ふたり回し

小説投稿サイトとは別に連絡や報告、画像の管理などを行います

☶☴(山風蠱)――その54

挫折とはちょっと違うけれども、アクシデント発生。

その53より続く


「噂をすればなんとやらだ。」

 バンダナの男がため息をつき、重そうに腰を上げた。怒りをおろした船からは次々に水夫が飛び出し、太い綱を渡して埠頭に船をつないでいる。役人が船に近づき、船上の男と話を始めたようだが、ここからではよく見えない。しばらくして話し合いが終わり、役人が船に上がり込むと、外套をきた男が船の方からこちらにやって来た。

「荷物をおろして荷車に積み替えてくれ。荷車は仲間が呼びに行った。時期に迎えに来るはずだ。」

 男の声を聞いて、シャビィは俯いたまま生唾を飲み込んだ。ヘムだ。リシュンの狙い通り、門主が誘いに乗ったらしい。

もみあげの男に呼ばれて、奥から親方が現れた。

「畏まりました。雨が闇しだい、作業に取り掛かりましょう。」

 ヘムの外套から水が滴り、音を立てて石の床に散らばった。

「何を悠長な。一刻を争うのだ。今すぐ運ばないか。」

 フードに溜まった光の中で、ヘムの目が冷たく陰った。いよいよだ。シャビィは手のひらを服でぬぐい、親方の言葉を待った。

「雨の中の作業は危険です。簡単にお引き受けするわけには――」

「分かった、色をつける。」

 ヘムの舌打ちは、離れて座るシャビィにも聞こえた。担夫達の間にも、険しい表情が広がってゆく。親方とヘムの間を、シャビィの眼差しがせわしなく行き来した。

「お前ら。仕事だ。さっさと終わらせるぞ。」

 へーい。男たちがざらついた返事を吐き出す中、シャビィは一人そっと胸を撫で下ろした。あとは荷物を受け取り、港の真ん中で放り投げるだけでよい。打ち付ける雨の中、列を作って歩く逞しい男たち。自分の脈をこめかみに数えながら、シャビィは一歩ずつその時へと近づいていった。

「新入り、足、滑らせんなよ。」

 役人と入れ違いで、シャビィ達は船に乗り込んだ。刺青の男は足の指で突起をつかみ、雨が流れる傾いた長板を器用に登ってゆく。これならば鷹爪の足とさほど変わらない。シャビィも難なく板を登りきり、ふと倉庫を振り返った。シャビィ達のいた空き倉庫のとなりがわずかに扉を開けている。今日は閉め切りにされていたはずだが、何かあったのだろうか。

「おい、何をしている。」

 ささくれだったヘムの声に、シャビィは頬を引き締めた。件の荷物はもう甲板の上に固められ、欲深い白檀の香りを雨の下に這い回らせている。ヘムに目を合わせないよう、シャビィは木箱だけを見て、刺青の男と同じ動きを繰り返した。

 片膝をついて鏡、木箱の角に手をかけて、奥に傾ける。木箱の床に手を差し入れ、一息に持ち上げて肩に乗せ、立てた方の膝に力を入れて立ち上がる。何も難しいことではない。何も難しいことではないが、どこか一つでもしくじってヘム達に疑われるようなことになれば……そもそも箱の中身が目当てのものでなければ、全てが水の泡だ。

 シャビイは目を閉じ、水をまき散らしながらかぶりを振った。頭を隠したヘムがここにいるのだ。やましいものを運んでいるのでなければ、説明がつかないではないか。震える手で木箱を担ぎ上げ、シャビィは船のへりにかかった長板を目指した。後少しで、すべてが上手くいく。

 だが、横目でヘムを伺ったのが、大きな間違いだった。折悪しく、ヘムもシャビィを見ていたのだ。

「ん?お前、どこかで前にも会ったことがないか?」

ヘムに呼び止められて、シャビィの足は凍りついた。

「いや、そんなことは……」

「ありません」の一言が、喉に使えて出てこない。シャビィは擦り切れた声を必死に絞り出そうとしたが、中途半端に口がわななくばかりだ。見覚えのない担夫が答えに給しているのを見て、問いかけたヘム自身も首をかしげている。

 顔を描き換え、ボロを身にまとい、ヘムの前に立っている男に、もはや禅僧シャビィの面影はない。どこの港にもいる、担夫そのものだ。あと一言嘘をつきさえすれば、ヘムは見逃してくれるに違いない。額に張り付いた髪から滴る雨だれを噛み締め、男は目をつむった。それでも、この男にはどうしてもつけなかったのだ。ただの担夫なら何の迷いもなくつけるはずの、たった一言の嘘が。


その55へ続く


アルファポリスのポイント集計へのご協力をお願い申し上げます。