中休みといった感じで話が続いているものの、最後のシーンだけは楽しかったかな……
開け放たれた扉の奥で人影を映す自動ドアが、この店の本物の玄関なのだろう。ラーニャを見つけたガラス戸は静かに開き、料理の匂いが表の空気に染み込んでくる。アレクは身体を慣らすため、恐る恐る鼻から空気を吸い込んだ。
「で、グロッキーなアレク君、今日の主役は何をご所望かね?」
レフが問いかけても、返事が来る気配はない。アレクはふらふらと店の中に上がりこみ、料理の匂いを嗅いでいる。
「思ったほど脂っこくないな」
そりゃ、広東料理だしね。ラーニャが話かけると、支配人は二つ返事で5人を奥の席に通した。象牙色のテーブルを革張りのソファが囲み、ランプに入った透かしを映している。
「『妲己』を5人前ね」
オールバックのウェイターが恭しく頭を下げ、入れ替わりにウェイトレスがジャスミンティーを淹れに来た。マオカラーのブラウスは落ち着いたベージュ色で、一面に龍の刺繍が入っている。ウェイトレスが静かに急須を傾けると、ジャスミンティーは淡い湯気と香りを滲ませ、小さな白磁の茶杯に滑り落ちた。
「綺麗な店だな。いつもこんなところで集まってるのか?」
店の中を見渡しながら尋ねると、鮮やかな笑い声が白いテーブルを彩った。
「まさか。今日は特別」
いつもの店は刺激が強すぎるかもね。リイファの返事に、ターニャが付け足した。厚く乗った口紅は、さらさらときめ細かな光を放っている。
「このテーブルはね、ジジイが一年中押さえてるんだ。癪ったら癪だけど、こういうときに使わない手はないじゃん? まあリクエストがあったら言ってよ。アタシの言うことなら大体通るからさ」
群青色の爪がドリンクのメニューを引き寄せ、アレクの前に押し出した。高い店だからなのか、ワインやエールや紹興酒に、見慣れない名前の酒が混じっている。名前だけで味が分かるわけもなくとりあえず赤ワインを頼もうとすると、レフがアレクの脇を小突いた。
「アレクくぅん、お年寄りじゃないんだからさ、もうちょっと景気よく行こうぜぇ」
レフがサブマリンという酒を2つ頼むと、付き合いでラーニャ達も同じものを注文した。辛口で、盛り上がるのには丁度良いのだという。
「ねえねえ、街にはどんなお店があるの?」
ラーニャがテーブルに身を乗り出すと、シフォンの襟がはだけて胸の谷間がのぞいた。
「俺たちがよく行ってたのは、イタリアンだったな。地中海のテラスに似せた内装で、壁に海が描いてあってさ」
各テーブルがちょっとした個室のようになっていて、これがまたのびのびと過ごせるいい店なのだ。アレクは向かいの席を大きく開いた手で拭取り、そこに地中海の昼下がりを描こうとした。
「素敵ー! やっぱり建物は白塗りなの?」
ターニャの甘ったるい相槌に、アレクは頷いた。
「ああ、それに、窓や戸口も本物みたいにしつらえてあるんだ」
小さな歓声が上がり、それからレフが目を瞑ったまま茶杯をかざした。
「本物の地中海か……一生に一度でいいから行ってみたいねぇ」
酒が入ってもいないのに、台詞だけが随分と酒臭い。リイファは肩をすくめ、呆れ顔で窘めた。
「封鎖破りをして? 命がけじゃん」
しょっ引かれるのは元々だって。レフが笑うと、皆もつられて笑い出した。
こんな風に話していると、アジートの住人も普通の人と大して変わらない。楽しいことが好きで、感動もするし、軽口を叩いて笑われたりする。昨日まではアレク達もこうして、他愛ないお喋りを楽しんでいたのだ。
「どうしたのー? 主役が暗い顔しちゃってー」
ノンナ達は今頃、一体どうしているのだろうか。アレクを探してくれているだろうか。心配してくれているだろうか。アレク抜きでいつも通りの日々を楽しんでいるということは、流石にありそうもない。
「いや、友達のことを思い出してさ。俺たちも、こんな風に騒いだりしたんだ」
街に戻れないということは、仲間にも会えないということだ。会えない筈なのに、懐かしむには、彼らの面影は近過ぎる。
「分かる、分かるぜぇ。仲間と離れ離れになって、寂しくないわけないよな……でも。人生別れがあれば出会いだってあるもんだろ」
話が始まりもしないうちに、レフがアレクに抱き付いた。まだ寂しくないなどと言い出せるわけもなく、アレクは曖昧な微笑みを湛えている。
「そうそう、飲んで忘れて、騒げばいいじゃん。街にいた頃なんかよりも、ずっと、さ」
ウェイトレスはターンテーブルの縁にジョッキを並べると、一杯ずつビールを注いだ。サブマリンなどと言う物騒な名前は、単なるビールの銘柄だったのかもしれない。アレクが小さく息をついたそのとき、ウェイトレスは別のコップを配り出した。
「ラーニャ、いつの間に他の酒を注文したんだ?」
アレクの問いはうってつけの肴になった。返ってくるのが笑い声ばかりでは、アレクとしても首を捻るしかない。新入りをからかうために、皆で何か企んでいるのだろうか。考えるまでもなく、答はあっさりと明かされた。
「こちらのグラスを、ビールに沈めてお召し上がりください」
グラスと呼ばれた小さなコップは、無色透明な謎の液体に満たされている。皆が躊躇いなくコップをビールの中に落とす中、アレクは謎の液体をこっそりと嗅いでみた。見た目は水と変わらないが、匂いは消毒用のアルコールにそっくりだ。
「大丈夫だよ。綺麗なコップだから」
問題は中身の方なのだが、こうなっては仕方ない。リイファに言い訳する代わり、アレクは慎ましやかにコップを投入した。コップは瞬く間に白い泡の中へと消え、こつんと小さな音がしたきり、何が起こっているのか分からない。
「これは……このまま飲むんだよな……」
そりゃ、そうさ。レフはジョッキを掲げて、乾杯の音頭を取った。まばらに響くジョッキの音には、それとは別の深い音が混ざり込んでいる。レフ達は一斉にジョッキを傾け、アレクもそれに倣うほかなかった。
辛い。アルコールの匂いが口の中に広がり、喉から沁み込んだ熱が頭に向かって昇ってきた。グラスを何杯も空けたのならともかく、一口目で頭が軽くなってしまうから恐れ入る。
「すごいな。しこたま飲んだ後みたいだ……皆はいつもこんなのをやってるのか?」
そうだよ。ソファに手をつき、ラーニャは浮ついたアレクに迫った。喉元に突き付けられたこの鋭い微笑みは、きっとツツジの蜜より甘い。迂闊に触れて引き裂かれ、我が身で切れ味を思い知った者は、今まで一体どれだけいたのだろう。
「刺激的っしょ? アジートって。アタシ達と居たら、アレク君も絶対退屈しないよ」
碧い瞳の奥に開いた暗闇に嵌まり込み、眼一つも動かせない。縊られるのを待ちながら微かに体を震わせる、アレクは紛れもなく彼女の獲物だった。