今回は、設定を見せる回という感じ。
モチ、モチ。レフはアグラーヤを、二つ返事で手招きした。不良娘がついて来たからには、男の買物では終わるまい。苦笑するアレクを押しのけ、アグラーヤはとっとと階段を下りていく。迷っていては、置いてきぼりを喰らってしまう。両手で壁を押さえながら及び腰で二人を追いかけ、アレクがたどり着いたのは、剥き出しの電球が輝く、小さな始発駅だった。
「よぅし、アレク君、持ち場に尽きたまえ。俺たちは馬車馬、そしてお嬢が御者だ!」
線路の上に載っているのは、台車に囲いをつけただけの、貧相な乗り物だった。足場の真ん中には腰の高さの柱があり、その上には長い持ち手が付いている。アレクはレフに言われた通り反対側の持ち手を握り、小さく上下に動かしてみた。レフの持ち手が僅かに上下し、手応えにぶつかって止まる。
「なんだこれ? ……シーソーになってる?」
アレクが首をかしげると、レフはなぜか相槌を打った。
「お、分かってるじゃん。このシーソーをキッコンバッタンするのが、俺たちの仕事ってわけ。ほら、そこ、クランクになってるだろ?」
台車の下までは見えないが、シーソーからはロッドが下まで伸びている。
「トロッコっていってな、ここが炭鉱だったころは、コイツで石炭を運んだのさ」
アレクが気付くのを待って、レフはゆっくりとシーソーに体重をかけた。足場が少しだけ動きだし、体が後ろに引っ張られる。
「さ、出発進行!」
アグラーヤが乗り込むと、レフは大きく顎をしゃくった。今度はアレクが押す番だ。
「そうか。よっ……こらせ!」
シーソーは、見かけよりもはるかに重い。台車に加えて、3人分の体重を推しているのだから、これで妥当と見るべきなのだろう。アレクが最後まで押し込むと、今度はレフがシーソーを漕ぎ、トロッコは暗闇の中を少しずつ滑り出した。小さなライトがかき分けたささやかな視界の中を、石くれや凸凹が勢いよく流れてゆく。
「慣れてきたねえ。上手いもんだ!」
レフの声は、金具の悲鳴にすり潰された。シーソーを漕ぐたびにハンドルのペンキが砕け、血反吐の混じった咳の音がする。この車両には、間に合わせの部品しかついていないようだ。
「なあレフ、この車にはなんでサスがないんだ? さっきからガタガタ言いっぱなしだぞ」
アレクの文句に、レフは聞き返した。
「何だって? 声が小さくて聞こえないって!」
車輪がレールの継ぎ目にぶつかったのか、足場が大きく突き上げた。暗闇の中で、アグラーヤは無責任に大声で笑っている。
「もっとマシな車はなかったのか!」
アレクはありったけの声で叫び、アグラーヤに拍車をかけた。
「悪いねアレク君、コイツがグリーン車だ」
運動しながら笑うと、あっという間に息が上がる。二人は情けなく喘ぎながら、トロッコを漕ぎ続けた。真っ暗な廃坑を流れるのは、荒削りな車の音ばかり。町までは、あとどれくらいあるのだろう。少しばかり息を整えアグラーヤに尋ねると、20キロとの答えが返ってきた。
「一体いつになったら着くんだ」
弱音を吐きながら、しかし、アレクは胸をなで下ろした。覚悟を築くための時間は、まだたっぷり残されている。このトロッコの向かう先で、何がアレクを待ち受けていようとも。
指の付け根の皮がめくれ、血がにじみ出したころ、闇の奥底に黄色い光が見えてきた。
「ラーニャ、ゴールって、いうのは、あれか?」
シーソーにもたれかかり、途切れ途切れの質問を吐き出した。膝も肩も擦り切れて、震えているのがトロッコなのか、体なのかも分からない。
「そそ、お二人ともお疲れ様」
濁った闇の中に、転結機とボロ小屋が浮かび上がっている。重労働だった割には誰かが迎えてくれるわけでもなく、どことなく侘しい終点だ。レフもいつの間にか手を止めており、トロッコは次第に遅くなった。止まったからには、ここが街の地下なのだろう。
「それじゃ、先に買い出しを済ませっか」
レフとアグラーヤはトロッコから飛び降り、ボロ小屋の中に消えた。首を傾げながらも、アレクにはついて行くほかない。
「レフ、ここに何が――」
言いかけて、アレクは声を上げた。扉をくぐった先が、アジートにあったのと同じ、細い階段になっている。隠し通路というわけだ。
「何って、パーツ屋だよ? 整備工場をやってるのは、表だけだからねぇ」
レフの影は肩を竦め、逆光の中でにやついている。アレクはレフを押しのけて階段を駆けあがり、熱気の中に躍り出た。埃っぽい薄闇の中で、トタンの天窓と開き戸の隙間だけが白く切り抜かれている。
「よう、兄ちゃん、新入りかい?」
ツナギを着た年寄りはアレクに一瞥をくれ、それからまたテレビに目を戻した。ブラウン管からは青白い光がにじみ出し、ノイズ混じりのリポーターが吹雪の中で愛の不毛叫んでいる。
「ああ、よろしく。整備班の下っ端だから、これからは世話になる……どこだ? オーストラリア?」
アレクは目を細め、画面のテロップを追いかけた。ハバロフスクに夏が居座っているときは、オーストラリアに冬が来る。
「パースだ。随分ひどいらしいな」
振り向きもせず、老人は頬杖によりかかった。真っ白なデッキの向うは雪嵐にかき消され、どうなっているのか分からない。ただ、辛うじて見えているのは、何もない大きな広場だけだ。
「ちわっす、爺さん、俺がこないと暇だったんじゃない?」
レフがアレクの後ろから、老人をからかった。地下では寒そうだったレフのバミューダパンツが、地上に出た途端涼し気に見える。それがアレクにジーンズをはかせた張本人なら、なおさら。
「馬鹿言え、野郎が何人来たって――」
振り返ってアグラーヤの姿を認るが早いか、老人は飛び起きてボスの娘を大歓迎した。
「お嬢! こらたまげた! しばらく見ない間に、また別嬪さんになったんじゃねえかい?」
座った座った。パイプ椅子の埃と錆を払い、老人はアグラーヤに差し出した。
「先月来たばっかりじゃん。ナブ爺は大げさなんだから」
肘で小突かれたわき腹から、早速酔いが回ったらしい。一か月分の口説き文句を、老人は一気にまくし立てた。
「いやいや、お嬢の顔が見れねえと、たったの3週間が5年、いや10年あるんじゃねえかってくらい、とにかく、長くってよお。それもこんな錆臭い倉庫で、ずっと一人きりさあ。このオイボレは、もうお嬢に会えるのだけが唯一の楽しみで、なんとか死に損なってるんだから」
この御大の舞い上がりようには、アジートきっての三枚目も苦笑せずにはいられない。
「年が行くと5年、10年が数日に感じられるって、この前言ってなかったっけか?」
レフの冷やかしに、老人は噛みつき返した。
「それがどうした! 数日が10年なら10年は1200年だ!」
アグラーヤは、アグラーヤで腹を抱えて笑い出し、倉庫の中は大騒ぎだ。この倉庫も、一応隠れ家の一つではなかったのか。アレクは老人の肩を軽く叩いた。
「爺さん、俺たちの他にも、客が来ることはあるのか?」
老人はアレクを振り返り、腰を丸めて歩き出した。
「たまーにな。普段は解体で手に入れたパーツを、整理するのがワシの仕事だ」
老人が指さした先には、くたびれた段ボールが山と積まれている。
「表側に並んでるのが中古、奥にしまってあるのが新品。修理で使った中古のうちいくらかを新品だったことにして、お前たちに回してやってるってわけよ」
アレクの目を見て、老人は唇の端を曲げて見せた。擦り減った唇には、もうあまり皺が残っていない。
「そうか……そういう風に党からいろいろ流れてるのか。テロリストの物資は、全部アメリカの援助だと思ってた」
的外れな思い込みに、レフは小さく項垂れた。
「アレク君、あれは封鎖破りなんだぜ? 安いもん運んだって、割に合わないでしょうが」
反政府活動には、アメリカが関与しているものと見られます。街にいた頃は、それがニュースの決まり文句だった。エカチェリーナやコルレルの話を聞き、彼らの出自を分かっていても、刷り込まれたまやかしは薄れない。テロリストは、アメリカの差し金なのだと。
「見て見て! 船が刺さってる!」
男たちの話など気にもとめず、アグラーヤはニュースを見続けていたようだ。叫び声に引きずられ、アレク達はテレビの周りに集まった。家屋に船が突っ込んだのだろうか。見れば真っ白な雪原に、漁船が舳先を埋めている。広場のように見えたものは、港の海面だったのだ。
「港が全部氷付けか……」
アレクが口元を覆うと、レフは相槌を打った。
「流石にこれは初めて見たわ。爺さん、これ、毎年こんなもんなの?」
老人は、何も答えない。渋い顔が青ざめて見えるのは、テレビの光のせいだろうか。
「レフ、これ見てたら、なんかスケート行きたくなってきた……さっさと買い物済ませてこうよ」
オマケだったアグラーヤが元の用事を思い出すとは、皮肉なこともあるものだ。レフは老人に最後のストッパーを見せ、同じ内径のストッパーを探してもらった。薄汚れた段ボールの山から同じ品が出て来るあたり、老人も長年倉庫番をやっているだけのことはある。アレク達は100ドルを支払い、一人ひと箱ずつ段ボールを持って降りた。