ふたり回し

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原生都市(上)

既に書き終わったものだが、長いので三分割した。

SFなのかゴシックなのかは私にもわからない。



 重たいドアをおそるおそる押し開くと、拓巳の部屋はカーテン越しの冷たい月明りで満たされていた。寝静まった闇の中に、散らかった文机が青白く浮かび上がっている。転ばないよう慎重にゴミをよけながら、危うげな足取りでベッドの脇を抜け、椅子を引き出し、弱々しい溜息とともに腰を下ろす。今もわが身を取り囲む主を持たない視線に震えながら、拓巳は端末器官を通して文書作成ソフトを立ち上げ、ディスプレイの中の白紙を睨んだ――どんな瑣末な事柄でも、事件に関わるものは余すところなく書き遺さなければならない――拓巳は息を大きく吸い込み、散乱した記憶を拾い集める。ルシフェリンの放つ冷光の上で、ひしめく色素胞が静かに動き出した。


『これは、現在軽傘を騒がせている例の怪談と、並行して起こったいくつかの不正アクセス事件について俺が知っていることの全てだ。俺が置かれている状況は世間が期待しているより幾分深刻だし、俺には俺が危惧している結末を迎える前にこの告白を書き遺す義務がある。そうしなければ、真相を語る人間が誰もいなくなってしまう。

 真実を永らえさせるために、俺は俺の身に起こった事を努めて事務的に語らなくてはならないだろう。これが狂人の妄想の類であればどんなに有りがたいか分からないが、俺の無邪気な楽観は今にも燃え尽きようとしているし、その時誰にも信じてもらえなかったのでは困るからだ。いささか味気ない文章になってしまうかもしれないが、俺に残された時間でどこまで書けるかさえ分からないのだ。許して欲しい。


 幸いにして、俺の自白しなければならない失態は騒動の発端でもあった。盆休み半ばの水曜だったから、あれは八月二十日ということになる。 帰省ラッシュが始まって動物園が空いてきたら、特設展のシロフクロウを見にいこう。ガールフレンドだと言えば怒るかもしれないが、ギムナで知り合った女の子と約束していた。

 多くの軽傘(かるかさ)市民にとって、2羽のシロフクロウはこの夏最大の関心事だった。この2羽はアラスカの研究機関から軽傘市設立二十周年を記念して贈られたもので、軽傘が世界初の完全生体都市だと教えられてはいたものの、俺が実際に凄さを実感したのはこれが初めてかもしれない。生息地を失い、今ではわずかに31羽がアラスカの冷蔵庫で飼育されるばかりとなれば、これだけもてはやされるのも無理からぬことだ。

 現にその日も、客もまばらな動物園の中、特設展の前だけに何十人もの客が並んでいた。一週間前までは連日三時間待ちの行列ができていたというから、それでも俺達は得をしたと考えるべきなのだろう。待つこと十分、俺達は光に満たされた白塗りの広間に通された。うっかり動物園からのアクセスを許可すると、端末器官を通して次々と展示の説明が視野に送り込まれてきた。シロフクロウは実はミミズクの仲間だとか、レミングが主食だとか、小忙しくいろいろなことを教えてくれたが、その中で気になったのはこの部屋がシロフクロウの生育環境をイメージして造られた、ということくらいだ。なるほど、部屋の中央には十畳余りの雪原とつつましい岩場が設けられ、硬質樹液製の壁を周囲に巡らせてある。なるべく大勢の客に見せるための工夫には違いないが、行列の上流には相応の群衆が湧いているものだ。木霊は俺を引っ張って広間の中心へ分け入ったが、それでも人の頭の間から岩場が少し見えただけ。端末器官から垂れ流された有りがたい解説をバックに、俺達はなすすべもなく出口へと押し流された。

 一方通行のゲートを抜けると、アラスカの銀世界から一転、そこには青みがかった薄闇が広がっていた。木霊は俺の腕にしがみつき、ついでに俺の足をミュールの踵で二、三度ばかり踏みつけた。『ミネルヴァの森にようこそ。このエリアでは、世界中のフクロウとミミズクの仲間が活発に活動する様子をご覧いただけます。』回線が開きっぱなしになっていたことに気づいて、慌ててアクセスを切る。どうやら、夜行性のフクロウを展示するエリアらしい。暗さに目の慣れた群衆はゆっくりとほどけ出し、人工の月明りと案内表示を頼りにめいめいの行き先へと散ってゆく。人いきれから解放された俺達は出口に向かう一群と別れて、空気の澄んだ方、澄んだ方へと逃げ込んだ。

「結局、あんましよく見えなかったね。チケットの分だけ損しちゃった。」

 奥に進むに従って人気がなくなると、木霊はあけすけにかこち出した。通路の手すりに腰かけて足をぶらぶらさせている木霊に、俺は無難な相槌を打つ。

「ホント、あれはマジモンのぼったくりだったな。雰囲気は出てたけど、フクロウが背景に紛れちゃってさ。」

 シロフクロウの擬態を見せようとした企画者の矛盾したコンセプトは、森のゾーンにも反映されていた。ドームに覆われた人工の夜を、フクロウ達は活き活きと飛びまわっているらしい。かすかな羽音に混じって、時折オカリナの低音に似たつかみどころのない鳴き声が聞こえてくる。声の主を見つけようと作りものの夜を見渡すうちに、俺は余計なものを見つけてしまった。

「この先に展望台があるってよ。元が取れるかどうかは分かんないけど、どうする?行くか?」

 ゆるやかなスロープを上ってゆくと、次第に木々の影が密になり、遊歩道を横切る冷たい月明りの方が目立つようになった。透き通った静かな闇に、こわばったミュールの音が沈んでゆく。

「ヤバ気になってきたね。なんか出てきそう。」

 上着の裾を引く手が、心なしか重くなった気がした。盆の半ばとはいえ、昼過ぎの動物園に出現するのはせいぜいスリや置き引きくらいのものだろう。互いに顔が見えないのをよいことに盛大に苦笑しながら、しかし、俺は木霊の可愛い心配に付き合ってやることにした。

「幽霊ね……そういや、この間妙な噂を聞いたな……」

「やめてよね、こんなときに限って。」

 ミュールの音が小刻みになり、気色ばんだ顔が黒い帳の向こうに浮かぶ。期待通りの反応に味をしめ、俺は夢中で噂の続きを考えた。

「それがさ、フクロウで思い出したんだけど……出るらしいぜ、フクロウが。」

 いつの間にか、それまでかすかに聞こえていたフクロウの羽音や鳴き声が、森の奥に引いていた。その時の俺は迂闊(うかつ)な思いつきに得意になるばかりでろくに考えてみようともしなかったが、今思えば、偽物の森を隠すための偽りの夜は、俺の戯言にじっと耳を傾けていたのかもしれない。

「始まりは、ただの空メールなんだってさ。」

 くだらない出まかせだった。ただの出まかせのはずだった。

「ある日突然、承認していないアカウントから差出人のないメッセージが届く。メッセージ自体は白紙なんだ。でも、メッセージの届いたその日の晩に、奇妙なことが起こり出す。」

 闇に這食(はいば)む遊歩道は、少しずつその首をもたげながら俺と木霊を深みへ誘(いざな)う。木々の影はますます密になり、確かに近付いているはずの月明りが、森の奥へと逃げてゆく。

「遠くから、フクロウの声が聞こえてくるんだって。あんまり小さい音だから、風と間違える奴もいるらしい。だけど、一日、二日、三日と夜を重ねる度に、鳴き声は大きく、近くなる。そうしていよいよごまかしが効かなくなってきたころに、奴が姿を現すんだ。」

 知らないうちに小走りになっている木霊を追いかけながら、続かない息を振り絞って一心に語り続けた。これだけ急いで辿っていても尽きる気配のない道が、さほど広くはないこの棟のどこに隠れているのだろう。荒い息とはやる足音、主のない鳴き声を飲み込む底抜けに飢えた闇が、知らぬ間に俺達を捉えていた。

「メッセージが届いてから初めて見る満月の夜、それまでで一番大きな鳴き声が響いてくる、その方向をそっとカーテンの隙間から覗いてみる。程近いところに大きな影を認めて、正体を確かめようと眼を凝らしたその時……」

 上り坂が不意に終わり、月明りが夜に弾けた。いつになれば着くのだろう、と気を揉んでいたが、なんのことはない。向こうが頃あいを見計らっていたのだ。闇夜に慣れた目をかばい、とっさにかざした両手の向こうで、木霊が小さくあっと叫ぶ。俺はためらいがちに伸びた木霊の指の指した方を見やった。手厚く何度も塗りこめられた黒い夜空にぽっかり空いた、白く冷たい月の窓から、遠く離れた高枝に。静かにたたずむフクロウの小さな影がのぞいていた。

俺は決して忘れはしないだろう。嫌でも夜毎思い出す、厚みを持たないあの影を。


「……ため、スクリプトの記号には最小単位であるT,A,C,Gではなく、各コドンの表している20のアミノ酸と終止コードに対応したA~Wまでのアルファベットが用いられるようになりました。さらに簡略化の進んだ言語では、タンパク質を直接指定する記法、条件分岐をモジュラ化してマスターキー遺伝子を省略した記法が開発されています。ここまで来ると、ほぼ現行の言語に……」

 その三週間後、休み明けの「遺伝論理学基礎Ⅱ」の講義を、俺は朦朧(もうろう)としながらも酔っぱらった筆致でなんとかノートにとり続けていた。教室内は見渡す限り顔の分からない理工系の生徒ばかりで、早くも俺は一割二分の脱落組に入っていたようだ。

「もっとも、この時点で実用段階にあった技術は、極めて原始的なものでした。水質浄化や薬品、燃料の合成に用いられるバクテリア程度はイェックハルト記法でも設計可能ですが、現代的なオートアニマのはしりである製糸アニマの登場は、二〇八四年の……」

 講義の大半が経文に聞こえようが、打ちひしがれた板書が罫線をまたいで彷徨(さまよ)おうが、俺にはちゃんとした勝算が、もとい、勝利を確約する心強い援軍がついていた。欠伸を噛み殺しながら隣の席を窺(うかが)うと、木霊は期待通り、工作アニマにも劣らぬ素晴らしい速度で緻密なノートを生産しているところだった。

「……へ、蛍光灯からルシフェリンの灯りへ、携帯端末から端末器官へ、コンピューターからニューロクラスタへ。こうした鉱山資源からの脱却を可能にしたのが、正にこのコドンスクリプタなのです。」

 教授は手早く書類をまとめると、スライドを切り替えた。

「次回は簡単なタンパク質のコードについて解説しますが、その前に簡単な小テストを行います。トリプレットの一覧を覚えてくるように。」

 顔をうずめた両手の指の間から、ぽつぽつと立ち上がって退出してゆく学生が見えた。連中の大半は、今すぐにでもテストをパスできるに違いない。

「初っ端からキツイな。」

 俺は乾いたため息を吐き出すと、力なく机の上に突っ伏した。

「あれ?遺伝って文系でも必修じゃなかった?」

 目を円くして覗きこんだ木霊を横目に、俺は精一杯の言い訳をした。

「授業はな。バカレロアは数学を選んだから、遺伝は要らなかったんだ。」

 ため息混じりの告白に、木霊の眩しい笑顔が弾けた。

「呆れた。そんなんでよくとる気になれたね。」

 一旦苦笑して見せてから、俺は珍しくも神妙な顔つきで答える。

「そりゃ難しそうだったけど、木霊の専門って、どんなことやるのかなーって思ってさ。」

 メルヘンチックな返事を期待しながら、虚を突かれてたじろぐ木霊をじっと見つめたが、木霊はただうちそば向いて

「またそんな調子のいいことばっかり言って……」

 とボヤいただけだった。

 厚いケラチンで塗り込められた緑の街が、乾いた秋の日差しを受けて放つ煌めきに、木霊は何を見たのだろう。呑気な俺は木霊の肩越しにのどかな昼下がりをぼんやりと眺めながら、しかし、木霊のことが少しも見えていなかったのだ、と今になって思う。

「知りたい、か、拓巳、私も知りたいことがあるんだけど。」

 木霊は少しも振り返る素振りを見せずに、少し上ずった声で尋ねた。何々?何でも聞いてよ、と聞き返すと、木霊は息を小さく吸って、

「拓巳がさ、動物園でオバケの話をしたじゃない――あの話って、最後はどうなるの?」

 俺は視線を泳がせたが、どこにもうまいオチなど転がってはいない。会話の中にぽっかりと空いた空白に、足下深くから唸り声がゆっくりと流れ込む。真下に流れる高速水路を、大型の船舶が通ったらしい。

「どうだったかな?俺が噂を聞いたの、大分前だったから……」

 このとき、木霊の問いに答えはなかった。答えがないままにしておくこともできただろうし、もっと気のきいた答えもありえたのかもしれない。だが、俺にはバツの悪い沈黙に耐えるだけの我慢強さもなければ、軽やかに話題を切り替える機知もない。焦りの中に浮かんだのは、月並みな結末だけだった。

「まあ、怪談なんだからさ、魂を吸い取られちゃうとか、そんなんだって、どうせ。」

「そっか……そうだよね、ごめんね、変なこと聞いて。」

 俺は熱のこもったため息を吐き出し、木霊の肩を軽く叩いた。

「もう秋なんだからさ、怪談じゃなくて、食物の話をしようぜ。この間も、駅の近くに新しい店ができたみたいだし、連れて行ってやるよ。」

 幸いこの提案は功を奏したらしく、木霊の気分もいくらか良くなった。こうして俺は、デートの約束をとりつけつつ、次の教室に滑り込むことに成功したのだった。


 このときは、この話ももうこれきりだろうと考えていた。俺は自分のでっちあげた怪談のことなどすっかり忘れたまま二、三日を過ごし、週末にひかえるデートを心待ちにしながら金曜日を迎えた。そして、その金曜日に、ゼミの仲間からどこかで聞いたような話を聞かされる羽目になったのだ。

「そういえば射鷹、この間変な噂を聞いたんだけどさ。」

 どうやら最近、差出人不明のメッセージが出回っているらしい。メッセージ自体にはなにも実害がないのだが、しばらくすると、メッセージを受け取った者のところに夜な夜な何かが通ってくるようになるという。始めのうちは姿も見せず、家の周りから小さな嘆き声が聞こえるばかりだったのが、声は夜を重ねるごとに近くなり、しまいにはとうとう声の主が姿を現すのだそうだ。ただ、声の主を見たものは誰一人として生き残っておらず、その正体に関する証言は得られていない、というのがこの話の結びだった。

「お前まさか、マジで信じてるわけじゃないだろうな。」

 渋い顔で尋ねると、鳴谷は唇の端を曲げ、

「当たり前だ。でも、この手の話は女の子にウケるからな。」

 収集するに越したことはない、と得意げに答えて、持論を証明すべくふらふらと女の子のグループの方へ漂っていってしまった。横目に鳴谷の背中を見送ると、俺は頬杖をついて小さく鼻を鳴らし、昼下がりののどかな街を見下ろした。出どころの知れた噂ほどつまらないものはない。きまりが悪くて言い出せなかったが、だから、それも結果としては悪いことではなかったのだろう――手放したチャンスの大きさが見えていなかった俺は、このとき白状しなかったことをなんとも思わなかった。「それは、俺の考えた冗談なんだよ」と。


 あくる朝、俺は早めに家を出てギムナの近くの緑地公園に向かった。木霊の家からも近い、広々としたところだ。立ち並ぶ家々から伸びた梢は高い空を貫く澄んだ日差しに彩られ、明るい風が水路を渡るたびに照り返す冷たい光が影の上で楽しげに踊る。涼やかな秋の朝を深く吸い込み、軽傘の町並みは鮮やかに輝いていた。レストランの下見は済ませてあるし、ピークを避けるために待ち合わせも早めにした。アクシデントがなければ、最高の一日になるはずだ。軽い足取りで太鼓橋を渡り、色とりどりのギャラリー通りを抜けると、右手にはナラの木立が見えてきた。

 西口から中をのぞくと、陽気のせいか公園はなかなかに賑わっていた。犬の散歩をする子供もいれば、臆面もなく肉を焼く学生たち、ジョギング中の老人、ベビーカーを並べて談笑するママ友たち――一帯を見渡したが、まだ木霊の姿はない。幸い普段待ち合わせに使っている南側のベンチには誰も座っておらず、俺はとりあえずそこに腰かけて木霊を待つことにした。

 木霊は約束していた十一時半よりも5分ほど早く公園にやってきた。軽やかな秋風にゆったりとした黒いパンタロンをなびかせ、木陰に紛れた俺を探してゆっくりと歩む木霊は、まだまだ力強い真っ白な日差しの中で眩しく輝いていた。俺は立ち上がって小さく声をかけ、陰の縁まで歩み出て大きく手を振る。木霊が俺の姿を認め、手を振って笑顔を返すと、俺は手招きしてベンチに戻り、梢の囁(ささや)きに耳を傾けた。

「オハヨ、待った?」

 隣に腰を下ろした木霊は、俺の顔を覗きこんだ。

「いや、全然。まだ約束の時間にもなってないのに。」

「よかった。」

 木霊は大きくのけぞって思い切り木漏れ日の香りを吸い込み、

「あー、涼しー!」

 と歓声を上げた。

「まだ昼間は暑いな。まだ夏物着てる人もいるし。」

 斯く言う俺も、この日はサンダル履きだった。北向きのベンチから捉えた公園の全景は雨ざらしのポスターに劣らず色あせて見え、不規則な形をした影の輪郭は鋭く、青々とした芝に焼きつけられている。肌寒さの混じった不思議な色合いの風だけが、そんな長めの中に隠れた目には見えない境目をすり抜け、うっすらと木陰を染めていた。

「よし、まだ少し早いけど、行ってみよう。」

 俺は勢いよく立ちあがると、木霊の手をとって引っ張り上げ、レストランに向けて歩き出した。駅が近づくにつれて人通りは多くなり、俺達は歩きながら道行く人々のファッションチェックをした。気温の命令に従ってタンジェリンのバミューダパンツと〝NODOCA〟製の畳サンダルを履き続ける少年、おそらく通年ライジャケであろうパンク系の男、さっきすれ違った女の子の、どこまでが紐でどこからが生地なのか分からない服は〝Catacomb〟の新作か?木霊曰(いわ)く、時折見かける網代のホットパンツは、夏のコレクションで〝めう〟というモデルが流行らせた物らしい。

しばらくしてレストランの軒先が見えてきたところで、木霊に総評を求められた。人によって装いが異なる季節の変わり目に、しかし、あえて正解を挙げるとするなら――

「涼しげな夏物を基調にしつつ、色使いや小物に秋の香をしのばせるのがベストだ。」

 と結んで、木霊の襟元を飾るサフランイエローのスカーフを指す。我ながらなかなかうまく決まった方だったが、木霊はコロコロと愛らしい笑い声を洩らすばかりで、喜びも恥らいもしない。

「ああ、これ?ありがとう。でも、これは友達の真似なんだ。」

 聞けば、ギムナが始まってすぐ木霊は地方から戻ってきた仲間と買い物に出かけたという。このスカーフは、その時沙天という女の子が結んでいたもので、気に入った木霊は店を教えてもらったのだそうだ。席に案内されてから、アサリの冷製パスタが出てくるまで、久しぶりに会った友人の変化や、彼女たちが夏休みの間に捕まえた男の話など、木霊の話は体験と伝聞の間をあてもなく彷徨い続けた。しばらくしてギャルソンが運んできたパスタは、トマトの赤が眩しく、大粒のアサリがごろごろとのっていた。料理もさることながら、繊細な水仙の模様の入った皿は美しく、今時なかなか手に入らない陶器製だ。レストランだけあって、やはりいいものを使っている。俺はパスタをとりわけながら、女の子のおしゃべりの奇妙なライフサイクルについて考えを巡らせた。或る言述は別の話者に寄生し、そこで分裂した娘言述は、次のおしゃべりにもぐり込み……そうこうするうちに、俺の反省は無用にして迂闊(うかつ)な質問に行き着いた。

「木霊……その日、友達に動物園のことも話した?」

 木霊はグラスの水を口にしてから、こともなげに答えた。

「したよ。まずかった?」

 何もまずくはなかった。少なくともこの時の俺は、何も気づいていなかったのだ。ギャルソンが新たに運んできたピッツァを切り分けながら、俺はたどたどしく弁解した。

「いや、ちょっと気になってさ。ほら、あの日、話をしただろ……ええっと、フクロウ館でさ。」

 心なしか、木霊の笑顔が強張った。居所の知れた藪蛇をつついたせいで、念の入った予定が狂ってはたまらない。俺はひきつった脳みそで上手い落とし所を探したが、木霊の返事は俺よりも一足早かった。

「うん……あのさ、拓巳、そのことなんだけど。」

 水を継ぎ足しに来たウェイトレスが、訝しげに俺達を見比べた。こんなことになるなら、配膳がアニマまかせのファミレスの方がマシだったのかもしれない。

「いいって、いいって、害のない与太話さ。皆だってマジだと思ってるわけじゃなし。」

 タイミングはずれてしまったが、木霊を責めているわけではないことは分かってくれただろう。胸をなでおろした俺に、しかし、木霊は食ってかかった。

「マジかもしんないじゃん。皆だって、噂してるし。」

 気色ばんで身を乗り出した木霊にぐっと押しこまれ、俺は椅子がこける寸前までのけぞった。あの話は創作ではない。少なくとも、木霊にとっては。噂の出所を知っていたばっかりに、俺はそんな簡単なことさえ忘れていた。

「ごめんな、マジメに考えたことがなかったから気付かなかったけど、よくよく考えたらホントかもしれない。」

 足下から伝わってくる高速水路の筋肉の振動は、みぞおちで暴れる早鐘と共に会話を横切る溝の底に沈んでゆく。水路が真下を通っていたせいだろう、穏やかな表情を必死に支えながら蒼白な木霊の顔を見守っていると、底の知れないボゥという大きな音が、二人の間をこだまの速さで駆けて行った。水路の残響にせかされて、木霊はようやく口を開き、

「本当だよ、ホントに……ホントに、聞いた人がいるって――」

 訴えは尻すぼみになり、木霊は眼を伏せて黙りこんでしまった。俺は木霊の手を優しく握り、ゆっくりと問いかけてみる。

「そっか。聞いたのか。何を聞いたの?」

「夜になるとね、窓の外から、くぐもった音が聞こえてきて。」

「うん。」

「それが、フクロウの声みたいなんだけど、窓を開けても何もいなくて、どこからともなく声だけが聞こえてくるんだって。」

 どこかで聞いたとおりだ。俺は立ち上がると閉まらない顔で震える木霊の肩を抱き、血の気の引いた耳元に小さく囁(ささや)いた。

「俺達も気をつけなくちゃな。木霊も、何かあったら、すぐに俺に伝えてくれ。」

 大丈夫だ、何とかしてやる、と無責任に何度も繰り返すうち、木霊はしばらくして持ち直したのだった。


 その日の晩を、俺はプロメテウスの下読みにあてた。単語を調べながらポセイドンの帰ってゆくところまで読み進め、キリのついたところで大きく欠伸をする。机の上はそのままに、灯りを消してベッドに潜り込もうとしたそのときだった。じき日付も変わろうというのに、メッセージの通知がきた。鳴谷の奴が思いつきで、合コンのメンバーでも募っているのではないか、と確認して、表示された項目に我が眼を疑った。個人の端末向けのメッセージは、一度軽傘の管理システムを経由してから自宅の演算アニマに届けられる。演算アニマから端末器官へのデータ送信にも管理システムにつながったアンテナが用いられる程だから、そもそも発信元の分からないデータが入りこむ余地がない。

 のどに息を詰まらせたまま、おれは視床に入力された二つの空欄を眺めていた。『差出人不明のメッセージ』――。鳴谷の法螺話が眠気に満たされた重い頭にふつふつと浮かび上がり、歪んだ唇の間で弾けて苦笑に変わる。確かに噂の通りだが、あれはそもそも俺の出まかせなのだ。一瞬でも信じるなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 それでも俺は、メッセージをそのまま消すことができなかった。このメッセージが誰か知り合いの悪戯ならば――小さく息を吸って、メッセージを展開する。5秒、10秒、20秒。メッセージからは、何もロードされない。力を抜いて背中からベッドに身体を投げ出し、髪を両手で大きく書きあげながら、俺はかすれた声でひとりごちる。

「そりゃ、何も書いてないわな。名前も書いてないくらいだし。」

 それにしても、随分と手の込んだ悪戯もあったものだ。噂を聞いた誰かがしかけたのか、あるいはただの馬鹿が、メッセージの破損……重たいまどろみの中で都合のいい解釈は互いの輪郭を失うまで混じり合い、かすかに芽生えた不安の影をゆっくりと呑みこんでいった。


 翌朝ギムナに出てくると、噂は益々繁殖スピードを上げていた。木霊の身辺で少し流行る程度かと思いきや、いつの間にか他学部はおろか、上級生や下級生の間でもちらほら話題になっているのを耳にする。それもよくよく聞いてみると、声の主は空を覆い尽くす程大きなフクロウだとか、睨まれたものは石にされてしまうとか、本当は森の奥に連れ去られてしまった者がいるとか、仔細(しさい)はてんでバラバラだ。根も葉もないあだ花など一週間ともつまいと踏んでいたものが、根を張るどころか尾ひれを身につけて泳ぎまわっているのだから、世間も存外いい加減なものだ。

 幸福なことに、俺はメッセージのことを忘れたまま二、三日を過ごすことができた。木霊も普段通りのケロリとした様子で、俺は馬鹿げた噂を真剣そうに話す連中を見下ろして、鼻で笑っていられたのだ。人々を躍らせる噂の正体を、俺は「知って」いる。俺だけが、噂が嘘であることを「知って」いる――そうした得意げな気分が続いたのは、しかし、週の半ばまでだった。


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