だったのに、お袋さん、反対したろ。いや、俺は短いのもいいと思うが」
雲海の果てを見つめながら、不器用に答える。
「ええ。でも、父が賛成してくれましたから」
「うん。そっか・・・じゃなくて、景気のいい話だよ。首席合格、おめでとう」
うっかりしていた。
「・・・未熟者ですが、よろしくお願いいたします」
風音は、姿勢を正して、鋭い返事をする。資料が届くのは、配属先だ。
「ああ、ようこそ。特務隊に・・・でも、変かな。俺が迎えに来るってのも」
左手で頭を掻きながら、宿合は乾いた声で笑った。
「本当は、あいつが一番だったのにな」
「それを言ったら、私も敵いませんよ」
風音は沈んだ声を絞り出す。
「でもな、入隊したときの先輩達の顔ときたら――、よくしてくれたとは思うがな。南側のバルコニーに行こう。ここよりはいくらか明るい」
雲は流れても、同じ高みに日は昇る。容赦なく降り注ぐ光は、大理石のタイルの上に二人の影を落としていた。
「宿合さんは・・・追いつきたいと思ったことは?」
風音は、手を掲げて太陽を仰ぐ。指の陰の間から漏れる光は、突き刺さる位に鋭い。
この唐突な問いに、
「あるさ。でも、それを逃げ口上にしちゃあいけない」
宿合は答えを用意していた。
「どこまで飛べるかじゃあない。俺たちが決められるのは、飛ぶかどうかだけだ。思い切りだな」
風音はさらに問いかける。
「身の程を知れということですか」
「違うよ。しかし・・・」
少し考えて、宿合はつないだ。
「お前さんは、相当できるんだろう。後輩が、一年前に入ったやつだが、言ってたんだ。弟分の応援に行ったらしいが――すごい試合だったんだって?」
「褒められたものではありません。課題の残る勝負でした」
事実、薄氷の勝利だった。試合開始直後は、居虎(いとら)の後ろをとっていられたものの、次第に小回りの利く居虎を捉えきれなくなっていったのだ。そのうち玄谷が隙を見つけて、後ろの取り合いになってしまった。二匹が蛇行しながら低空飛行に入り、危うい、と思った瞬間だった。
演習場の中央にかかったアーチが、視界に滑り込んできた。縒り糸がほどけるように、二匹の軌跡が分断された。内側を抜ける亜邦とは逆に、居虎は亜邦のマークからも自由になってしまう。
が、障害物の使い方は何も目隠しだけではない。鋭い爪がレンガを削り取る、際どい音がアーチの中に反響した。きしむ両足で壁面をつかんだ亜邦は、のけぞった首を突き付ける。飛び出してくる亜邦を狙って、壁の向こうで待っている、居虎の姿が見えていた。こちらを見失った一瞬の隙を、渾身の「椏殻」で狙い打つ。已然石は模擬戦用の偽物だったが、亜邦の馬力は本物だ。幾筋にも分かれた火線が、分厚いアーチを吹き飛ばし、ダイブにかかっていた居虎に襲いかかる。
間一髪、火線を潜り抜けた居虎は、再度上昇にかかった。土煙りに紛れて、上に逃げた亜邦を探していたのだ。「椏殻」は、下に意識を引きつけるための囮だ。そして、視界が開けたその時、玄谷は亜邦を見つけた。距離にして2匹分、通灯を全開にして――居虎の後ろに張り付いていた。
玄谷も負けじと、必死であがき続けた。二回目のひねり込みで、ついに亜邦を引き剥がす。居虎を見失った亜邦は、右下へ折れて速度をかせぐ。同じく、降下してきた居虎と交錯して、後ろの取り合いが始まった。身軽さで優る居虎が、じりじりと亜邦を追い詰めていく。ついに翼端がねじれて、亜邦のバランスが崩れた。居虎が後ろに回り込む。体をねじりながら羽ばたいて、暴れる巨体を居虎の「蛇鳴」がかすめていった。競技場の四隅に立てられた石柱に逃げようとする亜邦、抑え込む居虎、玄谷の判断が一瞬遅れ、狂った戦慄が引き裂かれた。
阿那は急旋回、垂直に上昇をかける。無理な軌道から風が剥がれて、大きく失速した。次の瞬間、きしむ翼で引きずるように、石塔に絡みついた居虎の真上、完全に静止した亜邦が、体のバネで反転していた。玄谷なら、急角度でも追ってくる。風音の読みは的中した。
筋書きを狂わせたのは、期待以上の居虎の反応だった。こちらの攻撃を封じるために、正面から迫ってきた。すれ違えば、失速した亜邦は立て直せない。切り詰められた一瞬が、風音の眼底で火花を散らした。
二匹がすれ違うその時、会場に悲鳴が上がった。二匹がきりもみながら、緑の芝に吸い込まれていった。とっさに伸ばした足の爪で、亜邦が居虎を捉えていた。千切れそうな足を全力で体にひきつけ、回転を制御する。抑え込んだ巨体を大地に叩きつけ、風音はかろうじて首席を守ったのだった。
「まったく、そういうところは、あいつにそっくりだな」
宿合は、大げさに肩をすくめてみせた。
「は、はい。そういうところ、ですか?」
風音には、宿合もまた答えに窮しているように見えた。何かまずいことを口にしただろうか。
「・・・っとだな。打ち合わせは、4時だそうだ。第二会議室に来てくれ。」
「了解しました。4時に、第二会議室」
「ああ。それとな。」歩き始めた宿合が、立ち止まった。
「あいつに、なろうとはするな。先輩からの忠告だ・・・じゃあな」
薄暗い廊下に消えていく背中を見送ると、風音は再び右手を陽光にかざした。
新入隊員代表の仕事は、一言の挨拶と、6度の敬礼だった。貴賓席の父と、一瞬目が合う。誇らしげな面持ちに、熱くこみあげてくるものを感じた。新たな芽吹きのためとはいえ、そこにはたしかに実を結んだものもあったのだ。隊列に戻った後も、しばらく反芻していたために、閉会の辞をしくじるところだった。
式が終わると、色とりどりの料理をいっぱいに積んだ台車が、次々会場に流れ込んできた。丹念に打ち込まれた銀の蔦の葉一枚一枚に、燭台の灯が踊っている。待ちに待った祝宴の時間だ。
賑やかな広間を抜けだして、風音は果奈の姿を探した。石造りの回廊には、柱の影が切り取られたようにして横たわっている。
その中に、二人の姿があった。
果奈が話し込んでいた相手は、幾起ではなかった。見慣れた影は、鍵悟のものだった。内容までは分からないものの、話は弾んでいるらしかった。
「何の話ですか、父上」
ひょいと覗き込んだ風音は、意外にも鍵悟を驚かせてしまったようだった。
「か、風音か。どうしてまた・・・」
「風音には言えない話」
代わりに、果奈が答える。悪戯をしたときにする、得意げな澄まし顔だった。
「話の、私の、か」
風音は気色ばんだ。果奈はくすりと笑って、付け加える。
「うん。みんなも誉めてたよ。女の子で初めての主席だし、鼻をあかしてやれたって。さっきまでは一緒にいたんだけど・・・」
「私は、付き人狙いの軟弱な連中とは違う。何もおかしなことではない」
おまけ抜きで認めさせるには、まだまだ精進が足りないらしい。風音は、両の拳を握り締めた。
「そろそろ、花火の時間だ。私たちも、よく見えるところに移ろう」
鍵悟が、ぎこちない口調で元気づけようとした。
三人は、広場の隅に静かな一角を見つけると、ぽつぽつと話を始めた。
「風音、試合、見たぞ」
支部局長が欠席などすれば、顰蹙もののはずだが、他に思いつかなかったらしい。
「ありがとうございます。父上。――ご期待にそえましたか?」
鍵悟は壁にもたれかかったまま、背伸びをした。上着の袖口から、包帯のかかった左腕が覗く。風音たちにとっては大戦を知っている彼は、特別な世代の人間だった。
「うむ。自慢の種がまた一つ増えた。玄谷も悔しがっていたよ」
鍵悟は風音の肩をそっと叩いて、果奈と向き合った。
「それから、果奈君もよくやってくれた。七年目に風音が引っ張ってきたときには、失礼だが、ここまでできるとは思ってもみなかった・・・今後とも、風音のことをよろしく頼む」
「いえ、これもみんなおじさまのおかげです。あのとき取り立てて下さらなかったら、今頃私も母も、路頭に迷っていたでしょう」
そのとき風音は、肌をさす視線を感じた。右端にある台車の傍、小うるさいだけが取り柄の三人組だ。
「謙遜することはない。きっかけを与えたのは私かもしれないが、今の君を支えているのは君の力だ」
当人の前で蔭口に花を咲かせるうかつ者に、ぎらりと鋭い釘を刺す。
「どうしたの、風音」
果奈も気づいていたらしい。気勢をそがれて、うまく顔が作れなかった。風音が何かを言い出そうとしたそのとき、轟音に会場が震えた。祝宴の終わりを告げる、色とりどりの花火の音だ。太陽の子供たちが躍り出すと、あたりが昼間のような明るさに包まれた。
風音は、静かにため息をつき、明るい夜空に見入った。一つの山を越えたような気がして、胸が高鳴る。特務隊は精鋭ぞろいだ。もう、これ以上屑の相手をする必要はない。耐える必要も。一つの時代が、終わろうとしていた。
ふと、外れたところに花火が上がったような気がした。何の気なしに、そちらを見やる。
「果奈、今」
「何?」
「あっちのほうに、今、上がらなかったか?」
風音は、東の空を指した。
「上がったって、花火?ここより東に?」
やはり、気のせいだったようだ。洛澄本部は、空の富良樹の東端に位置している。その先は、更地どころか、断崖絶壁だ。
「すまない、見当違いだったな」
風音が前を向こうとしたそのとき、次の花火が上がった。今度は、見間違いようがない、輝いていた。眩しい尾を引くでもなく――反射しているのだ。水晶のかけらを夜空にちりばめたような、無数の輝きが、東の空に広がっている。
「父上!」
とっさに振り向くと、鍵悟は家で見せるのとは違う顔をしていた。
「亜邦はどこに」広場の空気が、張りつめていく。
「南の厩舎です」
着いた時には、それしか残っていなかったのだ。果奈が、ばつの悪そうな顔をする。
「私は哨戒に参加する。本部の上空で、待機するように。大至急」
「了解」
すでに、いくつかのグループが動き出している。二人も、後れを取らぬよう、走り出した。広場の西口を抜け、本館の廊下を南に。必死で人ごみをかき分ける。南口を飛び出した瞬間、また花火の音が聞こえてきた。間抜けな歓声を耳障りに思ったのか、果奈がふりかえる。
「果奈、早く・・・」
立ちすくむ果奈の視線の先で、競技場が、燃えていた。歓声などではなかった。目を見張り、探した。洛澄の張った網を潜り抜けてきた、敵の姿を。一体、どんな竜なのだろう。
次の瞬間、立ち上る黒煙の中から現れたその影が、一層大きく開かれた、四つの瞳に映り込む。後ずさった果奈の背中が、風音の肩にぶつかった。
「あれ、何、あれは」
風音の耳には、入らない。
「明、真名(アカ・マナフ)・・・」
頭上を通り過ぎたのは、硝子細工の翼だった。魂よりも透明で、亡骸よりも空っぽな、硝子の翼。振り向いた視線の先には、もはや影さえ残らない。風を切る怪音だけが、夜の帳に突き刺さる。
怪音が鳴りやむ前に、別の音が近づいてきた。耳障りなことこの上ない、居虎の通灯だ。
応戦は、すでに始まっている。風音は奥歯を噛みしめた。
「いくぞ、果奈病み上がりに後れを取ってたまるか!」
ついさっきまで震えていた足で、勢いよく砂利を蹴り出し、果奈の手を引っ張った。果奈もつられて、走り出す。一列目の厩舎の横をとおりすぎると、亜邦たちのいる、二列目が目の前に広がった。
「右から、二つ、いや、三つ目だったか?」
「左から二つ目。来た時とは反対だよ」
思ったよりも、落ち着いた声だった。
急ごう、と言いかけたそのとき、背中を冷たい汗が伝った。振り向いたが、誰もいない。急速に広がっていく、火の手が見えるだけだった。すると突然、その景色の中で、赤く、燃えあがる、炎が、大きく、歪んだ。
「風音?」
果奈もまた、戦慄しているらしかった。
風音が果奈の手首を掴んだ瞬間、目の前の闇から、冷たい光が浮かび上がった。竜ほどの大きさもあるそれは、透き通った頭をこちらに向けて。青白い光弾を掃射してきた。
手じかな厩舎に果奈を引き込む。怪音は、頭上を通り過ぎて行った。薄闇の中、鎖の音と竜の咆哮が花崗岩の天井に反響して、巨大な厩舎がパニックで溢れかえる。
「ごめんね、風音」
果奈は、服に付いた埃を払い落した。
「そんなことより・・・帰ってくるだろうか。」
制服のポケットから、鍵を取り出す。
「無茶しないで。なるべく早く逃げてね」
受け取った亜邦の鍵を、果奈は大事そうにしまった。
そのとき、天井を砕きながら、青白い光弾が無数に飛び込んできた。飛退いた二人の間に、赤く焼けた痕が並んだ。果奈になけなしの笑顔を見せて、壁に開いた大穴に飛び込む。
「急げ!」
手持ちの已然石は3つ。風音が使って相手に効きそうな破羅輪呪は、『吐呪』くらいのものだった。それとて阿那の『椏殻』ほどの威力があるかも怪しい。『椏殻』で相手の注意を引きつけて、果奈から引き離しにかかった。
敵の位置を確認しながら、隣の厩舎に駆け込む。撃ってしまった以上、後戻りはできない。生唾と一緒に、せり上がってきた心臓を呑みこんだ。竜達のざわめきのむこうから耳に障る音がゆっくりと近づいてきた。
恐ろしくゆっくりと近づいてくる。すえたにおいのする空気は、どろりとしてのどを通らない。
3度目の掃射。床に伏せた風音の頭上を、弾と瓦礫がかすめてゆく。風音は奥の手の『吐呪』を放った。
厩舎の屋根が崩れ落ちると、溢れ出した濃密な空気が、土埃を巻き上げた。一帯に広がった土煙りと轟音を、必死の思いで駆け抜ける。
開けた視界の中、敵の影を探すが、羽音さえも聞こえない。風に飛ばされてきたのか、火のついた木片が、厩舎の間に転がっている。
どこか遠くで、花火の音がした。
砂利をけって飛退く。目の前の闇が、俄かに青白い光を纏い始めた。風音の視線が、その姿に吸い込まれる。すらりと伸びた、透明な翼。乳白色の、筋の入った胴からは、細い首がのびている。竜よりも、とりに似ているが、胴に入った目のような模様以外には、何も付いていなかった。子供のおもちゃのようなそれは、到底生きているように見えなかった。
頭に響くかん高い音が、空き地を大きく震わせた。土埃が少しずつ、怪鳥の周りから押しのけられていく。ゆっくりと突進してくる巨体の脇、舞い上がった土埃の中から脚が生えてくるのを、風音は見た。黒光りする鋭い爪が、滑らかな水晶につきたてられると、碁石がぶつかったような、硬い音がした。『吐呪』は外れていなかった。怪鳥ともみ合う竜の脚には、焼け焦げた鎖がぶら下がっている。敵が地面に叩きつけられた衝撃で、細かい砂利が跳ね上がる。狙い通りの展開だった。
だが、厩舎の方を目指して駆け出したそのとき、唸り声と砂利の音に混じって、通灯の音が聞こえてきた。振り返った風音の瞳に、噴き上がる炎が映る。とりついた竜を振り払おうと、硝子の怪鳥が暴れ出した。振り回された翼の先が、敷き詰められた砂利を弾き飛ばす。引きずる竜にバランスを崩して、地面に頭を打ちつけながら、巨大な力の塊は、こちらに少しずつ近づいてきた。
肉弾戦が大きく跳ねて、砂利を巻き上げて着地したとき、ついに竜が引き剥がされた。背中から落ちた竜が大きな音を立ててバウンドし、長い尾が天を仰いで、繊細な巨体がひっくり返る。重荷のとれた怪鳥も、つんのめって転がりながら、風音に向かって突っ込んできた。
揉まれるように跳ね上がる硬質の翼が、すさまじい勢いで迫ってくるのが、いやに緩慢に感じられた。動きがあまりにでたらめで、どちらに転がるか、見当もつかない。凍りついた一秒は、覚悟を決めるのには十分すぎる時間だった。
視界を覆った硝子の巨体は、次の瞬間、朱い渦にさらわれた。ひらひらと回転しながら、厩舎の壁にうち伏せられる。『重禍(ジュヴァル)』だ。当てやすいため、果奈が好んで使っていた。螺旋を描く炎の刃が、怪鳥を粉砕した。
《ごめんなさい、こんなに遅くなっちゃって》
夜空を横切る唯祈の影。阿那も一緒だ。緩やかに旋回して戻ってきた二匹は、砂利の音を立てて着地した。信じていた援軍が、最後の最後にやってきた。風音は、軽やかに駆け寄った。
《いや、助かったさ。そんなことより、迎撃に参加しよう》
言うが早いか、風音が乗り込んだ亜邦は、軽々、宙に舞い上がる。噴き出した通灯の炎が、闇夜に逆襲の軌跡を描いた。少し遅れて、唯祈が追随する。
二人の初陣は、反撃から始まった。
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