以下、メシ回!
工場から出てみると、そこはハバロフスクの街中だった。アムール川左岸の工業区で、アレクもよく仕事で来た界隈だ。緊急の用事といえば、大半が製造ラインだった。
「おかしいな……なんで、いつの間に……」
目を瞑り、太陽から目を背けたアレクに、レフはサングラスを握らせた。アジートに慣れた目に、外の日差しは険し過ぎる。幸い路面電車の駅は近く、電車もすぐに捕まえられたが、目に焼き付いた赤い影は中々消えてくれなかった。
橋を渡るとすぐ左手に、スケートリンクが見えてくる。スケートはロシアのお家芸。暑くなっても廃れぬようにと、川沿いを埋め立てて作られたのだ。白いドームの内側は、真夏でも勿論涼しい。満身創痍の男二人がぼんやりと眺める中、アグラーヤはひらひらと氷の上を漂い、たまにジャンプをして周りから拍手をもらった。笑顔に包まれて暮らす、穏やかで、明るい、清潔な日々。いつになれば、この中に帰ることができるのだろう。溜息をつきかけたそのとき、背の高い女が視界に飛び込んできた。いきなり目を伏せたことをレフは訝しがったが、アレクは何も答えない。アレクは暫くしてからそろそろと顔を上げ、女がパルミではなかったことを確かめた。
買い物にせよ食事にせよ、アグラーヤはとかく飽きっぽい。スケートの場合も多分に漏れず、しばらくすると戻ってきて、モールを見ると言い出した。荷物持ちが二人もついているのに、買い物をしない道理はない。レフ謹製の偽造配給券はあっという間にファッションアイテムで埋まってゆき、アレク達は両手両肩に紙袋を積載する羽目になった。
「ねえ、アレク。街のことは詳しいんだからさ、今日はアレクがアタシたちを案内してよ」
一通り店を回ると、アグラーヤは昼の相談を持ち掛けた。レフが口を挟もうとしたが、そんなことを許すアグラーヤではない。僅かに一瞥をくれただけで深々と釘を刺し、アレクの首に抱き付いた。
「アレクがよく彼女たちと一緒に行ってたお店、アタシも一遍見てみたいなぁ……」
囁いた耳元からゆっくりと回ってゆく、毒。動かすことができるのは、せいぜい首くらいのものだ。
「……分かった。連れて行くよ」
ラッキー。アグラーヤが離れると、残忍な花の香りが薄らいだ。辺りにはいくらでも店があるというのに、いざ歩きはじめると、アレクの足はおのずと教会に向かい、そして辿り出してしまう。夢の中で見た、ノンナ達の足取りを。
「ここからすぐのところに、雰囲気のいいイタリアンがあるんだ」
店に近づくほど、アレクの足は冷え固まってゆく。まさかユーゴ達と、店で鉢合わせるようなことになるまいか。二人の問いかけを適当に流しながら、アレクは顔を伏せたまま歩いた。夏の日差しは、何もかも暴き出してしまう。
「それっぽい店が見えてきたぜぇ? アレクくぅん」
レフに言われて顔を上げると、そこには白い壁のレストランがあった。あれから一か月も経っていないというのに、最後に来たときの記憶は随分と色あせている。
「テラス席と中の席があるんだけど、どっちにする?」
なんとなく尋ねると、アグラーヤが聞き返した。
「テラス席? 裏にあるの?」
通りに面した店先には、ちょっとした植えこみがあるだけだ。二人は目を瞬かせ、白い壁についた出窓を訝し気に覗いている。
「裏っていうか、中にあるんだ。ティレニア海の見える、崖の上の町みたいな感じで……屋上の一つ一つが、個室になってる」
あの内装をまとめるのは、どうにも難しい。話が伝わったからか、伝わらなかったからか、アグラーヤはそれ以上何も訊ねなかった。
「ふぅん、凝ってるんだ……でも、今日は外を歩いて来たから、薄暗いところでのんびりしたいな」
ここではやはり、彼らの方がよそ者なのだ。アジートを懐かしむ前に、物陰に飢えてしまう。
「俺も。久しぶりに日の光を浴びると、キツイっすわ」
サングラスのブリッジを手で押さえ、レフが相槌を打った。こうして日の光にあてると、二の腕は太さに合わず生白い。まだ肌に色があるか、アレクは手の甲を見て確かめた。
「それじゃ、早く店に入ろう」
自動ドアの向うには、爽やかな涼しさが待っていた。大量の紙袋が目についたのだろうか。カウンターの女性は目を丸くしたものの、それ以上に訝しがることもなく、屋内の席に通してくれた。
「割といい雰囲気だし、やっぱり広いねぇ。街のお店は」
レフは椅子を傾けて、窓の外のテラスを眺めた。軽やかな日差しに白いテーブルが輝いている。窓際の席に当ったお陰で、少しは開放感を味わえそうだ。
「どうだ? 気になったメニューはあるか?」
逆立ちしたメニューの中で、ボスカイオラの名前だけが妙に煩く浮き上がっている。このピッツァを好きだったのが、一番煩い男だったせいだろうか。
「あ、マルゲリータだ。レフ、見なよ! トマトが乗ってる」
そういえばアジートには、あまり野菜が出回っていない。生野菜となるとなおさらだ。二人の目には、サラダの方が生ハムより鮮やかに映るのだろう。アレクは夏野菜とシーフードのパスタに、特大のマルゲリータ、クエとスズキのカルパッチョを付けてもらった。
「やっぱ、食い物は街の方が旨いわ」
パスタを白ワインで流し込み、レフは熱い息を吐き出した。まだマルガリータが来ていないというのに、これでもう4杯目だ。オレンジ色の麺を巻き込みながら、アレクもアルコールの混じった溜息をついた。帰りのトロッコは、一人で漕ぐ羽目になるかもしれない。
「買い出しのある時は、いつもついでに観光していくのか?」
アレクは残ったフォークの先で、アスパラガスを突きさした。香ばしい緑の照りはしっかりとした歯ごたえと共に砕け、仄かな甘さと辛味だけを残して腹の底に下ってゆく。
「買い出しっていうか、アタシたちのいる時はね。用事がなくても、時々遊びに来るよ」
アグラーヤは赤いパプリカを突き刺し、目を閉じてじっくりと噛みしめた。腹が膨らんでいる間だけは、流石のアグラーヤも可愛いだけの子供だ。
「それじゃ、知らないうちに、街ですれ違ってたのかもしれないな」
アレクは腰を浮かせて、自分の分のパスタをよそった。二人が野菜ばかり持って行くので、大皿にはホタテとエビが妙に沢山残っている。
「お待たせいたしました。こちら、マルゲリータ(大)でございます」
横合いから声をかけられ、アレクはフォークを握ったまま会釈した。気が付かないうちに、アレクの脇には黒いエプロンのウェイトレスが立っている。
「お熱いので、火傷なさらないようご注意ください」
ウェイトレスの言う通り、ピッツァの上で、チーズはまだ煮えたぎっている。にじみ出た油が泡をたて、おおらかな湯気が立ち上り、文句なしの焼きたてだ。トマトの赤とバジルの緑で彩られた、ナポリの真珠。ブランドトマト角切りを傷つけないよう、レフは大真面目でピッツァにナイフを入れた。
「レフ、さっさとしてよ!」
アグラーヤは身を乗り出して小皿にピッツァを受け、二人を待たずにかじりついた。良く伸びる白い生地、糸を引くチーズ、皿の上にしたたる油。ただのマルゲリータの筈が、アグラーヤを見ていると、世界の絶品に見えてくる。レフに切り分けてもらうや否や、アレクも早速ピッツァを掲げた。バジルソースがこぼれないよう、両側から挟んで二つ折りに。熱さを気にせず、思い切り頬張る。
柔らかい。久し振りに食べたピッツァは噛むほどに弾み、満ち足りた温かな旨みが溢れた。二人のことを不思議がっていた筈が、飲み込む前に、もう一口頬張っている。懐かしの味を忘れないよう、アレクは必死にピッツァを詰め込んだ。