ふたり回し

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目撃

知り合いの夢って、逆に見たくないものだね。


 その後ボルゾイのメンテナンスはアキュムレータ、ロータリーエンジン。ガトリング砲と順調に進み、オイルフィルターとブレーキキャリパー、送油パイプ以外には交換が必要なパーツも見当たらない。昼休みを挟んでバラしたボルゾイを組み直し、訓練から戻ってきた車体を軽くチェックしたところでアレクの初日は無事に終わった。

「それじゃあ、お疲れ様。今日は6号車しかばらせなかったけど、アレク君も入ったことだし、明日は手分けして3台片付けよう」

 ういーっす。こうして整備班は解散となり、時差ボケ冷めやらぬアレクは食事もとらずにベッドに直行したのだった。

 いつの間にかアレクは眠りに落ち、そして白いテラスの上に降り立った。今までアレクが出入りしていた、行き止まりの廊下ではない。大理石の手すりに飛びつき、身を乗り出して階下を見下ろすと、そこには見慣れたアラベスクが佇んでいた。同心円状に広がる無数の菱形。間違いない。中庭から入ってすぐの、いつも通る大広間だ。彫刻の溝に食らいついた指先は、中々手すりから離れない。焼けついた息を吐き出し一歩だけ後ずさると、アレクはゆっくりと振り向いた。

 扉はいつもと変わらぬ姿で、アレクの前に立ちはだかっている。木目の隙間からは湿った風が吹き出しており、白い壁の上で薄い陰はなすすべなくはためいた。『ええ、現実に関わりの深い人間同士は、比較的近い所に扉を持っています』心強いアドバイスが、渦を巻いて風音の中に溶け込んでゆく。この扉の向こうにあるのは、ハバロフスクの長閑な日々ではない。薄汚い商店街と、手狭なワンルームと、オイルが染みついたガレージなのだ。

 ツナギの金具が手すりにぶつかり、味気ない音を立てた。アレクが今まで過ごしてきた日々は、優しい夢に過ぎなかったのだろうか。一度醒めてしまったきり、ノンナたちの下につながる扉は二度と現れないのだろうか。アレクは語らぬ扉を前に立ち尽くしていたが、暫くして不意に顔を上げた。

 あの廊下には、まだ他の扉が残っている筈だ。アレクはミツバチのキーホルダーを握りしめ、色濃い風音を背に走り出した。暗い廊下に並んでいた、3,4枚の似たような扉。あの中のどれか一つは、この鍵を知っている。外回りで広間に入り直し、中央の入り口から反り返った廊下を辿って突き当りを左の方へ。歩きなれた帰り道をがむしゃらに手繰り寄せ、アレクはささやかな広間に辿り着いた。チェッカー模様の床に麻布の白い長椅子、壁には赤い幟がかかり、燭台の温かな光が高い天井に打ち寄せている。最後に見た時と何も変わらない、記憶のままの部屋だった。

 それでも、何かが違うとすれば。壁際のポーチに真っ直ぐ突き進み、アレクは一足飛びで段を登った。薄暗い廊下の左側、三っつあったはずの扉はやはり一つ減っている。眉間に寄った浅い皺はあっという間に通り過ぎ、細い目は漆喰の上を滑った。一体どの扉が、どの友人に繋がっているのだろう。見渡すうちに鼻が捉えた微かな香りに誘われて、失われた扉の向かいに眼差しが引っかかった。甘みを含んだこの田舎くさい香りを、アレクはよく知っている。肌寒い日の朝にノンナがいつも淹れていた、カモミールティーの香りだ。油じみた軍手は既にオーク材のノブを握りしめ、気が付くよりも早く扉に体重を乗せていた。

 聖堂には重たい日差しが差し込み、人いきれが渦を巻いている。窓が全て開け放たれているというのに、これではまるでオーブンだ。ブラジャーのベルトの下が汗に蒸れて死ぬほど痒く、アレクはパルミの目を盗んでこっそりと脇を掻いた。この席でもこれだけ暑いのだから、光にかすんだ壇上で説教する司祭様は、たまったものではないだろう。リャサを着こんだまま半時間も直射日光を浴びて、よく平気でいられるものだ。

「……『あなた方の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである』。主に愛されるだけの値打ちがあるかどうか、地上で得たもので推しはかろうとしてはいけません。主は、あなたが活きることを望んでいらっしゃいます」

 窓には蝉時雨が打ち付け、司祭様の声が遠い。浅くて重い息を数えながら、並んだ背中の向こうに浮かんだ至聖所を眺めているうちに、いつの間にか讃美歌が始まっていた。暑苦しいパイプオルガンに気の抜けた歌声が少しずつ溶け出し、遠い天井まで昇ってゆく。随分と声が小さいが、本当にみんな歌っているのだろうか。こっそり薄目を開けた拍子にイコンが目に入り、アレクは小さく頭を振った。そうだ。アレクが無事に治るように、ちゃんとお祈りしなくては。

 おかしい。これではまるで他人事ではないか。アレクが漸く気が付いたのは、当たり前のことだった。今見ているこの夢は、アレク以外の誰かのものだ。口をついて勝手に出て来るアーメンに誘われて、静かな祈りがそよぎだす。

「主よ、どうかアレクをお守り下さい。一日も早く、アレクが戻ってこれますように」

 聞き間違えるはずもない。アレクが一番耳にした、一番アレクが耳にしていた、それはノンナの声だった。別れがあれば出会いもあるとレフは物知り顔に言ったが、ノンナはそんな安物ではない。いつでもアレクを一番に想い、今もこうして、帰りを待ち望んでくれている。アレクは再び座る日の為、ベンチの隅にとっておかれた空席の場所を確かめた。

「アレク、早く良くなるといいね」

 ミサが終わるとパルミはノンナの肩を抱き寄せ、柔らかな声で囁いた。壁画の上の天使たちが褪せて見えるこんな日にも、肩に灯った掌の温もりは頼もしい。すらりとしたパルミの手に、思わず自分の手を重ねていた。

 パルミの慰めは、しかし、あまり長くは続かなかった。西口の方でユーゴの影が振り返り、楽観論を広げたのだ。

「まあまあ。ただの検査なんだろ? 肩透かしを食らって、あっさり帰ってくるかもしれないんだし」

 アレクは検査入院されたことにされていた。感電事故の時と同じだ。表に薄らと影が差し、蝉の声がゆっくり遠のいてゆく。重くべたついた風がアムール川の臭いを運び、ノンナの短い茶髪をさらった。

「でも、何も言わずにいきなりスターリングラードなんて……やっぱり……」

 目を伏せたノンナの背中を、パルミが軽く押し出した。ほら、早くしないとカフェが満員になっちゃうよ。立方体のパターンで埋め尽くされた広場では、教会帰りの人々が所々にたむろしている。スターリングラードなんかじゃない、俺もここにいるじゃないか。アレクは何度も呼びかけたが、ぶり返した蝉時雨にたやすく押し流されてしまった。

「思い詰めると体に毒だよ。子供の家、プールとか忙しいのもわかるけどさ。一度……ちゃんと診てもらった方がいいかもね」

 うん。ノンナが小さく頷き、つばの広い麦わら帽子を被った。白い日差しが降り注ぐざらついた音の波が、か弱いミュールの足音を一息にさらってゆく。温帯に入ってから60年、Cwに入ってから40年。ハバロフスクを洗う夏は、あまりにも暑く眩しい。ゆっくりと培ったかけがえない思い出を、たやすく塗りつぶしてしまうほどに。