ふたり回し

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混線

今回は割と前向き。


屋上から降りるバルコニーはすぐに垂れ下がり、そこに4枚の扉がある。片手をポケットに入れたまま、アレクは手前の扉を開いた。オレンジ色の就寝灯に小さな瞬きを繰り返すうち、目の前は薄板の天井になっている。

「交代だ。おい、オルガ、起きろよ」

 四角い光の中に立つ、オレンジ色の人影。ロニは肘を曲げ、扉の枠にもたれかかっている。タオルケットを払いのけ、アレクは起き上がった。半端な時間に起こされたせいで。生あくびが止まらない。ロニと入れ違いで緑色の廊下に出ると、アレクはガレージに向かって歩き出した。

 いや、違う。歩いているのは、自分、オルガだ。窓に映りこんだ丸顔を見て、アレクは思い出した。夜番が回ってきたので、今夜は署に泊まったのだ。天井と壁のくすんだ緑。近づいてくる柱の重たい緑。ゴムを張った床の鮮やかな緑。ここに来たのは初めてではない。アレクはこの廊下を一度だけ歩いたことがある。刑事について歩いた、夜の警察署だ。

 あの夜を境に、アレクの世界はすっかり変わり果ててしまった。仲間と過ごす穏やかな日々を取り上げられ、代わりに血なまぐさい抗争や底知れない陰謀に繋がれ、今やテロリストに片足が浸かっている有様だ。

 冷たく険しい光の中をじっとりと歩きながら、しかし、アレクは体の動きを抑え込んだ。警察署に出たことは、政府の中心から遠ざかりつつあることを意味している。体から抜けるコツを次第につかんできているのか、アレクの手足は次第にオルガからずれ始め、あっさりと宙に浮かび上がった。

 扉の前に戻ってくるや否や、アレクはそのままバルコニーを突き進んだ。途中でつづら折りの階段を上り、二つ目の踊場で金色のアーチをくぐる。その中に待っているのは、青いタイルを敷き詰めたヴォルト天井の小さなホールだ。右端の扉からいくつか試しに入ってみたものの、寮の談話室でポーカーをしていたり、のんびり風呂に浸かっていたり、本人の仕事がなかなか分からない。中には港の警備をしている者もいたが、イルクーツクでは脈があるとは言えないだろう。アレクは広間を出て階段を下り、暫く悩んでからもと来た道を引き返した。カルラの方には、何か当たりがあったかもしれない。

 屋上に、カルラの姿はなかった。まだ中の広間を調べているのだろう。真白い床の下に広がる階段と廊下のパズルはアジートを呑むほど広い。アレクは隅の階段をかけ降り、アラベスクの踊り場に滑り込んだ。

「天使様ー! どこですかー?」

 純金の手摺りを手繰り寄せながら、アレクは身を乗り出した。吹き抜けを縫う通路に、カルラの姿は見当たらない。扉の中にいるのか、それとも奥に行ってしまったのか。反り返った階段を駆け上がり、幅の狭い回廊を回って、アレクは吹き抜けの底を目指した。窓から差し込む光の壁を、手をかざしてかき分けた。窓の中を雲が滑り、アレクを追いかける。しきりに天使を呼ぶ声には、木霊が返ってくるばかり。結局カルラを見つけられぬまま、アレクは突き当りに辿り着いた。 

 壁際の階段を上り、踊り場から右にそれると、緩やかに捻じれた通路が現れる。その先に見えるのは、円い踊り場の裏側だ。アレクが歩き出すと上下左右の壁がゆっくりと回り出した。吹き抜けに捻じ込まれた幹からは、一本ずつ枝が伸び、その先にオレンジの扉が実るテラスがある。この広間は、青い小部屋よりマシだろうか。一度はノブに手をかけてから、アレクは思いとどまった。行き違いになっては、探しに来た意味がない。階段を降り、中央の通路に戻ろうとしたそのとき、扉の開く音がした。

 後ろだ。見上げた先には、果たして天使の姿があった。白い手すりに縋りつき、片足で段を手繰り寄せている。

「……から……補充……しな……」

 ひどく色あせて、しなやかさのかけらもない、うわ言。アレクは血相を変えて引き返し、カルラは重たげな首を持ち上げた。

「やばっ!」

 白衣の裾がもつれたヒールをからめとり、カルラの体を宙に投げ出した。ぶつかりそうな影に体が身構え、いつの間にか二の腕をつかまえている。だめだ、止めきれない。つかみどころのない勢いがアレクの腕を踏み越え、目の前に広がった。素っ気ない音とは裏腹に、深々と突き刺さる額の痛み。ぶつかったのは、前歯だったらしい。カルラも口元を抑え、手首に血をしたたらせている。

「天使様、お怪我は俺よりもマシでしょうか?」

 血と共に響き続ける鋭い痛みを押さえながら、アレクはもう片方の手を差し伸べた。

「ええ……かげさまで……」

 口元を押さえたままくぐもった答えを返す、カルラ。血のついた手を取ってゆっくりと立ち上がると、階段に広がった白衣が音もなくまとまった。

「失礼、寝る前に採点を終えなくてはなりませんから……」

 カルラの目元には鈍色の疲れが差し、瞳には力がない。覚束ない足取りで、カルラはアレクの脇をすり抜けようとした。

「どうしたんです? 具合がよくないみたいだけど」

 アレクが立ちふさがると、カルラは無理やり押しのけようとした。白椿の細枝も、へし折れないような力で。

「――もう!」

 その一言で使い果たしてしまったらしい。アレクの襟を握ったまま、カルラは肩で息をしている。

「通して下さい、ア――」

 名前を呼び掛けて、カルラはアレクの顔をまじまじと見つめた。ほどけた瞳に、人影が結ばれてゆく。

「アレクさん! 血が!」

 酷い怪我ですよ。何があったのですか? カルラはアレクの前髪をめくって、額の傷を検めた。カルラに言われなくとも、傷はまだ怒り任せに唸っている。夢の中だからといって、不死身という訳にはいかないのだ。

「俺のことより、天使様の方が心配ですよ。足下フラフラしてるし、さっきも何か言ってませんでした?」

 黒い瞳が、ぎこちなく降りて来た。眼差しがぶつかると、言葉も同じように止まってしまう。押し黙った二人の周りで、日差しだけが穏やかに引いてゆき、音もなく打ち寄せた。流れ込んだ光の中で、階段の影は幾重にも交差し、押し殺した息を繰り返す。カルラが瞬きするまでには、随分と時間がかかった。

「……そう、だったでしょうか。気づかない間に、独り言を口にしていたのかも……しれません」

 裾を払う振りをして頑なに顔を伏せ、アレクの脇を通り過ぎようとする、カルラ。その足取りは、広間の奥に向かっている。右にかしいでゆく白衣の背中を追いかけ、アレクはカルラの腕を支えた。

「天使様、無理しないでください。一旦外に出て休みましょう」

 まだ前歯がジンジンしてるんじゃないですか? 通路を戻って階段を下りたところに、三段重ねのバルコニーがある。アレクは日陰のベンチにカルラを横たえ、自分も隣りのベンチに座った。磨きこまれた石材は手に馴染み、ひんやりと心地よい。

「面目ない……却って邪魔をしてしまいましたね」

 眩しいはずがなかろうに、カルラは額に手の甲をあてている。

「まさか。俺一人じゃ何も進みませんよ。昨日今日始めたばっかりなんだし」

 アレクは背もたれに寄りかかり、横倒しの青空を眺めた。左手に広がる広場、広場から突き出した尖塔、足下からゆっくりと浮かび上がる、白い雲。 

「少し疲れが出ただけでしょう。私はもう大丈夫ですから、アレクさんは調査に戻ってください……といっても、この辺りの扉には地方の軍人が多いようですが」

 か細くかすれた声で、カルラはアレクを追い払った。嘘ではないのだろう。今までずっと、一人だけで凌いできたのだから。アレクは小さく鼻で笑い、前を向いたまま言い返した。

「ダメですよ。ちゃんと休憩してるか、見張っておかないと」

 アレクは横目で、カルラの顔を窺った。

「苦手でしょ? 休むのは」

 まだ声は弱々しいが、カルラもつられて笑っている。

「否定はしません……でも、アレクさんもしっかり休みを取ってくださいね」

 アレクは少しためらってから、軽口を叩いた。

「ご心配なく。休むのは得意なんで」

 アレクが作った力こぶを手を浮かせてそっと窺い、カルラは寝返りをうちながら笑った。ささやかな共犯は温かな笑い声に変わり、腹の底からとめどなくこみ上げてくる。二人分の笑い声がこだまするバルコニーは、それだけでもいつになく賑やかだ。

「……今日」

 一しきり笑ってから、カルラは小声で呟いた。

「初めてこの城を、美しいと思えました」

 不謹慎ですね。カルラは石面に映りこんだ空を撫で、染み込んだ言葉の余韻を確かめた。緑の溢れる庭園も、青く鮮やかなアラベスクも、宙を走る階段の影も、全ては出口のない迷い路の一部。昼間に寝ていられないカルラは、夜どころか土日までも、この探索につぎ込んで来たのだろう。カルラの邪魔をしないよう、アレクはしばらく返事を留め置いた。空を押し流していた風が遠鳴りと共に和らぎ、城はひと時の凪にたゆたっている。

 土日。アレクはふと顔を上げた。カルラに必要なのは、当たり前の休日なのかもしれない。次の安息日、探索に費やす代わり遊びに行ってみないかと、アレクはこっそり持ちかけた。危機が刻々と迫る中、羽を伸ばしている暇はあるかどうか。アレクが見守っていると、カルラは目を閉じたまま、小さな声で言い放った。

「たまにはそんな日があっても、罰が当たることはないでしょう」