勿論前回の記事は釣りです。重要なのはこちら。
カードというものが何なのか、これが私のアプローチです。
対戦CGIというものがあります。
遠くにいる人と、オンラインで対戦できてしまうというサービスで、
面白いことに、カードがいりません。
カードがなくてもカードゲームが成り立ってしまうのは、なぜでしょう。
カードを疑似的に再現している、といえばそれまでですが、
この構図には、遊びの本質が、色濃く表れています。
遊びを定義する言葉として、自己目的の行為だ、というのがあります。
要するに、楽しくてやっているのであって、何かのためではない、ということです。
しかし、遊びという行為には、もっと違った側面もあります。
それは、遊びには「ルール」があるということ。
皆さんがDMを始めた時、いったい何を最初に調べましたか?
答えはいろいろあるでしょうが、
「遊び方」はその中に絶対含まれています。
洗濯機には使い方があり、道路には歩き方があり、社会には振舞方があります。
それでも、遊びにおける「ルール」ほどの意味は持っていません。
遊びにおいて、ルールはすべてです。
ルールによって、遊びの面白さが決まってしまうといっても差し支えありません。
この「ゲームのゲーム性」とは、まさしくルールのことです。
私たちはルールによって、
現実とは違った「約束」を持った世界に投げ込まれます。
その新たな世界で、
現実の世界ではありえない駆け引きが生まれ、また工夫も生まれてくるのです。
TCGにおいても、それは同じこと。
ホイル加工がしてあっても、カード自体に実行力はありません。
ゲームにとって重要なのは、カード自体に刷り込まれたルールです。
公式FAQに載っているものだけではなく、
例えば、ブレイズクローは一コストで出せるという。
これも立派なルールですし、カードの存在自体が、一種のルールなのです。
そのルールを組み合わせてデッキを作り、戦わせるのが、カードゲームです。
そういう意味では、カードゲームは、規制の法律を駆使した、
法廷バトルのようなものだという見方もできます。
事実、でっち上げられた価値同士、約束同士が勝敗を決めるのですから。
遊びにおいてルールが最大の関心事となるのは、このためです。
そして遊びは、ルールの作る異世界を共有することで、成立します。
その共有を、すなわち遊びを拒むことが「反則」です。
というわけで、DMモドキは両プレイヤーが合意すれば、
一つのゲームになり得ます。
問題なのは、DMとDMモドキが戦うとき。
これはゲームにはなりません。
DRは、DMをするところです。それだけを理解させればよいのです。