ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――丙

その26からその36までを一括。

乙より続く


 翌朝、シャビィは物音で目を覚ました。明るいながらも部屋の中が見えるのは、まだランプが消えていないからだろう。蔵の中で寝過ぎたせいか、ゆうべはなかなか寝付けずに、かすかに聞こえるリシュンの寝息と夜明け前まで闘っていたシャビィだが、一度眠ってしまうと、起きるのは辛いものである。重い目をこすりながら、シャビィは大きく欠伸した。

「おはようございます。」

 慎ましい部屋を見渡し、ベッドの上にリシュンを見つけて、シャビィは呑気に首をかしげた。さっきの音は、どうにもリシュンが立てたわけではないようだ。リシュンの寝顔には下ろした髪が何本かかかって、不思議なほどあどけなく見える。

 うっとりと占い師に見蕩れる不届きな禅僧を叩き起こしたのは、天井を駆けまわる荒々しい足音だった。

「リシュンさん、起きてください。大変です。大変なことになりました!」

 こんなに奥まった場所だというのに、寺院はどうしてすぐ突き止めることができたのか。シャビィは血相を変えてリシュンに駆け寄り、細い肩を激しくゆすったが、リシュンは顔をしかめてシャビィに一瞥をくれると、何も言わずに寝がえりをうってしまった。藤のベッドもぎしぎしと、主と同じく機嫌が悪い。

「眠っちゃダメです。刺客です。私たちは見つかってしまったんです。」

 足音は、今も頭の上を徘徊している。シャビィの手を払いのけ、リシュンはひずんだ声で応えた。

「あれは上の人です。」

 シャビィは目をしばたかせた。

「上の人?上の人ですか?」

 リシュンは二度寝を諦め、小さく呻きながら起き上がった。誰の仕業か、この坊主頭は簡単に納得しないよう作られているらしい。

「この上には別の家が建っているのです。あの人は市場で働いているそうなので、朝は早いでしょうね。」

手櫛で髪を直すと、リシュンはぶつぶつと恨み事を呟きながらおぼつかない足取りで台所に向かった。朝に弱いのか、洗面器に水を汲む様子も、どこかぎこちない。

「お騒がせしました。」

 いつもの癖でさすった頭には、うっすらと毛が生えている。シャビィは手を止め、部屋の隅に置かれた鏡を覗き込んだ。

「おはようございます。ゆうべは……お互いよく眠れなかったようですね。」

 顔を洗ったせいか、戻ってきたリシュンの顔はいくらか引き締まっている。シャビィは鏡の中のリシュンに、小さく会釈した。

「おはようございます。」

 頭の上から足音が離れてゆき、最後に扉のしまる音がしたきり、物音はぴたりと止んでしまった。

「寝足りない気もしますが、もうこのまま動き出すことにしましょう。とりあえず、私は水を汲んできます。」

 手桶を取りに行こうとするリシュンを、シャビィは呼びとめた。

「手伝わせてください。それくらいのことなら私にもできますから。」


 シャビィは言われるまま、リシュンについて昨日の道を引き返した。かめを担いで階段を上り、柱廊を抜け、螺旋階段を下りてゆくと、水汲み場には先客がいた。

「あら、リシュンちゃん、お早いお目覚めだね。」

 浅黒い小柄な婦人は、親しげに笑いかけてきた。温かな笑顔を飾る、目じりの皺がやけに眩しい。

「おはようございます、シャンカさん。」

 いろいろありまして。器用な微笑みを浮かべ、リシュンは肩をすくめてみせた。

「いや、それにしても珍しいもんだね。あんたが男を連れ込むなんてさ。それも、その……」

 夫人は笑いをこらえながら、リシュンを骨ばった肘で小突いた。

「お坊さんをさ。」

 リシュンはシャビィに目くばせしてから、口に手を当てて笑った。

「ご冗談を。情夫ならもっとましな人を捕まえますよ……なんといっても、私は恋の『専門家』ですからね。」

 違いない、婦人に合わせて、リシュンは一層大きな声で笑った。いかにも酷い言われようだが、生臭坊主よりは、それこそ遥かにましである。

「先日リシュンさんに危ういところを助けて頂いたので、お手伝いさせてもらえるようお願いしたんです。力仕事なら、それなりに自信がありますから。」

 嘘を付けないシャビィの怪しげな説明に、婦人は一応納得がいったらしい。

「ふーん、それで水汲みね……ちょっと待っててね、これで最後だから。」

 両手でしっかり綱を掴んで、婦人は勢いよくつるべを巻き上げた。決して軽くはなかろうに、やせ細って筋の浮いた腕には、少しも疲れが表れない。ぜいぜいと喘ぐのは、半分壁に埋め込まれた、小さな井戸についた滑車の方だ。

 たちまち井戸筒からつるべ桶が姿を現し、婦人は片手で桶を引きよせ、大きなかめに水を注いだ。

「よろしければ、私がお持ちしましょうか?」

 シャビィが手伝いを申し出ると、婦人は再び大きな声で笑い出した。

「ありがとう。でも、ウチはすぐそこだから一人でも大丈夫だよ。私より、そっちの生っ白い娘を助けてやって。」

 それじゃあ、リシュンちゃん、お先に失礼。大きなかめを軽々と持ち上げ、婦人はパティオの向かいにある部屋に帰っていった。

 白い壁からむき出しのレンガで造られたかまどと煙突が飛び出している。リシュンの家にあるのと同じものだろうか。

「さあ、シャビィさん、ご待望の水汲みですよ。」

 溜息混じりに名前を呼ばれて、シャビィは井戸の前についた。試しに綱を握ってみると、重くはないがやはりそれなりの手ごたえがある。

「すみません。どうも、私が来たのは失敗だったみたいですね。」

 つるべ桶を手繰り寄せながら、シャビィは謝った。

「いえいえ、助かっていますよ。うちに戻ったら、何か変装を考えましょう。」

 上ってきた桶を掴んで、シャビィは水を移し替えた。後六杯くらい必要だろうか。かめの中では、暗い泡が楽しげな音を立てて弾けている。シャビィは井戸につるべ桶を戻し、もう一方の桶を手繰り寄せた。

「どう?意外と楽でもないでしょ?」

 ひたすら手を動かすシャビィの背後に、婦人が手ぶらで戻ってきた。

「いえ、そこまでは。なにせ体力がとりえですから。」

 階段縦走に比べれば、こんなものは準備運動だ。そりゃあ結構、婦人は退いて、リシュンと世間話を始めた。

「そうそう、リシュンちゃん、どうせまだあんた薄暗い路地で仕事してるんでしょ?気を

付けなよ、最近奏国の兵隊がそこら中うろうろしてるみたい。昨日も、市場で騒ぎがあってね、干物屋が屋台をめちゃくちゃにされてね。誰も手を出さなかったけど、市場全体がギスギスしてて、やな感じだよ。」

 胡椒の密輸を止められずに業を煮やした奏国は、ナルガの大使館にかなりの兵隊を送り込んでいた。リシュンにとっては、嫌がる商人たちから繰り返し聞かされた話である。

「ええ、最近は妙に増えましたね。聞いた話では、華人の店にまで押し入って検閲していくとか。」

 リシュンが相槌を打つと、婦人は苦々しい顔で吐き捨てた。

華人はまだましだよ。連中、あたしらチャム人とか、クメル人にはなんでもするんだ。店に上がりこんでタダで飲み食いしたり、押し借りしていくばかりじゃない、難癖を付けてカツアゲしたり、子供や年寄りをいじめたり、よそ者のくせに……あたしらのことを毛の生えてない猿程度にしか思ってないのさ。」

 ふたりの話に耳を傾けながら、シャビィはひたすら水を汲んでいた。いつの間にか、かめの水が半分を超えている。リシュンは手を組み直し、目を伏せた。

「私もこんな商売をやっていますから、この先のことを思うと心配で……先日も、お客さんが大きな痣を作ってきて……」

 豪商相手からお呼びがかかるのは、多くて週に二、三回。リシュンの主な客は、歓楽街の娼婦達だ。どんなに媚びへつらっても些細なことで殴られ、果てに斬られた仲間もいるのだと、リシュンの知り合いもこぼしていた。

「そりゃお気の毒に……とにかく、あんたも年頃の娘なんだから、用心しなくちゃダメだよ。しばらく柄の悪いところは避けて、大人しくしときなさい。」

 念を押す婦人の手を、リシュンは強く握った。

「ご忠告どうもありがとうございます。シャンカさんも、くれぐれもお気を付けて。」

 微笑んで頷き合う女達の後ろで、シャビィは最後の一杯をかめに注いだ。まだ満杯には至っていないが、持って帰ることを考えればこのくらいが調度よい。

「リシュンさん、あがりましたよ。」

 リシュンはかめの中を横目で確かめ、婦人にお辞儀した。

「それでは、シャンカさん、ご機嫌よう。心配して下さって、どうもありがとうございました。」

 婦人は腰に手を当てて、リシュンを足から頭まで眺めて、強く頷いた。

「あんたは賢い娘だから、きっとうまくやり過ごせるさ。そっちのお坊さんも、力になってやってね。それじゃあ、また。」

 ええ御機嫌よう。何となくお辞儀を返したが、シャビィが自らの言葉の意味を知るのは、もっと後になってからのことだった。


 水がめを抱えて階段を上り下りするのは、なかなかの重労働だった。両手と視界のふさがったまま、先を行くリシュンに導かれてなんとか部屋に戻ったときには、シャビィの体はすっかり流れる汗の下。顔は真っ赤にのぼせあがり、たまらず生水を飲んでしまったほどだ。

「リシュンさんが、桶を手に何度も往復する理由が分かりましたよ。」

 茣蓙の上にへたり込み、肩で息をするシャビィに、リシュンは髪を梳きながら涼しい声で礼をよこした。

「おかげさまでとても助かりましたよ。おまけにかなりの時間が浮きました。」

 前髪を梳くために、リシュンは頭を傾けた。黒くて深い流れに沿って、べっ甲の櫛が滑ってゆく。

「昨日の話の続きですが……」

 息の整ってきたシャビィは、リシュンに訊ねてみた。

「不正の証拠を押さえるなら、やっぱり狙うのは胡椒を持ちだすところですよね。」

リシュンは反対側の前髪を梳かし始めた。

「いえ、胡椒を運んでいるところを押さえたところで、周りに人がいなくては意味がありません。彼らも白昼堂々運ぶような愚は犯さないでしょう。」

 鬼の首を取ったところで、リシュン達は寺院を追及できるような立場ではない。シャビィは腕を組み、難しい顔で唸ってみたが、絞っても、絞っても、出てくるのは唸り声ばかり。ついに何の閃きも得られず、とうとう匙を投げてしまった。

「だめだ。リシュンさん、どうしたものでしょうか。」

 リシュンは引き出しに櫛をしまうと静かに立ち上がり、箪笥の脇にかけてあった仕事用の鞄から竹ひごの束を取りだした。

「大丈夫。策は考えてあります。先日豊泉絹布で占った折にも、そのための下準備を施していったのですよ。」

 底しれない周到さに、シャビィは舌を巻いた。

「リシュンさんには、驚かされてばかりですね。」

 ことによると、全てはリシュンの手の中で動いているのかもしれない。

「大したことはありませんよ。シャビィさんは途中から事件に巻き込まれたので、驚くことが多いというだけです。」

 リシュンは竹ひごをくくっていた紐をほどいて、テーブルの上で高さをそろえた。

「念のため、この駆け引きの成否を占ってみましょう。」

 息を呑んでシャビィの見守る中、リシュンは目を瞑り、大きく息を吸った。

「爾の泰筮、常有るに依る。寺院の悪を暴く謀ついて、未だ知らざるを以て、疑うところを神霊に質す。吉凶得失悔吝憂虞、これ爾の神に在り。希わくば、明らかに之を告げよ。」

 前回からうって変わって、リシュンの手つきは随分と大人しい。肩すかしをくらったシャビィがおずおずと尋ねた。

「あの、リシュンさん?この前占った時は、もっと、こう、賑やかに――竹ひごを転がしたり、回したりはしないんですか?」

 竹ひごを数えながら、リシュンはそっけなく答えた。

「竹ひご?……ああ、筮竹のことですか。あれはお客の気を引くための曲芸です。何の御利益もありませんよ。」

 へぇっ。目を丸くしたまま二の句を継げずにいるシャビィをよそに、リシュンは黙々と筮竹をより分け、数え、木の棒で卦を作っていく。筮竹の立てる乾いた涼しい音だけが、狭い部屋を通り過ぎた。

「陰陽陽陰陽陰、『水風井』ですね。」

 出来上がった卦を見て、リシュンが呟いた。下半分は、シャビィも見たことのある形をしている。

「これは“ 風”でしたっけ?」

 シャビィは卦を指した。リシュンは頷き、

「風、もしくは木、白、行き来、商い。意味は色々ありますが、風が木の下にもぐった形、水風井の示すところのものは、即ち井戸です。」

 大ざっぱに卦の説明を始めた。

「『井は邑を改めて井を改めず。喪(うしな)うなく得るなし。往来井を井とす。汔(ほとん)ど至らんとしても、また未だ功あらざるなり。その瓶をやぶる、ここをもって凶なるなり』。国は変わっても井戸は変わらず人を養い続けるが、そのためには水を汲めるようにしておかなければなりません。変爻も九三『用いて汲むべし』。さしずめ今回は……機は既に熟しているのだから、ためらわず機を活かして大きな利を上げよ、といったところでしょうか。」

 リシュンは筮竹をそろえ、再び紐でくくった。

「今すぐにでも動くべきだというのはいいんですけど、利というのは?」

 シャビィの問いを、リシュンは受け流した。

「言わずもがな……私たちの目的を達することです。」

 リシュンは立ち上がって道具を片づけ、訝しがるシャビィを部屋の外に追い立てた。

「ジェンドラ大師に直接会って探りを入れてみます。着替えるので、出ていってください。」

 口出しできるわけもなく、シャビィはそそくさと逃げ出し、リシュンは箪笥の引き出しを開けて、じっくりと服を選んだ。この間の格好は硬すぎるかもしれない。下は白でいいとして、身構えさせないよう、上着は翠を選ぶべきか。

 箪笥から選んだ服を取り出してベッドの上に広げ、青灰色の普段着をベッドの背にかけて、リシュンはクワンの紐をほどいた。滑らかな音を立ててクワンから現れたのは、すらりと伸びた白い肢。薄絹のクワンに肢を通し、翠のアオザイにそでを通し、くるみボタンを引っ掛ければ、初々しい町娘に見えなくもない。

 リシュンは鏡の前に座って余った髪を一つにまとめ、蝶をかたどった小さな銀のクリップで右寄りにとめた。大分娘らしい愛嬌が出てきたが、鏡の中のリシュンにはまだどこかに圭角が残っている。白粉の上から薄く頬紅をさし、明るめの紅を引いてから、リシュンは少しだけ自分を値踏みして、笑顔で頷いた。後はこの表情を保つだけでよい。

 荷物をまとめて家を出ると、表には強張った顔でシャビィが突っ立っていた。

シャビィさんもこのような格好の方がお好みでしたか。」

 やはり坊主も男ですね。リシュンは冷ややかにシャビィを眺め、青白い溜息を吐きだした。

「私は、その、ついていかなくても大丈夫ですか?」

 シャビィの問いは、いかにも頼りなく響いた。

「今回は一人で上手くやりますよ。帰りしなに着替えを調達してきますから、今日のところは留守番で我慢して下さい。」

 リシュンはこともなげに言い置くと、軽い足取りで階段を上って行った。


 腐敗地区を東に出て、住宅地の大階段を上り、リシュンは寺院の脇に軒を連ねる茶屋の中で、一番好いている店に入った。貧相な八間が1つぶら下がったきりの明るすぎる店の中には、時間帯も手伝ってか、リシュン以外の客が見当たらない。庇が作った陰の縁に陣取り、リシュンは暇そうな店主に声をかけた。

「|イエグオ(ナタデココ)を一杯頂けますか。」

 先払いで鳴朗通宝を五枚も出しておけば、流石に嫌そうな顔はされない。

「先にお茶をお持ちします。」

 恭しく銭を受け取ると、店主は玉暖簾の奥に下がった。独り者の多いナルガでは、どの店もこぞって若い呼び子を使う。年寄りが一人きりでは、店もあまり上手くはいくまい。

 奥から店主が戻り、年季のいったプーアル茶を注いでくれた。小さな茶杯からは、香り高い湯気が立ち上っている。

「お客さん、イエグオには何を浮かべましょう?」

 穏やかな翼のない笑顔に、商売上手を求めるのも野暮だろう。

「レイシを乗せてください――ご主人、待ち合わせの約束がありますゆえ、それまでこの席をお借りしてよろしいですか?」

 店主は何も疑わず、リシュンに笑顔を返した。

「構いませんとも。ゆっくりしていってもらうための茶店ですから。」

「ありがとう。」

ここに座っていれば、こちらの姿を見せずに寺院の正門を見張ることができる。後は、門主が動き出すまで根競べだ。

 腰を据えて待つまでもなく、寺院からは黄色い服の坊主達がせわしなく出入りを繰り返していた。シャビィの脱走が知れたのか、あるいは他の案件が生じたのか。いずれにせよ、浮足立っていることには変わりない。

「お待たせしました。」

 通りを眺めるリシュンの下に、店主がイエグオを運んできた。白に白では味気ないと気を利かせたのだろう、半分に切った椰子の実に浮かぶ角切りのイエグオの真ん中に、一輪の仏桑花が咲いている。リシュンは両手で椰子の実を受け取り、感嘆した。

「上品な、実によい香りですね。」

 店主は蓮華をリシュンに手渡し、愛想よく答えた。

「ついさっき仕入れてきたばかりですから。お気に召したようで、何より。」

 リシュンがイエグオに手を付けようとしたその時、大通りの階段を見覚えのある禅僧が駆けて行った。長身で、頬骨の張った男――豊泉絹布にいた門主の側近、ヘムに違いない。

「あら?また禅師様……ご主人、さっきから何人も禅師様が行ったり来たりしていますね。いつもこんな塩梅なのですか?」

「いや、あれは人を探しとるそうです。さっき来た坊様にも訊かれたんですがね、なんだか、坊様が一人居のうなったとか。しゃ、しゃあべい……だったかな?体の大きい坊様だそうですよ。」

 眉を落して通りを見守る白髪の店主の隣で、リシュンはイエグオを蓮華で掬い、そっと口に運んだ。分厚い肉を噛みしめるたび、柔らかな酸味と甘みが口の中に広がり、しなやかに空へと上ってゆく。塩は若干利きすぎているが、その分果汁が濃く感じられ、気品のあるレイシの香りと相まって、味にうるさいリシュンを飽きさせない。

 イエグオの歯ごたえを楽しむリシュンの横で、店主はずっと表を眺めていた。店の前では、寺院から出てきた禅僧と、は間の方から戻ってきた禅僧とがなにやら話し込んでいる。流石に声まで聞き取れるわけではないが、二人とも険しい顔をしているのは確かだ。

「近頃はナルガも物騒になりましたね。居なくなった禅師様も、無事であればよいのですが。」

 リシュンは一旦手を止めて、温かいプーアル茶をすすった。

「ええ、儂もほんにそう思います。それじゃ、ごゆっくり。」

 急須をテーブルに残し、店主は隣のテーブルで客を待った。リシュンは言われた通りにゆっくりとイエグオを味わったが、寺院から門主が出てくる気配はない。何か動きがあってもよさそうなものだが、奏の兵隊を気にしているのだろうか。

「……いらっしゃいませ。お茶をお持ちいたします。」

 他の客が入ったらしい。店主が立ち上がり、椅子の動く固い音がした。満席にはならないものの、その後も昼時が近づくにつれ、少しずつ客は増えてゆく。店主が空になった椰子の実を下げてから一時も経ち、なかなか来ませんね、と誤魔化しながらプーアル茶を引っ張るのも苦しくなってきた頃、ようやく寺院に動きがあった。背の縮んだ老人の周りを、数人の大柄な禅僧が固めている。間違いない、ジェンドラ大師その人である。


 西の大通りへ続く道に門主の背中が消えてゆくのを見送り、リシュンは立ち上がった。今なら店主も他人の注文をとっている。

「いけない!」

 気づいた店主が、声をかけた。

「いかがなさった?」

 リシュンは店主を振り返り、張り詰めた声で答えた。

「待ち人が気づかずに素通りしてしまったようです。追いかけなくては。」

 適当な言い訳に目を白黒させながらも、店主はリシュンに合わせた。

「それは、それは。お急ぎなさい。今なら間に合うかもしれません。」

 全くだ。リシュンは頷き、店主に笑いかけた。

「ごちそうさま。美味しいお茶でした。」

 小走りで店を飛び出すと、リシュンは門主の跡を追い、寺院と市庁舎の周りを一周する広い道を走った。人をかき分けて走り、大きな門をくぐった先に、果たして門主たちの姿がある。雑踏の中でも目を引く、黄色い僧服を目印に、リシュンは距離を置いて階段を下りていった。

 焼き烏賊、ヤシの実、骨董、古着、首飾りに民芸品、果てはリシュンの同業者まで、歓楽街の大通りに溢れかえった露店の隙間を縫って、禅僧達は足早に麓を目指した。なるほど、シャビィに一人で逃げ出す度胸と才智があれば、この人ごみの中に紛れ込んでいたかもしれない。それも、浮浪者やごろつきの多い――腐敗地区との境目だ。

 案の定、門主とその護衛たちは港に近い色町へと滑り込んだ。高級旅館の立ち並ぶ海沿いの通りのすぐ裏手には、旅館に出向く娼婦を置くための妓楼だの、不潔極まりない連れ込み宿だのがひしめいている。汚れた金の入りやすいこの界隈は、おそらくナルガで最も治安が悪い地区だ。

 距離を詰めすぎないように少し間を置いてから通りを覗くと、入口近くに看板を掲げたけばけばしい飯店に、禅僧達が入っていくのが見て取れた。真紅に染まった店と同じく、辛いばかりで味がしない料理で知られた料理店だが、幸いにしてリシュンのお得意様が勤めている。門主と話すにも手下が邪魔だが、この機を逃す手はない。

 リシュンは往来を見渡し、客がつかずに弱った顔をしている靴磨きの少年に目をつけた。

「坊や、お使いを頼めるかな?」

 リシュンは少年に近づき、甘い声で話しかけた。やせ細った少年からは、すえた匂いがする。「お姉さん、いくら出せる?」

 鋭くぎとついた目を覗き込み、リシュンは一瞬考え込んだ。

「……靴磨き3回分でどう?簡単な伝言だから、すぐに終わるよ。」

 少年は無遠慮にリシュンを眺めまわし、それから卑しい笑みを浮かべて、リシュンの目の前に片手を突き出してみせた。

「5回分なら教えなくもないけど。」

 勝ち誇る少年を前に、リシュンは項垂れた。

「困ったなぁ、実は私も頼まれてやってるだけだから、それだけ払うと儲けがなくなっちゃうんだ。」

 渋るほどの額ではないが、調子に乗って逃げられてはうまくない。リシュンが立ち去ろうとすると、少年は慌てて呼び止めた。

「わかった。わかったよ。4回分でいいだろ?な?」

 信用して大丈夫だろうか。今度はリシュンが少年を値踏みしてから、仕事の内容を説明した。

「じゃあお願い。あの赤い料理屋があるでしょ?あの店にいるお坊さん達に伝えて。『シャビィって人が会いたがってる。この通りの奥にある、茉莉花っていう店に来てくれ』って。お店に入れてもらえないようなら、呼子のお姉さんに頼んで伝えてもらって。」

 口の中で小さく復唱しながら、少年は何度か頷いた。

シャビィって人が会いたがってるから、通りの奥のマツリカって店に来い、だね。あんたに伝言を頼んだのが、そのシャビィって人?」

 どうやらそこまで心配する必要はなさそうだ。リシュンは頷き、少年に前金を握らせた。

「そう。体の大きなお坊さんだった。この伝言も、シャビィさんから直に頼まれたことにしてね。」

 分かった。少年は頷くと、人ごみの中に潜っていった。

 少年は店先で足止めを食らったが、店員が少年の話に乗ったのか、店からあのヘムという禅僧を連れ出してきた。ヘムが少年を問い質す様子は遠目にもなかなか凄みがあり、微塵にも慈悲の心を感じさせない。リシュンは万が一のためその場に屈みこんだが、伝言が上手くいったらしい。少年は無傷で戻ってきた。

「災難だったね。色をつけておいたよ。」

 リシュンが鳴朗通宝を三枚手渡すと、少年はその場にへたりこんだ。

「先に言ってよね。凄まれるのは慣れてるけど、まさかあんなチンピラみたいな坊さんがいるなんてさ。」

 あんたもあんまり関わらない方がいいよ。肩をすくめた少年に礼を述べると、リシュンは一旦その場を離れ、料理店の陰から様子を窺った。一人、二人、三人、四人、ヘム達が店から飛び出していくのを見届けると、リシュンは赤い暖簾(のれん)をくぐった。

「いらしゃ――先生、リシュン先生じゃないか!よくこんな店に来てくだすった――」

 店員はリシュンの姿を認めるや否や、喜色をたたえて駆け寄った。

「ラティさん、お久しぶりです。」

 ラティは、リシュンが辻占を始めたばかりの頃からの常連客だ。よく焼けた馴染みの顔を見つけて、リシュンの顔もつい綻んでしまう。

「今、こちらにジェンドラ大師がみえていると思うのですが。」

 リシュンの質問に、ラティは目を丸くした。

「また坊様かい?随分と人気者だねぇ。」

 リシュンは店の中にさっと目を走らせたが、何本もの燭台に照らし出された薄暗い室内に、門主の姿は見当たらない。

「また?先客があったのですか?」

 リシュンは眉を持ち上げて、白々しく訪ねてみた。

「そうそう、薄汚い小僧がやってきてね、坊様に伝えなきゃならない話があるからって、ええっと、誰だったかな……」

 ラティは顎に手をあて、黒い大きな目で頭上を探った。手首に連なる腕輪が滑り、ぶつかり合って奏でる音は、涼しげに透き通っている。

「そうだ、シャビィだ。シャビィからの伝言だって言えば通じるはずだからって、聞かないからさ、仕方なくことづてたら、本当に坊様たちが皆色めき立っちゃって、今度は小僧を尋問し出すじゃないか。あれにはびっくりしたよ。」

 何なんだろうね。そのシャビィってのは。首をかしげるラティに、リシュンは本題を持ちかけた。

「今、寺院はある厄介事に巻き込まれているのです。私もそのことでジェンドラ大師のお耳に今すぐ届けなければならない報せがあります。ラティさん、私を大師に引き合わせてください。」

 リシュンの言葉は、穏やかながらも鋭く冴えていた。今まで悩みを打ち明けるたび、自分を救い、導いてきた声に、ラティが抗う筈もない。

「先生、こっちだよ。坊様は奥の個室にお通ししたんだ。」

 生白いリシュンの腕を引っ張り、ラティは店の中に厚く立ち込める唐辛子とナツメグの香りを力強くかき分けた。化粧を落とし、地味な長衣を来ていても、肉付きの良いラティの体には、以前と変わらない活力が漲っているようだ。ラティは赤い木戸を敲(たた)き、門主からの返事を得ると、一人で部屋に入って事情を説明した。木戸が厚いために話声はあまり聞こえてこないが、割にすんなり応じたのだろう。もめることもなく、ラティはすぐに部屋から出てきた。

「先生、坊様が、話聞かせてくれって。」

「ありがとう。忙しいときに時間をとらせてしまって、ごめんなさい。」

 どれだけ間があるか分からないが、ヘム達が戻ってくるまでに話をつけられるかが勝負だ。リシュンは個室の扉を押し開き、悪僧の親玉と向き合った。

「お取り込み中失礼いたします。」

 リシュンは恭しく跪いた。

「いえいえ、よう来てくださった。弟子たちが戻ってくるまで手持ち無沙汰です故、どうか好きな席にお掛けくだされ。」

 恐れ入ります。リシュンが門主の正面に座ると、門主はリシュンに問いかけた。

「先ほど店のものが伝えてくれましたぞ。今日は何やら、急ぎの知らせがあるとか。」

 はい。リシュンは強く頷いた。はじめから本題に入れるならば、大きく時を稼ぐことができる。

「今朝、市場で不穏な噂を耳にしました。『白帯と奏の国境で、胡椒を持ち込もうとした男がいたと。』」

 門主は眉一つ動かすことなく、淡々と応じた。

「それは穏やかではありませんな。」

 大物だけあって、やはり簡単には崩れてくれない。シリュンは門主の間合いの内へと、さらに一歩踏み込んだ。

「その男は、捕まるまで何度も関を出入りしていたそうです。馬の背に大きな荷を積んでね。しかし問題は、その積荷です。」

 門主は力のこもった声で、荒々しく笑った。

「そうでしょうとも。なにせ、朝廷が売買そのものを取り締まっている、胡椒を積んでおったのですからな。」

 歯をむき出して吠える門主に、リシュンは鋭く切り替えした。

「いえ……そうではありません。それまでその男が運んでいたのは、護符だったということです。それも、ジャーナ宗総本山、スピアン・タキオ寺院の銘が入った。」

 スピアン・タキオ寺院の名は、リシュンからも逃げ場を奪った。ここまで迫れば、もう嘘を間違いに戻すことはできない。

「事情が飲み込めませんな。」

 門主は涼しげに、ゆっくりとリシュンを突き放した。

「総本山の護符は、手に入りにくいこともあて、奏国では高値で取引されていると聞きます。その男にとっても、護符はかなり良い商売になったのでしょう。」

 リシュンの手元には、まだ切れる札が残っている。この札を活かすためにも、今は食い下がって外堀を埋めるほかない。

「嘆かわしい。その護符は元々ただで配っておるものです。それを金銭でやり取りするなど……」

 白々しくも世を儚む門主に、リシュンは付き合った。

「ええ、浅ましい限りです。まして、男が護符は売りものではないことを利用して税関をすり抜けていたことを思えば、到底看過できるものではありません。」

 弟子たちが戻ってきてしまえば、もう二度と好機は巡ってこない。リシュンは門主の顔を窺いながら、切り札を投げつけた。

「しかし、男の商売もやがて破局を迎えます。最近関所へ新たに赴任した役人が、男の荷を検め、胡椒を見つけてしまったのですよ……札が入っていたはずの、お守り袋の中に。」

 門主は大きく肩を落とし、かすれた声で小さく嘆いた。

「なんたる、なんたる罰当たりな。」

 老人のこめかみを、一滴の汗が伝うのを、リシュンは見逃さなかった。

「大師も既に気づいていらっしゃるものと存じますが、巷には既に様々な憶測が広がっております。今まで男が運んでいた護符にも、実は胡椒が入っていたのではないか。奏国で護符の値が上がったのは、胡椒の取引に利用されていたからではないか……」

 リシュンは小さく息を吸い、わざと続きを引っ張った。

「護符には初めから、胡椒が入っていたのではないかと。」

 リシュンの鋭い眼差しは、門主の答えを朱塗りの壁に縫い付けた。

「まさか、いた、そんなことが……」

 曖昧な言い逃れの上から、リシュンは大きな声を被せた。

「勿論です。特の高い禅師様達が、売僧などに手を染めようはずもございません。大方、黒幕は白帯の商人でしょう。」

 思わぬ助け舟に、門主は素早く飛びついた。

「ええ、そうですとも。そもそも噂が本当に流れているかどうかも分かりますまい。」

 平静を装う門主に、李俊はすかさず釘を刺した。

「いえ、私はこの話を、信頼の置ける海商から聞かされました……それに、噂が真かどうかは、この場合はさほど重要ではありません。それも、寺院の失墜を望んでいる、薫氏にとっては。」

 生唾を飲み込む音が、門主の喉を下ってゆく。

「薫氏はこの隙を見逃さないでしょう。このまま放っていれば、いずれ事態はジェンドラ大師、あなたの破滅につながるやもしれません。」

 リシュンが薫氏の名を口にする度、門主は目をそらした。

「ず、随分と剣呑な予言をなさるが、黒幕が別にいるなら、この身の潔白はいずれ明らかにされるでしょう。」

 門主の声は、心なしか上ずっている。ここまでくれば、あと一息だ。

「いずれでは遅すぎます。大師、薫氏の尖兵は、既にあなたの前に姿を現しているのでしょう?」

 手負いの獣は燻る眼で、手練の狩人を睨み返した。

「儂は占いを信じませんが、もし、万が一に、ですぞ。あなたの読みが当たったとして、あなたなら、どうやって身を守りますかな?」

 門主は用心深くリシュンを窺っているものの、既に手綱はリシュンの手の内にある。

「いずれでだめなら、今すぐ潔白を証明すればよいのです。先に申し上げたとおり、事件の黒幕は別のところにいます。護符に見せかけて関所を破り、胡椒を奏国で売りさばいている商人が、おそらくこのナルガの中に。」

 門主は何も言わず、小刻みに二回頷いた。

「……この黒幕は、どこかで護符から札を抜き取り、胡椒に詰め替えて運んでいる筈。ですから、彼らは、一時的に護符の中身を数多く抱え込んでいます。この札の在り処に、真の黒幕が必ずいます。」

 大師の幸運をお祈りしています。険しい顔付きの門主を残したまま、リシュンは静かに立ち上がり、赤い部屋を後にした。


 禅僧達の目を盗んでどうにか歓楽街を離れると、リシュンは南の大通りに向かった。仕込みはこれで十分だ。ここから先は、シャビィの出番もあるだろう。海沿いに渦巻く人ごみに棹をさし、回り道しながら足早に進んでいくと、ナルガで最も騒がしい地区が近づいてきた。

 南の大通りは、ナルガどころか、西の海の中心だ。奏やバムパ国、北方の島々や、はるかな東方の密林から、ありとあらゆる品物や通貨、言葉や風習が流れ込む。今リシュンの上っている港と市庁舎をつなぐ階段にも、様々な屋台や食堂、水揚げされたばかりの魚や色とりどりの果物、それに行き交う人々の放つ、どろどろに煮詰まった匂いが溢れている。  

 人ごみをかき分けて向かいの古着屋には入ろうとしたとき、リシュンの後ろで大きな声が上がった。振り返ってみると、昼食を摂りに坂を上ってきたのだろうか、数人の担夫が、妙に体の大きな物乞い二人に絡んでいる。リシュンはそっと胸をなでおろし、うらぶれた古着屋の庇に入った。

「いらっしゃい。何かご入用ですかい?」

 古着屋は少しうつむき、ちらちらと上目遣いでリシュンを窺った。」

 もちろんのこと、リシュンの眼鏡にかなう品はこの店の中にはない。

「新しい召使が来たので、大きめの男物を見繕っていただきたいのです。内働きの召使はみんな暇を出してしまいましたが、うちは父も年ですし、何かと男手が必要で……」

 丁寧に仕立てられた厚手の笑顔は、古着屋の眼差しを音もなく塞いでしまった。

「お客さんも見かけによらず苦労してるんですなぁ。最近はどこも景気が悪くていけませんや。」

 老人の言葉には、いくらか訛りが残っている。野暮ったいがおおらかな、これは北海の島国の響きだ。

「大きめの男物……っと、これなんか、どうです?わりに綺麗だし、縫い目もしっかりしてますよ。」

 奥にかかった服の中から古着屋が取り出した長衣を見て、リシュンは小さく苦笑した。確かに大きめだが、シャビィの体は大きめではきかない。

「ごめんなさい。始めから一番大きいものを探してもらうべきでした。」

 服を選び直しながら、古着屋は胡麻塩頭をかきむしった。

「いっそのこと、その大男も連れてきてくれると話も早いんですがね……」

 令嬢の外出に下男が添わないというのも、おかしな話である。リシュンは慌てず、ゆっくりと言い訳した。

「出がけに連れてこようとしたのですが、ちょうど雨漏りを直してもらっていたところなので声をかけるのを止めました。この天気も、いつまで続くかわからないでしょう?」

 雨が絶えてしばらく経つが、今日の空には背の高い雲がいくつか浮かんでいる。古着屋は、いくらか鼻をひくつかせてから、頷いた。

「確かに、雨の匂いがしまさ。夜中に降ったから、しばらく降らないと思ってたんですがね。」

 今夜は、激しいスコールが降るかもしれません。古着屋は、今度こそとびきり大きな服を引っ張り出した。檜皮色をした麻の長衣はゴワゴワしているが、ゆったりと幅があって涼しそうだ。これなら十分間に合うだろう。

「ちょうど良い大きさです。これを貰いましょう。」

 リシュンからお代を受け取りながら、古着屋はそりゃ、本当に大きいですな、と驚いてみせた。シャビィの着替えは、畳んでもなお大きい。受け取った服を苦労して抱えると、リシュンはため息をつきながら長い家路についたのだった。


 禅僧たちに見つからないよう、リシュンは寺院の近くを通ることを避け、海沿いを反時計回りに歩いて隠れ家を目指した。黄色い空はじっと眺めていられる程度の明るさしかなく、空一面に穿たれた黒い星もよく見えているが、出がけよりも波が高く、髪に絡みつく潮風が重たい。古着屋の言ったとおり、今日は大雨が降りそうだ。通りに広がった露天の中にも、雨の匂いに気づいたのか、片付けを始めている店がちらほら見られる。一方で、雨の兆しを見逃しているものも多く、正面から歩いてきた男女など、海の上で肥え太り始めた背の高い入道雲を指して、間抜けな会話に花を咲かせていた。

「ねえ、ヴァルマ。あの雲、何に見える?」

 背の低い厚塗りの女が、挑発の男に訪ねた。

「うーん、……水鳥、かなあ。」

 考えるふりをしながら、男は女から目を逸らし、通りに漂わせている。リシュンと目が合い、一瞬顔を綻ばせた男に含みのある笑顔を寄越しても、男の腕に暑苦しく組み付いた女は、二人の様子に全く気付いていないようだ。

「うわ、何アレ、汚ーい。」

 女が露骨に眉をひそめ、横目に見やったその先に、先ほど大通りで見かけた物乞いの姿があった。女の物言いはいかにも品がないが、確かに物乞いはこの通りにはそぐわない。とかく雑然としたナルガの中でも、このあたりは小奇麗なことで知られている。リシュンはわざと大げさに振り向いたが、二人の物乞いは眉一つ動かすことなく、座った目で水平線をにらみ、おぼつかない足取りで歩き続けた。

「ほら、よそに行こう、シータ。この上に素敵な店があるんだ。」

 つれの女を引っ張る男の足取りは、心なしか重々しく見える。リシュンも乞食を窺うのを止め、再び足早に歩き出した。

 リシュンの部屋は、西の大通りから北側に入ったところにある。海側から見上げた西の大通りは、どの家も背を向けているせいか、他の通りと比べていささか味気ない。浜から少し上ったところに見えるアパートの脇から、リシュンは身を寄せ合う家々の隙間に入り込んだ。この脇道にしても玄関を構えている家は少なく、嵌め殺しの小さな窓や通りの名前が刻まれた赤いアーチがなければ、岩の裂け目と見分けがつかないだろう。ましてや、月のない昼間ともなれば、細い道は濃い光に塗りつぶされてしまう。左右の壁を手で確かめながら、リシュンは急な階段を上り続けた。階段は緩やかに曲がり、左右に別れ、合流し、小さな広場につながり、広場の角からまた伸びだして、リシュンを深みへと誘ってゆく。時折知り合いとすれ違いながら、単調な足音を積み重ね、ようやくリシュンの部屋のある屋敷が見えてきた。どうやら、寺院はシャビィを探すので手一杯のようだ。ずり落ちてきた手土産を抱え直そうと足を止めたリシュンの後ろで、小さな足音が聞こえた。


 リシュンは振り向かず、同じ速さで歩き続けた。人目につかない裏通りだ。気づかれたと分かったら、追手はなりふり構わず力ずくで目的を果たすだろう。気のせいかどうかは、振り返らずともこの先の墓地で確かめられる。

 追手がリシュンに歩調を合わせているのか、その後足音が聞こえることもなく、墓場の入口が目の前に迫ってきた。墓場は周りよりも開けている分、いくらか物の見分けがつきやすい。リシュンは墓場を抜ける階段の曲がり角に差し掛かったところで、横目に追手の姿を捉えた。間違いない。歓楽街にいた、あの物乞いだ。家並みの隙間に吹き込む塩辛く湿った風が、丁寧に梳かれた黒髪をさらい、厚い雲を運んでくる。リシュンは飛ばされないようにしっかりと石段を踏みしめ、そして墓地の階段を上りきった。

 雲の影が星空をおおってくれたのは、思いがけない幸運だった。これでもう、追手にリシュンの姿は見えない。足音を殺して急ぎ足で歩けば、追手に気取られずに間を開けることができる。リシュンは靴の底が石畳を叩かないよう、丁寧に足を下ろしながら、素早く小刻みに歩を進めた。この道の突き当りには、邸宅につながる細い階段がある。忍び足で粘るのも、あと少しの辛抱だ。

 二段飛ばしで階段を上り、辿り着いた三角形の広場は、既に真っ白に染まっていた。空一面に広がった重たい雲が、熱のこもった唸り声を上げている。

 物乞いを装った二人組が追ってこられるよう、リシュンは屋敷の勝手口を開け放したまま、大理石の廊下を走り出した。ここから先は、体力勝負だ。リシュンの軽い足音を追いかける二つの大きな足音は、忍耐強く積み立てた距離をみるみる手繰り寄せてゆく。リシュンが柱廊を渡り切り、テラスへの階段を駆け上がると、雨雲のまたたきが白い空にひらめき、リシュンの影を冷たい石壁に投げかけた。

「亭客か!」

 広東語の喚声は、そう遠くない。リシュンはテラスを横切り、最後の階段を降りだした。深くて狭い石組みの谷間に、荒々しい足音に混じって、金具のぶつかる残忍な音がこだまする。リシュンは一つ目の印の横を通り過ぎると、シャビィの服を放り出し、懐からチョークを取り出した。あまりゆっくりと描いている余裕はなさそうだ。リシュン壁に取り付いて大急ぎで月の輪郭を描きだした。眩しくて手元がよく見えない上、手が汗ばんでいるせいで、うまく力が入らない。たどたどしく月を塗っている間にも、追手は階段を駆け下りてくる。

 それでもなんとか月を塗り終え、仕上げに矢印を描き加えようとしたその時だった。横に線を引いた拍子にチョークの先が壁のくぼみに引っかかり、勢いよくリシュンの手を飛び出してしまった。リシュンは横目で転がり落ちていくチョークを追ったが、壁のあいだに降り積もった光の底に飲み込まれては、見つけることさえままならない。追手の足音も、すぐそこまで迫っている。追い詰められたリシュンは強く目を瞑り、息を止め、一瞬考えてから、目を見開き、親指をねぶった。一度目を離したせいで矢印の場所が分からなくなってしまっている。

 ところが、リシュンが目を凝らし、印のありかを探している背後で、光を打ち払う鋭い陰が放たれた。雷の生み出した闇は、二人の追っ手と共に、リシュンの姿をも浮かび上がらせてしまったが、この期に及んでは、そんなことにはさしたる意味もない。リシュンの目に映っているのは、壁の上に殴り書きされた歪な月の印だった。

 印の姿を捉えると、リシュンは親指で横線をなすり、まじないの印を書き上げた。一瞬見えた女の姿に追手も勢いよく飛びかかったが、伸ばした手がリシュンに届くはずもない。

「クソッ、逃げても無駄だぞ!」

 大声で凄みながら再び駆け出した物乞いたちは、勢いよく抜け穴の入口に飛び込み、階段の上の方にある出口まで引き戻されてしまったが、色濃い輝きの中では、それに気づくこともできない。リシュンが大きく息を吸い、ゆっくりと階段を下りだすと、騒ぎを聞きつけたシャビィが、ランプを携えて様子見にやってきた。

「リシュンさん、何かあったんですか?」

 初めから、この大男に任せてしまうてもあったのかもしれない。リシュンは肩をすくめ、階段の奥を振り返った。

「手土産に、鼠を二匹捕まえてきましたよ。」



丁へ続く

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