前からコッソリ思っていたことなど
2巻にちらほら登場する、石田が鯉を思い浮かべるシーン。
そらぱぱさんの解説では「恋」のアナグラムとのことでしたが、それにしては後ろ向きなシーンが多いです。
・「死ぬための資格が足りない」*1
・「やっぱり会いに行くべきじゃない? そーゆーこと?」*2
印象的な割には、意外と出番そのものが少ないんですよね。
出てきたのは二回のみ、そしていずれも石田が「過去の過ちは許されない」と考えるシーンです。
1回目は勿論のこと、2回目「会いに行くべきじゃない」と思った理由についても、
ずっと悩み続け、永束に対して虐めの事と関連付けてを打ち明けていることから同様ですね。
因みに小学生編で直接鯉が出てきたのは石田が硝子の補聴器を潰しまくったという流れの一コマ。
学校の池に投げ込まれた補聴器を鯉がつついています。
ノートを投げ込んだのも同じ池ですね。
石田にとって、鯉は硝子を虐めていた過去を表しているのです。
悪目立ちした挙句クラスメートを道連れにしようとしてハブられた際、
石田はボコボコにされ池に突き落とされたのも、硝子の追体験だから。
(ここを川井曰く「因果応報」と考えると作品の本旨を見失います)
結論として、石田にとって鯉は罪のメタファーと解して問題ないでしょう。
鯉は硝子を虐めていたことそのものを指し、また石田の背負う罪悪感を指しているのです。
また、聲の形本編には他にも鯉の現れるシーンがありますね。
いつも硝子が餌をやっている水路の鯉です。
橋でのシーンには常に硝子が介在するので、硝子にとって鯉の持つ意味も考えねばなりません。
これは、石田の場合とは丁度反対で、虐げられること、排除されることを意味しています。
硝子はデラックス達にも補聴器を川に捨てられていて、
川=補聴器を沈められる+ドブさらいという構図がすっかり定着しています。
硝子がドブさらいをしている姿はまさに悲壮感マックス。
硝子にとって川は、他人に踏みにじられ見えなくなった希望を当ても無く探す場所なのです。
ない、ない、ない、私の幸せ……倉橋ヨエコの歌みたいですね。
でも、硝子の幸せは水底に沈んではいませんでした。
隣で一緒にドブさらいをしてくれる結弦や石田こそが、硝子にとっての幸せだったからです。
そして、これが最も重要なことなのですが、石田と同じく硝子も罪悪感を抱えています。
佐原や石田がいじめられたこと、合唱コンで足を引っ張ったこと、母親を不幸にしたこと……
硝子が何かしたわけではない、と断言すべきところですが、硝子にとっては「私のせい」。
差別と相まって、何かの罰を受けている、世に呪われていると感じたのかもしれません。
硝子にとって川や鯉は「罰・報い」の象徴であり、
だからこそ「私も同じこと考えてた。おかしいね」が出てくるという訳です。
「硝子も自分が悪いって思ってたから、怒れなかったのかな」という結弦の指摘も同様。
小学校編で硝子が石田に「これでも頑張ってる=私は悪くない」と言えたことも、
だから硝子にとって凄まじく大きな意味を持っています。
ここまで話が分かっていれば、大垣総合福祉センター前の川のシーンも解釈できます。
鯉が罪と罰の象徴なら、
鯉に餌をやることはは罪に対して代償を支払うこと、罪滅ぼしです。
二人が一緒に餌をあげるのは、共に罪悪感から解放されつつあることを意味しています。
水路に飛び込んだことも同様に、二人が同じ罪悪感を抱えていること、
けれども、たとえ世の中に拒絶されたとしても、もう二人が一人ではないということです。
加えて、冒頭に石田が飛び込んだ水路。これも全く同じ場所なんですよね。
物語冒頭で石田が水路に飛び込んでいたのは石田の幼さを強調するエピソードでもあるのですが、
ここにも二人のつながりが隠れています。
デラックス達が硝子を虐めていたことはすでに2ちゃんでも話題に上っており、
石田がデラックスをぶちのめしたのを見て一目ぼれした……などという説もありましたが、
私は「石田が川に飛び込んでいる時に硝子がドブ攫いをしていてニアミスした」説を取ります。
実際結弦の回想→靴をパクられたシーン→番外編とシーンが繋がっていて、
お店で硝子と石田は出会っているんですよね。
ドブ攫いしている間に水路に飛び込む石田を見たかもしれませんし、
石田が川に飛び込むのも硝子が補聴器を流されるのも一度や二度の事では無く、
何度か見掛けて「私以外にも冬の川に入っている奇特な人がいる」と思っていたかもしれません。
かも知れないというか、最終回に近い所でその辺の打ち明け話があるような気がします。