ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――その4

今回は若干説明が多め。

説明も説明で楽しめなくはないのだが・・・


 一方、事情を知らない豊氏は首をかしげた。

「安全?何を言いだすのかね?浜の方と違って、この界隈は十分安全だよ。」

 大通りに面した大きな窓からは、静かな夜風が勢いよく流れ込んでいる。窓辺のプーリーを回して通りを覆う幌をたためば、リシュンが占いをしていた辻とは比べ物にならない、清潔で健康的な風景が見えるだろう。だが、その中には先の追手が混じっているはずだ。あるいは、いつ襲ってこないとも限らない。ロビーに入ってから、シャビィとヘムはしきりに中庭を窺っていた。

「いや、どうも先ほどから不埒ものに付け回されているようでしてな。こうしてお邪魔したのも、そのことでご協力をお願いしたかったからなのです。」

 門主の話を聞いて、もともと細かった豊氏の目がさらに引きしまった。

「それは一大事だ。大師様、私どもにできることならなんなりとお申し付けください。」

「豊さん、かたじけない。徳の高い友人は何よりの宝です。じき寺から迎えが来るので、それまでかくまって頂けますかな?」

 手を合わせて一礼した門主に付き合いながら、豊氏は、

「勿論ですとも。もとよりおもてなしさせて頂く所存にございます。小蘭、お茶の用意を頼むよ。」

 召使に指示を出し、一行を応接間に案内した。

 四階の応接間からは、夜のナルガ島が一望できた。路地から漏れたかすかな光が街中を縦横に走り、陰をとるための窓がそこかしこで光を放っている。昼の間なら、対岸が海峡に移りこんだ姿も望めるだろう。この街では、高い区域に居を構えることこそが何よりの贅沢なのだ。

 皆が席に着くと、召使いが手押し車に乗せてジャスミン茶を運んできた。仄かに甘い香りを放つ白磁の湯呑みとにらみ合う傍ら、シャビィはちらりとリシュンの様子を窺った。この館にリシュンがいたのは果たして偶然なのだろうか。あの角で占いをしていたことがそもそも不自然ではなかったか。聞けば、この占い師には豪商の得意先が幾つもあるという。裏通りに茣蓙を広げる理由がないのだ。そして何より……本当に、リシュンには影がないのだろうか。それとなくリシュンの背後の壁に目を走らせて、シャビィは思わず声を上げてしまった。窓からうっすらと差し込んだ陰の中、リシュンの後ろには、確かに同じ形の影があった。あったが、その影は周りより明るいどころか、陰の中にあって一層暗かったのである。

「リシュンさん、か、影が!」

 シャビィの指摘で気づいたヘムは、青筋を立てて怒鳴った。

「占い師、貴様、妖かしの類か!」

 ヘムが両手を叩きつけた拍子に、蛍手をあしらった湯呑がテーブルから浮き上がった。門主は静かに右手を差し出し、鼻息荒いヘムを黙らせ、リシュンを見据えながら穏やかに尋ねた。

「下でお会いしたときから気になってはいたんじゃが……あなたは“お客さん”ではありますまいか?」

 リシュンに集まっていた視線が、一転して門主に吸い寄せられた。

「多麻州に流されてから、もう5年になります。その前には、向こうで言うところの倭国に暮らしておりました――大師様は、他にも亭客を御存じなのですか?」

 寺院に納められた膨大な文献の中には、“亭客”や“亭殊州”の記述が散見される。亭殊州とはテジュス、即ち梵語の明にあたる言葉であり、同じく梵語で暗を意味するタマス、多麻州、と対置される異界の名称である。亭殊州は文献によって冥界であるとか、物的世界に対する精神的世界であるとか、もう一つの現世であるとか、はたまた古代に滅びた帝国の名であるとか、好き勝手に解釈されていたが、知識人の間においてさえ一種の思考実験、仮定上の存在、あるいは苦行や瞑想に失敗して幻覚にあてられた修行者の妄想の類と目されていた。

「いや、本物にお会いしたのはこれが初めてですよ。先代の顕在であった頃には亭客の門徒も見えたそうですが。」

 苦笑した門主に、リシュンはあの涼しげな微笑みを返した。

「つかぬことを伺いました。実を申せば、私もこちらに来てから一度も亭客に会ったことはないのです。」

 一方で、亭客の存在は疑いようのないものである。黒い影を持つ人間はどの時代の歴史書にも必ず登場し、しばしば社会不安を引き起こした。多い時期には奏国の首府に何千人もの亭客が流れ込み、今は炭影通りと呼ばれる区域に亭客街ができたと言われている。ただ、ナルガが開発された頃から亭客の数は減り続けているらしく、今となっては亭客という言葉自体が多麻州から消え去りつつあった。




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