ふたり回し

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擬似対談とパノプティコンその2

少し間が空いてしまいましたが、

擬似対談の象徴的な意味について、いくらか考えを巡らせてみましょう。


・擬似対談の企て

擬似対談を用いることによって、

すなわち、複数の登場人物による会話を演出することによって、

書き手は一体どんな効果を得られるのでしょうか。

漫才か、視野の拡張か、それとも単なる賑やかさの演出なのか・・・

例え、その狙いがどんなものであっても、行為そのものは変わりません。

それは、「他者性の導入」です。


・方向性の回復

前回お話したのは、ネット上の個人の在り方の変化です。

すべての方向に開かれていると同時に出口を見失ったメッセージは、

射線をもたない*1無数の視線にさらされています。


擬似対談の登場は、その中で、一つの揺り戻しともとれます。

対談の中のセリフは、方向性を持ち、異なった視野に支えられています。

少なくとも、そのように演出することはできます。

そこから、賑やかさであったり、価値観の多様性といった、

掲示板上のやりとりに含まれる要素を拾い上げること。

擬似対談の目的は、意識的にせよ、無意識にせよ、

「メッセージの方向性と間主観性を回復する」ことにあります。

小学校の教科書などに擬似対談が組み込まれているのは、

大人である書き手が子供の視野を導入しなくてはならないことを考えると、

非常に象徴的な事例です。


・箱庭の中の他者

しかし、擬似対談の企ては、大きな自己矛盾をはらんでいます。

それは、対談の中の他者性が、ただひとりの書き手により演出されていることです。

賑やかなおしゃべりも、活発な議論も、楽しい漫才も、

すべては一人の脚本家の生み出した幻。

擬似対談の表現上の特色は、

出発点である書き手の意図によって、粉々に粉砕されてしまいます。


むしろ、内包された他者性は記事の内側で議論を完結させようとするため、

外部からの他者の介入は、一層難しくなってしまいます。


・演劇としての楽しみ方

このように、主張の中に混入された他者性は、

自身を破壊し、記事を自己完結させてしまいます。


しかし、これは擬似対談が全く無意味だということを意味してはいません。

揶揄に用いた、「演出」という言葉にこそ、その意義は現れています。

ドラマとしての、作品としての面白みです。

人物のやりとりや、各々の感情を楽しむ分には、擬似対談は無害ですし、

「先づ読ませる」ためにも、面白いと思わせることは重要です。


ただ、そうした演劇としての楽しみにとっては、

書き手の存在は不純物でしかありません。

特定の視線に支配された構造物が不特定多数の視線にさらされたなら、

その立体感はたちどころに看破されてしまうでしょう。

不自然なところが出ないように、書き手は対談の奥に隠れる必要があります。

ですから、文章が持っている本来の目的であるところの主張は、

絶対的なものとして扱われてはなりません。

吊り糸を暴かれた人形は、その命を絶たれてしまうのです。


・身を削る書き手

言説の内部への他者性の導入は、言説から他者性を排除し、

演劇の中への主張の挿入は、演劇を茶番に変えてしまいます。

ですから、言説を擬似対談の形で著すことは、擬似対談に主張を盛り込むことは、

ジェンガを積み上げるに等しい、書き手にとって非常に危険な行為。

両面からの破局を目指しながら、崖っぷちで踏みとどまろうという、

非常に困難な企てなのです。

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*1:誰に見られているか分からない、見ていてもバレない