ふたり回し

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剥離

無駄に膨張した感がぱない。


 翌朝も、バザールは終わっていなかった。暫く動かさないのなら、分解するのに丁度いい。点火ブラグからメモリに至るまで、ボルゾイの総点検だ。動かしていないこともあり滑り出しは快調だったのだが、休憩前になって問題が立ち上がった。

「いけね、バンプストッパーが潰れてきてやがる。アレク、新品二つ持ってきてくれ」

 サス周りの消耗品は、倉庫に入ってすぐ左だ。コードとニッパーを置いて、アレクは素早く立ち上がった。今の作業は遅れ気味だ。懸架台では、もう次のボルゾイがオイルを抜かれている。濁ったオイルを啜り上げる生臭い音をまたいで、白く輝くアルミの扉に手をかけた。

 狭い倉庫に輝くのは、ひ弱な白熱灯一つだけ。左の棚を見下ろして、アレクは小さくため息をついた。何も考えずにカルラを誘ってしまったが、そもそもどこに行けばよいのだろう。今のアレクには、街に入ることすらままならないというのに。バンプストッパーが入っているのは、赤い縞模様のボール箱だ。ミシ目のついた小さな暗闇に手を突っ込むと、指先がビニールの袋に触れた。

 ストッパーを手に戻り、アレクは種類を確認してもらった。前腕部のサスに使うのは、赤いコロネ型のストッパーだ。

「これで在庫はお終いか?」

 先輩はビニール袋を受け取り、ストッパーを一つだけ取り出した。

「いや、棚の下にもう一個箱がある。それにしても買い足さねえとダメだけどな」

 ダンパーの軸にストッパーを通し、コイルを挟んで固定すると、先輩は膝に手をついて立ち上がり、大声でレフを呼んだ。

「おーい、レフー! 新入りを買い出しに連れて行ってやれー!」

 レフは立ち上がって振り向いたものの、吸引機が五月蠅いせいか、大声で聞き返してきた。

「……すかー?」

 これでは埒があかない。先輩はアレクを連れて、懸架台に駆け寄った。血抜きされ、力なく横たわるボルゾイ。見た目はさして変わらないはずなのに、近づくと軽くなっているのが分かる。

「買い出し? ああ、いい機会っすね。アレク君に任せることもあるだろうし」

 コンクリートに靴底がぶつかる、硬い音がした。ガレージの低い天井に足音が木霊し、少しずつ吸引機の音に飲み込まれてゆく。レフは立ち上がると、出口を指さして歩き出した。

「うーし、じゃあ行きますか、街!」

 意外な行先に、アレクは目を白黒させた。

「街? 大丈夫なのか?」

 助け出されてきたものを、そんなに簡単に帰ってしまえるものなのか。アレクが尋ねると、レフはにやりと笑った。

「その点は俺に任せたまえ」

 変装なら得意分野だぜぇ。レフは笑いながらアレクを引っ張り、自分の部屋まで連れて行った。

「なあ、レフ。関係ない質問なんだけどさ」

 ブラシをかけるレフの手は、意外と落ち着き、我慢強い。得意分野とレフは言ったが、一体今まで髪を何色に染めてきたものか。退屈な毛染め剤の匂いを吸わないよう、アレクは口で息をした。

「作動油を抜かれたボルゾイって、なんか死体みたいだよな」

 鏡の中のレフに向かって、アレクはぼそりと尋ねた。

「そりゃ、動かしようがないからねえ……でも、油を注入しなおしたら、もう完全に生き返っちゃうんだな。ってゆーか、生まれ変わる」

 今度一遍、訓練に立ち会ってみろよ。老い先短い白熱灯の黄ばんだか細い光の中で、後ろに流したアレクの髪は陰気臭く輝いた。姉妹で鏡に向かっているならともかく、男同士では様にならない。

「オイルを入れ替える前と後じゃ、まるで別物か……」

 アレクは目を閉じ、溜息をついた。粘ついたクリームの下で、アレクの髪は、一体どうなっているのだろう。

「お前さあ、もうちょっと行きたいところとかないの? 久しぶりの街なんだぜ? ちょっとでも帰れんのよ?」

 余分な毛染め剤を拭取りながら、レフが聞き返した。押しつぶされた髪の房から、沼地を歩く足音がにじみ出る。

「帰れるって言ったって、戻れるわけじゃないさ」

 嘘ではない。寮や職場に戻れないどころか、仲間に無事を知らせることすら命取りだ。出来るのは、自分のいない街を眺めることだけ。伸ばせない指先は、膝の上でツナギを握った。

「それに……俺はもう……」

 アレクは乾いた声を絞り出した。今のアレクは、見付けてしまうかもしれない。満ち足りた日々に潜んだ、取り返しのつかない歪みを。

「分かった。ちょっとは遊んで行きたかったけど、それじゃあさっさと買い物だけ済ませて、真っ直ぐ帰ってくるとするかぁ」

 俺ってば、誰もが認める優等生だからね。レフは軽く笑って、真っ黒な紙を捨てた。

「ありがとう」

 毛染め剤が染みこむまで、二人は実戦部隊の悪口を吐き出し、それからアレクはシャワーを借りた。黒い渦は排水溝に消え、鏡の中には見知らぬ男が残っている。黒い髪、金の眉、青い瞳。随分とミスマッチだ。

 シャワー室から出て来たアレクを見て、レフは得意げに頷いた。

「よし。これで街に入っても大丈夫だな」

 男は鏡の中から、アレクを苦し気に見詰めている。確かにこれなら気づかれないだろう。警察にも、保安局にも、そしてノンナ達にも。レフの用意した服に着替え、シャワールームを後にした時、男はもう何者でもなくなっていた。

 心なしか大通りがいつもより静かなのは、バザールのせいだろうか。アレクが尋ねると、レフは左手を指さした。

「そうそう、皆あっちに行っちゃってるんだよね。それでホールが使えないから、今日はこっちから出掛けるってわけ」

 指し示した先にあったのは、暗く細い階段だった。天井には一つも灯りがなく、先の方は暗闇に溶けている。アレクが壁に両手をつき、恐る恐る足先を延ばしたそのとき、後ろからアグラーヤの声がした。

「あれ? レフじゃん、やったね」

 レフの変装は、今のところ効いているらしい。アレクが振り返ると、アグラーヤは眉を寄せた。

「俺だよ、アレクだ……街に行くからって、変装させられた」

 白状してから、アレクは瞬きした。そういえば、今日はアグラーヤも普段と感じが違う。水色のワンピースに白のカーディガン。妙に大人しい格好だ。引き返してきたレフを、アグラーヤは甘ったるい声で誘った。

「やっぱ行くんだ、街。それならさあ……ねえ、アタシも連れてってよ」