のんびりしたシーンなので、比較的緩めに書いている。
本当の正念場はもう少し先になりそう。
しばらく進むと、道が水平になった。滑りやすい足場に苦戦していたシャビィは突然与えられた中休みに胸をなでおろしたが、リシュンは急に立ち止まり、シャビィは危うくぶつかりそうになった。
「どうしたんですか?」
リシュンの肩越しに前を覗くと、ランプのかげりを映す水面が見えた。寺院の下にあったものほどの広さはないが、ここもどうやら貯水池の一つらしい。一面に広がる白い画布の上に、ほの暗い柱が何本か伸びている。
「助かりました。リシュンさんに止めてもらわなかったら、あのまま水槽に飛び込むところでしたよ。」
シャビィの謝辞等気にも介さず、リシュンは広間の入り口に立ち止まったまま左右を見渡している。緊張した面持ちで周囲を探るリシュンの様子につられて、シャビィも固唾をのんで底なしの光を見守った。何やら、行く手から幾つもの足音が聞こえてくる。
「こちらです。急いでください。」
何が分かったのか、リシュンは右手に向かって走り出した。大きな音をたてないように小さな歩幅で走り、二人は水槽の縁を辿って細い横穴に滑り込んだ。
「念のため、ランプの影を体で隠して下さい。物音は絶対立てないように。」
手渡されたランプを庇いながら、シャビィは小声でリシュンに訊ねた。
「追手でしょうか。」
「向きが違います……しっ!」
足音は、ぐんぐん近づいてきた。二人はじっと息を殺して横穴の中にうずくまって足音をやり過ごそうとしたが、足音は小さくなるばかりか、一向に大きく、鮮やかになるばかりだ。ランプの把手を握る手は、寒さに震えながら汗をかいている。ついに足音がひと筋やふた筋のところまで迫り、貯水池に入ってくるかのように思われたその時、水路の奥で大きな音がした。
「コソ泥め、手こずらせやがって!」
遠慮のない罵声の応酬は、冷えきった霧を震わせ、水路を延々と駆け巡るかのように思われたが、拳が飛んだのだろうか、鈍い音がすると途端に止んでしまった。リシュンの顔からはいつの間にか険しさが抜け、瞳には軽やかな光が灯っている。追手達の会話はぼそぼそと聞き取りにくく、それもすぐに終わり、今度は盗人が引きずられる音が聞こえ出した。シャビィは自分が身を乗り出していたことに気が付き、はっとしてリシュンを振り返ったが、リシュンにも咎める気はないらしく、じっと遠ざかる摩擦音に耳を傾けている。そのまま音が光の奥へと沈んでゆくのを確かめると、二人は大きく息を吐き出した。
「今のは一体……」
恐る恐る振り向いたシャビィの口から、なけなしの緊張が抜けていく。地下道に戻ってきた静けさの下には、しかし、今までとは比べ物にならない数の悪意が蠢いているのだ。
「大方、捕物でしょう。夜盗はこの道をよく使いますし、夜景も同じくよく見周りをしています。」
リシュンはいつの間にか立ち上がっていた。
「無論、どちらにも見つかりたくはありませんね……それと、念のために一つ細工を施しておきましょう。」
リシュンが差し出した手に、シャビィは手拭いを返そうとしたが、げんなりした顔に気が付き、ぎこちない手つきで後生大事に抱えていたランプを手放した。
シャビィが手招きに従って道をあけ、水槽の縁を歩くリシュンの後ろ姿を見守っていると、リシュンは通ってきた道の入り口に屈み込み、チョークを使って落書きを始めた。いかがわしいまじないの類だろうか。こっそり近づいて後ろから覗きこもうとしたシャビィに、リシュンは投げやりな説明をよこした。
「最初に通った十字路に印があったでしょう?あれの相方です。」
これも三日月だが、確かに向きが違う。あるいは、二十七日の月なのかもしれない。最後に弧の内側から中央に向かって矢印を引き、リシュンはランプを持って立ち上がった。
「これで心配ないでしょう。あと少しです。」
水槽の縁を伝い、リシュンは足音が聞こえてきた入口に向かって歩き出した。さすがに夜警はもう行ってしまった後だろう。一瞬ためらってから、シャビィも及び腰で後を追い、リシュンの待つ水路の入り口に辿りついた。
「驚かれては困りますから、シャビィさんからお先にどうぞ。」
リシュンからランプを受け取り、シャビィは促されるまま水路に入りかけたが、入る直前になって振り返ってしまった。
「何か?起こるんですね?」
リシュンの涼しい笑顔が、心なしか強張っている。
「振り向かずにまっすぐ進めば差し支えありません――さあ。」
口では勧めながら、リシュンは両手でシャビィを無理矢理押し込んだ。次の瞬間、シャビィの目の前でリシュンが消え去り、両手だけが宙から生えてきた。
「わ、あわわ、」
宙に浮かんだ両手の背後には、霧立ちこめる明るい水路がまっすぐ伸びている。シャビィが自ら後ずさったのを確認すると、リシュンもゆっくりと歩き出した。風景を破って、リシュンの姿が浮かび上がる。
「素直にまっすぐ歩けばよいものを――」
ランプを振った手が小刻みに震え、ヤシ油が零れかけている。真っ青になったシャビィを見て、リシュンは珍しくあけすけに溜息をついた。
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