ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――丁

37から52までを総括。

丙より続く


 シャビィがランプを掲げると、物乞いを装った二人組は鼻息荒く階段を駆け下りてきた。

「女、逃げられると思うなよ。」

 光の底にリシュンの影を見つけて大口を叩いたものの、獲物を目の前に堂々巡りを繰り返すうち、二人の足取りは次第に重さを増した。

「クソッ!亭客め、怪しげな術を使いやがって!」

 背の低い方の追手が立ち止まって毒づいた。

「煬威、深追いするな。引き返すぞ。」

 背の高い方の追手に従って、煬威と呼ばれた男はしぶしぶ引き上げようとしたが、相方が階段の半ばで姿を消すのを目の当たりにして、すっかり腰を抜かしてしまった。

「い、一体どうなってやがる?」

 甲高い声を上げる煬威の後ろ姿を眺めながら、シャビィは小さく呟いた。

「……こういう仕組みだったのか……」

 シャビィの目の前には、同じく煬威の背中を見つめるもうひとりの追っ手が立ち尽くしている。リシュンは男の背中に向かって、艶やかに問いかけた。

「逃げ場を失ったのは、どうやらあなた達のようですね――さあ、答えてください、誇り高い奏国の兵士が、なぜそのように身をやつしてまで一介の占い師を付け回さねばならぬのか。」

 男はなめらかに振り返り、ざんばら越しの静かな眼差しでリシュンを捉えた。

「占い師、寺院の奸計に手を貸した咎で、縛についてもらうぞ……まもなく俺たちの仲間が駆けつける。悪あがきはやめて、早くこの怪しげな呪いを解くんだな。」

 仲間の声に、煬威が振り返った。遠い陰に照らされた煬威は、目を丸くしているように見える。

「それはおかしな話ですね。私たちは、むしろあなたたちが門主を捕らえられるよう、お力添えしたく存じておりますのに。」

 澄まし顔で答えたリシュンに、階段を駆け下りてきた煬威は、シャビィを指して言い返した。

「力添えもクソも、そこにいる坊主は何なんだよ!」

 ぐずつく空から落ちてきた一筋の雨が、シャビィの頭にあたって砕けた。見れば、足元にもいくつかの雫が咲いている。雨足が強まれば、壁の印は簡単に流れてしまうだろう。印に目が向かないよう、煬威を睨みつけながら、リシュンは声を張り上げた。

「私は彼を寺院から匿っているのです。とある理由によって寺院に追われている、この禅僧をね。」

 リシュンの言葉に、長身の男は眉を動かした。

「虎紳、どうもこの女の言うことは信用できねー。――おい、坊主。お前、マジで他の坊主から逃げてんのか?」

 顎をしゃくった煬威の前に、シャビィがゆっくりとあゆみ出た。熱い肉に覆われた浅黒い両肩は、主に従い、穏やかに出番を待っている。シャビィは少しだけ煬威を見つめてから、息を吸って話し出そうとした。

 ところが、シャビィの返事は早くも遮られてしまった。虎紳という長身の男が、二人の間に割って入ったのだ。

「いや、俺達が尋ねるべきは、そのことではない。」

 虎紳は涼しく、しかし強い光を放つ眼差しをシャビィに突きつけた。

「お前は見たのか?寺院で行われている悪事を、その目で。」


虎紳の問いに、シャビィはゆっくりと頷いた。

「ええ、寺院の秘密を知って閉じ込められてしまった私を、リシュンさんが助けてくださったんです。」

 ランプの影に黒く染まった生暖かい雨足が、細くて明るい路地を駆けてゆく。

「今朝は妙に禅僧たちがせわしないと思ったが、そうか、確かに説明がつく。だが女、その男だけで足りるのか?」

 虎紳の目が、リシュンに差し向けられた。

「いいえ。しかし、あなた方の力になって差し上げることはできます――知りたいのでしょう?あなたたちが追っている、寺院の資金源の正体を。」

 リシュンの涼しい笑顔の上を、細かい雨がいくつも伝、尖った顎から滴り落ちて、冷たい石の段を叩いた。

「いらないな。ある程度は検討がついている。奴らは、胡椒の密輸を行っているのだ。」

 虎紳の瞳は、頭上に雷が閃いてなお、動かぬ程に重く、堅い。青白く大きな影は、リシュン立ちの上にまざまざとのしかかった。

「ではひとつ伺いますが……」

 リシュンは眉ひとつ動かさず、虎紳に問い返した。

「……もし本当に国境破りが捕まったとしたら、いの一番にあなた方のもとへ報せが届かない道理はございますか?」

探り合いが重なるほどに、シャビィと煬威が口を挟むわずかな隙間も失われてゆく。二人は軽く身構えたまま、リシュン達のやり取りを見守っている。

「あの話がすべて嘘だったというのか?……だが――」

 虎紳は眉を寄せた。

「それなら、門主はなぜ黙って聞いていた?」

 リシュンは虎紳の顔をよく検め、暫くしてから漸く口を開いた。

「話の続きを聞きたければ――」

 ランプの映したリシュンの影は、湿った風に揺らめいている。

「――付いてきてください。雨の中で立ち話を続けるのもなんですから。お話しましょう、事件の真相と……簡単に門主を捕らえる、よい方法について。」

 肩をたたいてシャビィに構えをとかせると、リシュンは鋭く踵を返した。雨音を裂く湿った足音は、嘘のように軽やかだ。二、三歩後ずさってから、シャビィはリシュンを追って駆け出し、二人の兵士も後に続いた。月の印はとうの昔に、雨に流れて消えていたのだ。

 隠れ家に戻ってくると、リシュンは竈に燈台の火を移した。まずは体を乾かさなくてはならない。炎が薪をゆっくりと舐め、塩辛い音を立てて火の粉が踊り始めると、シャビィ達が火の匂いの広がった部屋へと静けさを引きずりながら入ってきた。

「狭いところで大したおもてなしもできず、恐れ入ります。火を炊きました故、ここでお召し物を乾かしてくださいませ。」

 立ち上がったリシュンに、虎紳は硬い声で切り出した。

「こちらこそ、急に押しかけた非礼を詫びよう。気遣いはありがたいが、それより話の続きを聞きたい。俺たちも暇ではないのでな。」

 歩み出た虎紳を押しのけ、シャビィはリシュンの隣についた。シャンカから散々悪評を聞かされた連中だ。お人好しのシャビィにとっても、易易と信用できる相手ではない。それを――虎紳達を見張りながら、シャビィは横目でリシュンを見やった――あのリシュンが、仲間に引き入れようとしている。

「一言で申し上げるなら、私は門主に鎌をかけたのです。寺院が胡椒から資金を得ているかどうかを確かめるために。そして、それを利用して罠を仕掛けるために。」

 乾いた音と共に、火の粉が薪から飛び出した。火の粉がゆらゆらと昇り、静かに消え入るその先に、黒々と浮かび上がったリシュンの影が躍っているいる。

「お前はあの時――」

 竈の火を見つめながら、虎紳は一旦言葉を切った。

「国境破りが露呈したと、俺たちが門主を捉えようとしていると、門主に向かってそう言ったな。」

 シャビィを睨んでいた煬威が、虎紳の脇から口をはさんだ。

「だからよ、虎紳、こいつらが門主に入れ知恵して俺たちの邪魔をしようって――」

 煬威が火にあたりながら顎をしゃくってリシュン達を指したのを見て、シャビィは太い眉を潜めた。虎紳はともかく、煬威はシャンカが語った通りの荒くれ者だ。虎紳も首を横に振り、煬威をたしなめた。

「今更蒸し返すな。話がややこしくなる。」

 リシュンは二人組に目もくれず茶を淹れる準備をしていたが、話だけは聞いていたらしい。水の入った小手鍋を竈にのせると、虎紳の質問に答えだした。

門主が私の話を信じるなら、それは密輸が行われているという事実を『知っている』証です。逆に、密輸と無関係か、あるいは別の方法で密輸が行われているなら、門主が私の話に付き合う必要はありません。」

 リシュンは棚から茶杯を取り出し、一枚ずつ茶葉を入れた。後は、湯が沸くのを待つばかりだ。

門主は自分たちが関わっていることを隠そうとしていたな……お前が寺院とグルでないということは、お前が密輸を知っていること自体が奴には想定外の事態だったわけだ。」

 虎紳の影は、あてどなく壁の上にたゆたっている。リシュンは虎紳を見つめ、相槌をうった。

「そして、私が知っているということが、密輸が発覚したことの証でもあると、そうお考え下さい。」

リシュンの言葉に、虎紳は目を見開いた。

「そうか、ようやくつながったぞ!お前が知っていて俺たちが知らないはずがないと、始めからそこに持っていく算段だったんだな。」

 シャビィは火にあたりながら、二人の顔を交互に覗っていた。しばらくお会いでいるうちに衣もだいぶ乾いてきたが、まだ重たい生臭みは抜けきっていない。

「深刻な話をしているのに、老師はなぜあなた達の同席を許したのですか?」

 シャビィはとうとうしびれを切らした。

「そもそも、あなた達に会うはずがありません。」

 機を逸した問いかけに、煬威は笑って答えた。

「その通り、爺さん達は、俺たちの頭の上でややこしい話をしてたのさ。」

 少しも気の利いていない軽口に、しかし、シャビィは手を打った。先日も、床下で門主の様子を探っている連中はいたのだ。

「大帆行の床下に潜んでいたのもあなた達だったんですね?」

 大きな体に似合わない素直さが、煬威の脇腹をくすぐったのだろう。煬威の馬鹿笑いは雨音をかき分け、もはや手綱のとりようもないほどに活き活きと駆け回った。

「ああ、どうにも寺院の様子がおかしってんで、こんな格好させられて、くっさいおっさん相手に聞き込みしたり、じめじめした床下で我慢比べしたり、毎日そんなんの繰り返しよ。せっかく南の島に来たってのに、これじゃナンパもできやしない。」

 目を白黒させているシャビィの隣で、リシュンは小さくため息をつき、腰に拳をあてた。

「これで納得していただけましたか?私が門主に協力してもいなければ、シャビィさんが連絡係でもないということを。」

 話の腰を折られて眉間にしわを寄せた虎紳の向こうで、煬威は何度も頷いた。

「疑う気も失せちまったよ、少なくとも、このハゲは信じて間違いなさそうだ。あんたの考えてることは未だに全然わかんねぇけどな。」

 リシュンは煬威に微笑み返し、茶杯に湯を注いだ、いつの間に湯が沸いたのか、小手鍋からは暗い湯気がもうもうと立ち上っている。

「お茶の準備ができました。もうお召し物も乾いた頃合でしょう。どうぞ、部屋に上がってください。」

 なるほど、もう土間で火にあたっている必要もない。リシュンに招かれるままに、二人の兵士は卓子についたのだった。


 男達に茶杯を配りながら、リシュンは再び説明を始めた。

「そうして、真相を確かめるついでに、門主に墓穴を掘ってもらうべく念を押してきたのです。」

 温い雨をたくさん吸って重たくなった部屋の空気を、茶杯の置かれる冷たい音は留まることなくすり抜けてゆく。シャビィと虎紳は短く礼を述べ、緑茶が群れるのを待っていたが、

「おう、悪いな。」

 煬威は茶杯の蓋を開けると、傷だらけの手で茶杯を掴み、喉を鳴らして勢いよく飲み干してしまった。虎紳はこれを見て小さくため息をつくと、再びリシュンに問いかけた。

「お前が密輸のことを知っていることの言い訳は、確かに門主を追い詰めたわけだ。だが占い師、そこから先の狙いは――追い詰められた門主を、だ。例えば騙すとして、奴に何をさせるつもりだ?」

 胡座をかいて手を後ろについた煬威とは違い、虎紳の目はまだ鋭い光を宿している。

「私が門主に向かって、『黒幕は他にいる』と言ったことは覚えておいでですか?」

 茶葉が広がったのを確かめ、あやふやな作法で緑茶をすするシャビィの隣で、虎紳は茶杯に手をつける素振りも見せず、静かにリシュンを窺っている。リシュンは茶杯の蓋をずらし、一口だけ熱い緑茶を口に含むと、火傷しないよう少しずつ飲み込んだ。

「そうそう、それよ。俺が分かんねぇのは。あんたも、門主も、寺院がやってるのは分かってるわけじゃん。なのによ、いきなり他に犯人がいるとか。門主も黙って付き合ってるし、おかしくねぇ?」

 回りくどくもリシュンの垂らした形ばかりの手がかりに、勢いよく食いついたのは呑気な煬威のほうだった。

「いや、そこまでならまだ分かる。」

 わざわざ伸ばした無精髭を撫でながら、そぞろな声で虎紳が答えた。

「この女は、悟られたくなかったんだ。自分が門主を疑っていることを。見破られれば、寺院に消されるのは目に見えているからな。門主も当然、自分が関わっているとは言えない。用意された狂言に乗るしかなかったんだろう。」

 燈台の仄かな陰が光の中から掘り出した虎紳の顔をじっと見つめて、シャビィが眉を寄せている。虎紳は気づいていないふりをして話を続けた。

「だが、そこから先が分からない。護符の中身がどうのこうのと――あんな出鱈目に、なんの意味があるんだ。」

 リシュンは卓子の下でしたたかにシャビィの脛をつねり、短く小さな返事をよこした。

門主には、大帆行を黒幕に仕立て上げてもらいます。」

 虎紳は小さく唸りながらようやく緑茶を口にして、大きく眉を開いた。

「美味いな。どこで手に入れた?」

 話を半ば虎紳に任せていた煬威は、これをきいて大きく足を投げ出した。

「なんだ、そんなことかよ。……身代わりか。まあ、古狸の好きそうなことだがよ、それじゃあ却って捕まえられなくなっちまうぜ。こっちの兵隊を4,5人連れてってよ、今すぐにでも押しかけたほうが手っ取り早いんじゃねぇのか?」

 リシュンは煬威を見て小さく笑い、のこった緑茶を飲み干した。頭の回る男ではないが、一応要点はわかっているらしい。煬威の提案こそは、リシュンの待ち受けていたものだったのだ。


「俺も、その点に関しては煬威に賛成だ。力ずくでも乗り込んでいって、その男の言う地下室にたどり着くことができれば、そこにあるんだろう?胡椒の詰まった護り袋が。」

 荒事こそ武人の本業だ。探し物がわかってしまえば、リシュンの手など借りずとも簡単に証拠を抑えることができる。ましてや、年寄り一人捕まえるのに、なんの苦労があるというのか。眉を下ろしてのんびりと緑茶を味わう虎紳に、リシュンは切り札を突きつけた。

「ええ、ですが……ナルガの人々は、誰一人としてあなた達を信じてはくれないでしょう。」

 涼しげなリシュンの一言が、忽ち虎紳の顔から血の気を奪った。

「宮様の崩御からこちら、朝廷と寺院の関係が冷え込み、今やいがみ合っていることは皆人の知るところです。奏の武人たるあなた達が――」

「適当な口実をでっちあげ、門主を捕らえようとしたとして、何も不思議なことではないと、そういうことか、占い師。」

 険しい顔で睨む虎紳を、リシュンは笑って見つめ返した。上座に座った二人の影を、椰子の香りを放つ灯りが部屋の隅へと追い込んでいる。

「冷え込んでいるのは、寺院と朝廷の仲だけではありません。突然跳ね上がった関税に、ナルガの人々は散々痛めつけられています。今はまだ朝廷に逆らえずにいる人々も、寺院の下に集まってしまえば、もはや朝廷の、もとい薫氏の言いなりになることはないでしょう。」

 洋氏と関係を持ち、薫氏に反感を抱く商人や貴族は、ナルガばかりでなく、奏国の中にも溢れている。朝廷とは異なる権威をもつジャーナ宗を後ろ盾に彼らが結束し、薫氏の権勢を揺るがすことも、あり得ないことではない。虎紳と煬威が寺院を探っていることこそが、今の朝廷が寺院を恐れている何よりの証拠だ。

「そして、俺たちが門主を捕らえることが、その引き金となる……分かった、認めよう。今の俺達には、寺院を失墜させる手立てはない。」

 無実の聖を捕囚した帝を、ナルガの市民はもはや君子と認めまい。薫氏に反感を持つ人間が集まり、寺院は衰えるどころか益々力をつけてしまうだろう。虎紳はかすれた声で負けを認めると、重い茶杯を何とか持ち上げ、残った緑茶を飲み干した。

「でもよ、そんなに寺院が手ごわい相手だってんなら、お前のペテンもやっぱ通じないんじゃねえか?……その、大帆行を身代わりにさせるっていう。」

 黙り込んでしまった虎紳の代わりに、煬威がリシュンに問いかけた。

「いえ、手ごわいのは寺院と門主ではありません。寺院に向けられた人々の信心と、朝廷に対する不満です。お忘れですか?門主が自ら、私の知恵を借りようとしたことを……門主は私の罠に、必ず飛び込んで来ます――」

 リシュンは成功を請け合うと、一旦言葉を切り、小さく息を吸い込んだ。

「――それでも、手放すおつもりですか?寺院の出鼻をくじいて、名を上げるこの好機を。」

 脅威の大きさは、そのまま手柄の大きさでもある。虎紳は長いため息をついてから、ゆっくりと面を上げ、とうとうリシュンに伺いを立てた。

「取り敢えず話を聞かせてくれ。乗るか乗らないかはそれで決める。」

 狙い通りの返事を勝ち取ると、リシュンは虎紳に頭を下げ、漸く二人に手の内を伝えた。

「既にお話したとおり、寺院が悪事を働いているという証は、あなた達によって見つけられてはなりません。ならば、人々の目の前で、白日の下に晒さしてしまえばよいのです。寺院が大帆行を身代わりにするために持ち出した、袋に入っていない護符の山を。」

 真の黒幕は護符の中身を胡椒にすり替え、今もどこかに隠し持っている――リシュンの狙いを知り、虎紳はゆっくりと顔を上げた。

「迂遠な。他人に罪を被せようと小細工を弄したところを、取り押さえて証をたてようというのか。」

 華人の常に違わず細く、冷たい光を放つ目が、力の限りに開かれている。リシュンは答えることなく、わざとゆっくり緑茶を飲み干し、その言葉を待っている虎紳達に告げた。

「やましいところのないものが、罪を逃れようと余計な企てに手を出すことはありません。小細工をしているところが衆目に晒されたなら、いかに寺院といえど、言い逃れる術は持たないでしょう。」


 卓子の中央を見つめながら、虎紳はしばらく無精ひげをさすっていたが、やがて目を瞑り、大きく息を吸った。

門主自ら動くように仕向けることで、塀の中から証拠をおびき出すことが出来る……切れ者のつもりでいたが、俺はまだ力押しに頼っていたようだ。」

 虎紳が刀を納めると、煬威が卓子に身を乗り出した。

「でもよ、俺たちが来なかったら、あんたら、それを全部二人でやるつもりだったのか?下手すりゃ、あっという間に土左衛門じゃん。」

 訝しがる煬威に、リシュンが答えようとしたとき、話の行方を見守っていたシャビィが、煮えくり返った腹の中をぶちまけた。

「あまり感心しませんね。そんな風に軽々しく、殺すの殺されるのと口にするのは。あなた達には日常茶飯事かもしれませんが、仮にも僧侶なんですよ、老師たちは。」

 五戒を刷り込まれたシャビィの感覚は、俗人には俄かに理解し難いものである。わななく巨体を指差して、煬威は気安く返してみせた。

「あの爺さんが今更そんなこと気にするかよ。お前が生きてることのほうが、俺にはよっぽど不思議だね。」

 歯に衣着せぬ物言いに、シャビィは顔をしかめたが、リシュンは気にせず相槌を打った。

「ええ、私も初めはお二人を寺院の差金かと思っていました――広東語の叫び声を聞くまでは。」

 たとえ疑いを免れても、リシュンが事情を知り過ぎていることに変わりはない。寺院が小細工に失敗したとき、リシュンは寺院の罪を裏付ける証人になってしまう。リシュンは含みのある微笑みを浮かべ、二人の瞳の奥を探った。窓の外、次第に遠のく雨音が、不意に途切れた話の隙間に、ゆっくりと染み込んでゆく。

「そうか。それで……お前は見事に俺たちをさばいてみせたというわけだ。」

 虎紳は目を閉じ、小さく鼻を鳴らした。

「だが、用心するに越したことがないだろう。この先をどうやって凌ぐか、何か手は考えてあるのか?」

 家の周りや地下水路にはいくつか罠が仕掛けてあるが、すぐに逃げ込める範囲に留まっていては、寺院に仕掛けることはできない。リシュンは頷き、シャビィに目をやった。

「幸い寺院は、シャビィさんを探すことで手が塞がっているようです。」

 シャビィと煬威は、にらみ合いを続けている。リシュンは小さく肩を落とした。

「その隙に先手を打って、寺院に入れ知恵したことを触れて回ります。私がいなくとも自ら真相に気付ける者を、そして、私がいなくなったときに寺院を疑う者を作ることで、私を消して生じる利を予め取り除いてしまうために。」

 リシュンの話を聞きながら、虎紳は節々で何度か頷いた。

「なるほどな。それなら、うまくいった時の世間の反応をよくすることもできる。人から聞いたことを信じなくとも、自分で考えたことにはあっさり騙されてしまうものだ。」

 いつの間にか、外が明るくなっている。リシュンは横目で天気を確かめ、左手で前髪を払った。

「そして何よりも、人目のあるところで護符に近づき、暴いてしまうことが大切です……今日明日にも、門主は本山に使いを送り、護符を密かに持ち込むはず。それも、人に紛れるため、最も船の多い時間に、表の港から入ってくるでしょう。そこで彼らが下ろそうとした積荷を、シャビィさん、あなたが担夫に化けて近づき、覆してください。」

 リシュンは、むつかしい顔をしているシャビィに向き直った。肉厚で浅黒い、団子鼻の禿げ頭。四人の中で寺院が一番よく見知っているのは、言うまでもなくこの顔である。的を外れた白羽の矢に、卓子を囲む皆が目を丸くした。

「おいおい、そりゃ、どう考えたってうまくないだろ。俺らが行くほうがなんぼかマシじゃねぇのか?」

 真っ先に反対した煬威に、シャビィも口を揃えざるを得ない。

「先輩方が私に気づかないはずがありません。子供の頃からの顔見知りばかりです。」

 リシュンは二人を見比べてから、顎に手をあて、考え込んでいた虎紳にチャム語で訪ねた。

「虎紳さん、失礼ですが、チャム語の腕前は?」

 虎紳は肩をすくめ、怪しげな声調のチャム語で答えた。

「練習してる。でも、上手いない。」


 虎紳の片言に、煬威はうろたえ、シャビィは肩を落とした。足の揃わぬ卓子の上を、虫の羽音がさまよっている。

「それならやはり、シャビィさんに担夫役を頼みましょう。シャビィさん、鏡の前に座ってください。」

 リシュンは立ち上がると、小さく手を振って虎紳と煬威を立ち退かせ、鏡台の引出しから化粧道具を取り出した。

「あの、リシュンさん?とても化粧でごまかせるとは……」

 座りながらも訴えるシャビィを、リシュンはにこやかに黙らせた。

「真っ直ぐ鏡を向いて、目と口をとじていてください。」

 シャビィが渋々従うと、リシュンは小さな刷毛の先に虹色の粉をつけ、大きな顔の映った鏡に、慣れた手つきでまぶし始めた。

「おいおい、何やって――」

 ため息混じりにヤジを飛ばした煬威の目の前で、俄かにシャビィの頬がやつれた。鏡に映った浅黒い顔をリシュンが刷毛でなぞる度、本物の輪郭が描き変えられている。腹の底からせり上がる叫び声をのどに詰まらせ、煬威は息もできずに変わりゆくシャビィの顔を見守った。

「信じられん。」

 小さく呟く虎紳のまなざしは、リシュンの横顔に向けられている。シャビィの後ろに膝をつき、左右の輪郭を合わせるリシュンの影が、薄い陰に染め上げられた石壁の上に踊った。背中に接した煩悩の柔らかさに耐え、目を瞑って息を整える大男には、自分の顔に呪いが施されているなどと、思いつきもしないだろう。

 輪郭が仕上がると、リシュンは刷毛を持ち替え、シャビィの目鼻立ちに手を加えた。刷毛を使って目尻を持ち上げ、布で拭き取って鼻を細く尖らせ、唇も同じようにして、下の厚みを取り除き――シャビィを横を向かせて鼻の高さを水増しすれば、鍛え抜かれた伊達男の出来上がりだ。固唾を飲んで見守っていた虎紳と煬威の額に、重く冷たい汗が浮かんでいる。

「よし……シャビィさん、もう目を開けて構いませんよ。私は眉墨をといてきます。」

 リシュンは小鉢を手に立ち上がり、後ずさった二人に一瞥をくれると、黙って前を横切った。リシュンが燈台の傍を通り過ぎると、大きな影はざらついた石壁の上を瞬く間に駆け抜けたが、今更リシュンを放して飛び去るはずもない。隣で鏡を見たシャビィが叫んでいることにも気づかぬまま、土間を覆う光の中、壁に焼き付いたリシュンの形から、二人は目を逸らすことができなかった。

 瓶から水をすくい、眉墨を延ばすリシュンにシャビィは情けない声で尋ねた。

「リ、リシュンさん、この顔は?何が起こったんですか?」

 リシュンは小鉢を携え、ゆったりとした足取りで戻ってきた。虎紳と煬威は、俯きながらリシュンと窺っている。

「あなたの大好きな先輩方が見ても分からないようにしただけです――よかったですね。だいぶ見られるようになりましたよ。」

 自分の仕事を晴れやかな笑顔でたたえ、リシュンはシャビィをあちこちから検めた。

「元に……戻りますよね?」

 シャビィが再び問いかけた。いくら見栄えがよかろうと、他人の顔は落ち着かないものである。

「大丈夫。戻すほどの顔ではありませんよ。さあ、髪を描きましょう。鏡の前に戻ってください。」


 シャビィは大きく方を落として鏡の前にへたりこみ、リシュンはこれ幸いと鏡の上にくせ毛を書き込んだ。しきりに溜息をつきながら、右を向き、左を向き、まるでリシュンの為すがままである。

「亭客は……皆そのような呪いを用いるのか?」

 目を伏せながら虎紳がためらいがちに尋ねた。リシュンは具合を確かめながら、シャビィの頭に髪を描き足している。

「これは亭客ではない、多麻州の占い師から教わったものです。」

 リシュンはシャビィに座り直させ、後頭部にとりかかった。

「俺たちが畏れるべきは、亭客ではなく占い師だったというわけだ。」

 虎紳は胡座の上に肘をつき、力なく笑った。シャビィの頭は、いつの間にかまだらになっている。

「それでよ、俺たちはどうする?港に加勢するか?それとも爺さんをおさえるのか?」

 煬威に脇を小突かれ、虎紳は腕を組んだ。

「いや、港が上手くおさえられたなら、門主はもう再起できまい。」

 虎紳の視線を感じ、リシュンは手を動かしながら答えた。

「ええ。それと、もう一つ。国境破りの風評を、軍の周りから流して頂きたいのです。寺院の船が着くのは、早くても明日の昼過ぎでしょう。まだいくらか間があります。」

 出会い頭にリシュンが指摘したとおり、虎紳達が一番に知らされるはずの話である。

「港に潜り込むのは明日からか……本山まで往復することを思えば、それでも早いくらいだな。」

 カタリム山はナルガから海峡を渡ってすぐのところにある。山を登っても半日の道のりだが、荷物を担いで夜の山道を下るのは難しい。

「分かった。ここの兵隊にも掛け合ってみよう。こちらから流すほうが自然に見えるはずだ。」

 虎紳が頷き、リシュンは深々と頭を下げた。

「恐れ入ります。私は知り合いの商人にあたり、寺院が咎人を探している旨を伝えましょう。」

 リシュンの言葉を確かめると、虎紳は立ち上がって窓の外を見た。

「何か、他に聞いておくべきことはないか?」

 雲はもう出ていないようだ。雨も上がったばかりなので、朝ほど暑くはないだろう。虎紳につられて、煬威も腰を上げた。

「いいえ、今は何も。」

 リシュンは首を横に振り、二人を見送るために立ち上がった。

「そうか。なら、明日、港で。」

 雨を吸った思い扉が、音を立てて大きく開くと、潮の香りのいくらか混ざった蒸し暑い風が流れ込んできた。

「ええ。必ず成功させましょう。」

 力強い声に背中を押されて、虎紳たちは星空の下に歩みだした。雨上がりの空は深く、明るい家並みの隙間からも、いくつかの星が見える。

「そうだ。」

 階段の手前で、煬威が振り返った。

「あんた、もう自分で占ってみたか?この捕物が上手くいくか。」

 リシュンは煬威に向かって、ふんわりと微笑んだ。

「ええ。『水風井』。水の湧くところに人が集まるという意味です。」

 手綱から解き放たれた煬威の笑い声は、狭い石壁の狭間を荒々しく駆け巡った。

「違えねえ!占いも結構当たるもんだな!」

 階段を上ってゆく二人の白い影の形は、眩しい光の中に滲み、曲がり角に消えていった。


 リシュンが振り返ると、戸口には浮かない顔をした面長の男が立っていた。

「リシュンさん。」

 リシュンの施した変装は上手く行き過ぎたらしい。もともと備わっていた逞しい体のおかげか、顔の変わったシャビィはまるで水軍の頭目か何かに見える。

「大丈夫。その顔を戻すのは簡単ですから。」

 シャビィはかぶりを振って、苦笑いを浮かべるリシュンに問いかけた。

「それも心配ではありますが……いいんですか?あの二人を信用して。」

 豊泉絹布でも、今朝の井戸端会議でも、奏国だの薫氏だのに良い話など一つも出なかった。それどころか、虎紳士たちはリシュンを捕らえようとまでしていたのだ。それを忘れてころりと信じてしまうほど、リシュンはお人好しではあるまい。

「まだそこを気にしていたのですね……その点に関してはご心配なく。あのふたりはおそらく、街で暴れている兵士とは別です。」

 目を白黒させるシャビィに、リシュンは聞き返した。

「属国の出先に優れた兵が配されることはほとんどありません。彼らの素行を見れば、それは明らかです。そんな兵士たちに、奏の大事に関わる寺院の調査が務まるとお思いですか?」

 顎に手を当てながら、シャビィは憶測を手繰り寄せた。

「さっきの二人は……寺院のためだけに……都から、送られてきたということですか?」

 というからには、二人共一介の兵士ではないのだろう。現に、虎紳はナルガに配された兵を指図できるような口ぶりだった。

「なればこそ、恩を売っておくだけの価値もあるのです。」

 リシュンは小さく頷き、階段の先を見やった。

シャビィさんへの別にあったのを、すっかり忘れていました。取りに行ってくるので、かまどの火を熾してください。」

 湿った足音を立てながら、リシュンは階段を上ってゆく。相当の雨水が階段を下り、踊り場に流れ込んだのだろう、石壁には、くるぶしほどの高さで真っ直ぐに水の跡が引かれていた。所々に小さな水たまりが残っているものの、殆どの水は洗い場から流れ出たようだ。シャビィが洗い場の排水口に顔を近づけてみると、中から低く、重々しい唸り声が這い上がってきた。

 雨のあとを一通り確かめると、シャビィは土間に戻り、弱っていた火をかき混ぜ、薪を継ぎ足した。昨夜の分も合わせてかなりの灰がたまっているが、掃除をする暇はなさそうだ。新しく加えた巻が香ばしい音を立て始めた頃、蝶番がシャビィを呼ぶ、景気のいい音が聞こえた。

シャビィさん、たらいに水を汲んで、表に持ってきてください。」

 開け放たれた扉から、薄い陰が伸びている。水瓶の隣に立てかけられた小さめのたらいを床に置くと、シャビィは膝をつき、軽々と瓶を持ち上げて直接水を注いだ。

「今、そっちに行きます。」

 シャビィが瓶を起き直し、たらいを抱えて表に出てみると、踊り場には紐でくくった麻布を片手に、リシュンが待ちくたびれていた。リシュンの持ち帰った布は手土産と呼ぶにはいささか薄汚れ、おまけにしぼれるほど水を吸っていたが、見たところ他に荷物はないようだ。

「ありがとう。逃げる途中で放り出したせいで埃まみれになってしまいましたが、シャビィさん、変装にはこれを使ってください。」

 リシュンはたらいのそばにかがみ込み、麻布にかかった紐をといた。高くはないが、なかなかに手こずった買い物である。決して見栄えのしない薄汚れた長衣を、しかし、リシュンは大きく広げてみせた。


「こんなものまで用意してくださったなんて!この服といい、顔のことといい、リシュンさんにここまでして頂いたからには、必ずお役に立ってみせます。」

 シャビィは長衣を受け取り、たらいの中に浸した。生地から離れた細かいゴミが、水面に浮き上がってくる。

「どういたしまして。でも、実のところ、シャビィさんにはもう大層助けてい頂いているのですよ。」

 袖で隠した口元から、軽やかな笑い声がこぼれた。シャビィには、まだ自分の立場が分かっていないらしい。

「助けるだなんて、そんな……宿と食事までお世話になっているのに、水汲みくらいですよ、私がやったのは。」

 朝布をこすり合わせる手を止めて、シャビィは顔を上げた。リシュンは鎮まるどころか、一層大きな声で笑っている。

シャビィさん、水汲みは、それは見当違いです。私が言っているのは、シャビィさんが手元から消えて、大師達はさぞかしお困りだろうということですよ。」

 目に浮かんだ涙を拭きながら、リシュンはシャビィにからくりを教えた。

シャビィさんを捉えない限り、彼らはシャビイさんの口から内職の噂が漏れるのを心配しなくてはなりません。それも、虎紳さんや煬威さんのような……」

 そうか!やっとのことで事情を飲み込み、シャビィは眩しい声で叫んだ。

「捕まらないように、リシュンさんの提案を受け入れなければならなかったんだ。」

 リシュンが得意げに頷くと、シャビィは再び服を洗い出した。雨ざらしにしてしまったとはいえ、もともとあまり綺麗なシロモノではなかったのだろう。たらいの中は、既に泥水と変わらない。古着屋も、人の良さそうな顔で碌でもないものを売りつけてくれる。

「師匠の口癖でしたね。人は難を逃れようとした時に、最も手痛い過ちを――」

 自分で頷きながら講釈をたれかけて、リシュンは俄かに口をつぐんだ。シャビィは再び手を止め、きょとんとしてリシュンを見つめている。リシュンはシャビィのてから長衣をひったくり、大雑把に二、三度すすいだ。

「だいぶ綺麗になりましたね。シャビィさん、この服を乾かすにも時間がかかります。いかがです?ついでに沐浴なさっては。」

 蔵に押し込まれたのが一昨日の夜ということは、シャビィは少なくとも二日体を洗っていない。選択の途中で取り上げられた長衣に渋い眼差しを送りながらも、シャビィはリシュンの好意に甘んじることにした。

「ええ、この際、古い垢はみな落としてしまいましょう。」

 リシュンは部屋から染みのついた手ぬぐいをとってくると、シャビィに手渡した。

「中庭に降りて、柱廊をくぐったところに洗い場があります。そこで体を洗ってください。」

 水くみ場に流れた水は、再び井戸に溜まってしまう。砂で濾してあるとはいえ、あまり気持ちの良い話ではない。

「分かりました。リシュンさん、ありがとうございます。」

 手ぬぐいを肩にかけ、たらいの水を捨ててしまうと、シャビィはゆっくりと立ち上がり、長い階段を上りだした。


 階段を上りきると、シャビィの目の前に真夏の海が広がった。夕べとはまた違った暖かな桃色が、どこまでも続いている。シャビィは胸いっぱいに潮風を吸い込み、再び歩き出した。重たい陰から解き放たれた明るい中庭は椰子の葉を風が撫でる、目の細かい音色に染まっている。柱廊から左側をのぞくと、幾何学模様の入った石畳の奥に、勝手口につながる階段と大きめの洗い場が見えた。

 螺旋階段を下り、たらいに目一杯水を組んで、シャビィは中老を支えるアーチをくぐった。四角く切り取られた黄色い空に、鉄色の月が浮かんでいる。シャビィは洗い場の前にたらいを起き、崇福を脱いで階段の手すりにかけた。

 一度にいろいろなことが起こりすぎて気にする暇もなかったが、シャビィの肌はなんとなくヌメっている。試しに肩をこすってみると、細長い垢の塊が次々に這い出してきたからたまらない。シャビィは慌てて頭から水をかぶり、絞った手ぬぐいで体中の垢をこそいだ。

 シャビィが手ぬぐいを動かすたび、肩から、足から、背中から、黒ずんだ垢が音を立てて溢れ出し、洗い場に降り積もった。遠い潮騒とヤシの葉音は、擦りむけた肌にも気にならない程柔らかい。

 一通りの垢をこすり出すと、アーチの奥に広がる果てしない空に向かって、シャビィは小さく呟いた。

「大きい……」

 この潮風も突き詰めれば、そよぐ椰子の葉や澄んだ風切り、肌に触れるわずかな重みといったものの寄せ集めに過ぎない。けれどもその潮風は今、シャビィを強く巻き込み、後戻りのきかない所まで押し流そうとしている。シャビィは両足でしっかりと踏ん張り、桃色と黄色の境目を見据えた。

 これからやるべきことは、まだたくさんある。いつまでも裸でいるわけにもいかず、シャビィは垢の塊を洗い流し、残った水で手ぬぐいを洗った。今一度よく見てみると、手ぬぐいの染みは血の跡のようだ。色が変わりきっていないということは、ゆうべシャビィの傷を拭いたものかもしれない。

 手ぬぐいを強く絞り、もう一度肩にかけると、シャビィはたらいに残った水を流した。垢の漂う水たまりは、痛々しい音を立てながら排水口を中心に縮んでゆく。水が流れるのを見届け、シャビィは体を拭き、僧服を纏った。後は、この僧服を着替えるだけだ。

「お待たせしました。」

 シャビィが部屋に戻ると、衝立にはくすんだ長衣と紺色の帯がかかっていた。

「もう乾かして下さったんですね。ありがとうございました。」

 衝立の奥から、リシュンが気のない返事をよこした。

「それはどういたしまして。その服に着替えたら、早速出かけましょう。」

 シャビィは黄色い僧服を脱いで、長衣に袖を通した。乾いたばかりで生地は硬いが、大きさはちょうど良い。これでもう、禅僧たちに怪しまれることもない。リシュンの用意した帯を固く締めて、シャビィは僧服を衝立にかけた。

「リシュンさん、この服はどこにしまいましょう?」

 リシュンは衝立の向こうから手を伸ばし、垢じみた僧服を下ろした。

「念のため、ベッドの下に放り込んでおきます。」

 さすがにこれが見つかっては具合が悪い。僧服をたたんで隠してしまうと、リシュンは鞄を肩にかけ、シャビィの変装を確かめに来た。

「なかなかよくまとまっていますね。丈があっているか心配でしたが、これなら大丈夫そうです。」

 腰に手を当てて鼻を鳴らすリシュンに、シャビィは微笑み返した。

「ええ。それにしても、大変じゃありませんでしたか?この大きさの――」

 シャビィの問いを、大きな腹の虫が遮った、頭をさすろうとして髪に手が触れ、伸ばした手を引っ込めてしまうあたり、シャビィの変装はまだまだ心もとない。リシュンは小さくため息をついて、一つ目の行き先を決めた。

「とりあえず、料理屋から回ってみましょうか。」


 屋敷跡を出て長い階段を下ると、夕べの空き地が見えてきた。あの時は陰の下に埋もれて見えなかったが、急な斜面の上には、大小の墓石がひしめいていたのだ。

 ああ、そうか。墓地を見下ろして、シャビィは足を止めた。

「墓場だったんですね、ここは。」

 リシュンは振り返らず、墓場の階段を下り始めた。

「似たようなところはいくつもあります。昔、流行病で墓場が間に合わなくなり、人のいなくなった辻から取り壊して墓場にしたのだとか。」

 一段飛ばしでリシュンを追いかけながら、シャビィは訪ねた。

「流行病で人が寄り付かなくなったんですか?」

 墓石のほとんどは苔に覆われ、鳥の糞を浴びてまだらになっている。

「それもありますが……墓場だらけでは自然と周りも暗くなるというものです。」

 リシュンは左手を指した。二人が出てきた井戸のある方向だ。

「井戸のある広場があったでしょう?あの並びの向こう側には、墓場がずっと続いていますよ。」

 華やかな港町が人々で賑わう裏側で、忘れられた死が物言わず佇んでいる。シャビィ潮騒にまどろむ家並みを眺め、それから再び歩き出した。

 リシュンは大通りに出ることなく、裏路地をつないで商業地区を目指した。まっすぐな道は一つもなく、上り坂であったり、下り坂であったり、一本上の道に出るための階段などを辿っているのだが、リシュン曰く、これが一番の近道らしい。時折家々の間から顔をのぞかせる海を慰めに、シャビィは粛々と歩き続けた。

「私が出かけている間、シャビィさんは何をしていたのですか?」

 石畳が途切れ、赤い欄干の太鼓橋が現れた。足もとで子供のはしゃぐ声がしている。

「茣蓙を干して床を履いたのと、套路の練習と、そのあとは、座禅を組んでいました。」

 この答えには、流石のリシュンも開いた口が塞がらない。この期に及んで、シャビィはまだ修行を続けるつもりのようだ。

「なんと、まあ……あなたも往生際の悪い人ですね。」

 ため息混じりに嘆くリシュンに、シャビィは笑って答えた。

「ただの習慣ですよ。ああしないと、一日が始まった気になれないんです。」

 太鼓橋から見える海には、大小の帆船が集まっている。リシュンが言ったように寺院の船が紛れ込んでしまえば、見つけ出すのは難しいだろう。

 橋を渡った先にも木造の建物は続いており、山側の石垣と海側の民家の間に細い板張りの通路が伸びている。小さな窓から漏れ出したエビの塩辛の匂いをくぐり抜け、二人は広い通りに出た。

「あの並びのむこうが、大通りです。」

 三階建て、四回建ての連なる町並みの隙間からは、雑踏のうねりが聞こえてくる。

「これから行くお店はこの先ですか?」

 シャビィは向かいの裏道を指した。

「いえ、この階段を下ったところです。あまり綺麗な店ではありませんが、まっとうな味のする料理が出ます。それに――」

 リシュンは顎に手を当て、一瞬考えてから、自分で小さく頷いた。

シャビィさんに合わせたい人の行きつけの店でもあります。」

 昼時には少し遅いが、この暑さだ。まだ店で油を売っているかもしれない。港につながる暑い階段を、二人は足早に下り始めた。

「老師のお供で回った時にも驚かされましたが、本当にいろいろな店が並んでいますね。」

 茶屋や料亭ののれんはもちろん、表で饅頭をふかしたり、そばを炒めている店も少なくない。狭い通りを行きかう人々の間に、鉄板がケチャップマニスをこがす甘辛い匂いが漂っている。

「奏の宮廷料理から、スパッタニの郷土料理まで、何でもありますよ。探せば精進料理の店もあるでしょうが、私たちには高嶺の花です。」

 鳥の串焼き片手に走る少年を、リシュンは器用に避けてみせた。よそ行きにたれを頂いては洒落にならない。リシュンはしばらく歩き、やがてある店の前で立ち止まった。

「着きました。この定食屋です。」

 定食屋の中は、様々な調味料の匂いを吸った分厚い光で満たされていた。いくつかの燈台がいたいけな陰を放つ他には、照明らしいものが見当たらない。リシュンは目を細め、カウンターに知人の姿を認めた。

「パロームさん、お久しぶりです。」

 リシュンが声をかけるやいなや、男は鋭く振り向いた。

「リシュン先生、ご無沙汰です。この間は、どうもありがとうございました。」

 パロームは傷跡の残る頬をゆるめ、二人を手招きした。パロームは日陰者の中では珍しく分別のある男で、リシュンも一目を置いている。

「いかがですか、その後は?うまく片付きましたか?」

 リシュンはパロームのとなりに腰掛けた。シャビィもリシュンに倣ってみたが、この店の椅子はシャビィには小さすぎる。シャビィの重さに耐え兼ねて椅子の上げるうめき声に、チャム人の店員がかけつけた。

「いらっしゃいませ。ただいまお茶をお持ちします。」

 パロームが店員に手を振ってからかうと、店員はふくれっ面で小さく舌を見せた。

「そら、もう。先生の言うとおり、あの女と手を切って正解でしたわ。今思えば、あれは本物の疫病神だ。俺と別れた途端、大店のボンボンのところに転がり込んで、今じゃ店が傾くくらい貢がせまくってるって話ですよ。」

 リシュンは両手で口を覆って、大げさに驚いてみせた。他ならぬそのボンボンの母親からリシュンは結構な大金をせしめているのだが、パロームには知る由もない。

「それはひどい、ぞっとさせられますね。」

 パロームはなぜか、締りのない顔で相槌を打った。

「危うく俺もひどい目にあうところでした。こうして呑気に飯食ってられるのも、先生のおかげですよ。」

 リシュンは横目で、戻ってきた店員の様子を確かめた。カウンタ-で小ぶりの茶杯に煎茶を注ぎながら、リシュンをちらちらと窺っている。

「あの時と比べて随分と顔色が良くなりましたね。男ぶりも上がったのではありませんか?」

 店員の手元が狂い、茶をこぼしてしまったのを見て、リシュンは含みのある笑顔で付け足した。

「……ですが、それだけでは身なりが小ぎれいになったことの説明にはなりませんね。」

 強面に照れ笑いを浮かべながら、パロームは髪をかき回した。

「いや、バレちまいましたか。実はあの後、とある女のこと知り合いまして。いい娘なんだな、これが。郷のお袋と弟たちのために、なるがに出稼ぎに来たってんで――」

 話に付いていき損なって、シャビィは慣れてきた目で店の奥を眺めていた。慌ただしくネギを刻む店主、湯気立ち上る大きな鍋、棚に並んだ大小の壷……その中にあるものを見つけて、シャビィが凍りついたそのとき、店員が大きな音を立て、カウンターに茶杯を叩きつけた。

「お待たせしました。ご注文を伺いましょう。」

 店員の引きつった笑顔に、リシュンは同じく笑顔で応えた。

「私はエビの焼きそばを……これがその娘さんですか?」 

 リシュンが目配せすると、パロームは頷いた。

「ええ。……カマニ、ちゃんと挨拶しろよ。この御方はリシュンさんつってな、うちの頭も頼りにしてる、そらぁすげえ占い師の先生さ」

 眉間にしわを寄せ、じっとリシュンを検めてから、カマニは渋々挨拶した。

「カマニと申します。パロームが何やらお世話になっているようで、恐れ入ります。」

 リシュンは左右に手を振って、謙遜してみせた。

「いえいえ、二、三度筮を立てさせていただいただけですよ。いつも歓楽街で辻占をしているので、悩みが出来た時はいつでも来てくださいね。」

 それはどうも。調子を崩されたカマニは、仕方なく仕事に戻った。


「お連れの方は、いかがなさいますか?」

 シャビィはだらしなく口を開けたまま、厨房の奥の方を虚ろな目で眺めている。目の焦点がどこにも合っていないが、その眼差しをたどった先には、上から吊るされた鶏の骸があった。

「鶏をサテにいたしましょうか。」

 恐る恐るカマニが尋ねると、シャビィは我に返り、小さくのけぞった。

「とんでもない!い、いえ、その、豆腐にしてくださいませんか?」

 縮み上がった目で見つめられてうろたえるカマニに、リシュンが助け舟を出した。

「豆腐のサテに、白ご飯をつけてください。」

 少々お待ちください。カマニが注文を伝えに行くのを見送ると、パロームシャビィをしげしげと見つめた。

「あんた、変わってるなぁ……肉より豆腐か。先生、そちらの兄さんは?」

 シャビィの代わりに、リシュンはさらさらと嘘を並べた。

「カマニさんとだいたい同じですよ。シェブさんといって、スパッタニから丁稚奉公にきた人なのですが、ご存知のとおり不景気ですからね。奉公先の鍛冶屋が潰れて、路頭に迷っていたところなのです。」

 このいかにもありがちな話を、パロームは鵜呑みにした。

「そうか、そういうことなら、いくらでも俺に任せてください。」

 先生には、色々お世話んなってるからな。パロームは立ち上がり、シャビィの肩を軽く叩いた。

「これだけガタイがよけりゃ、何でも出来らぁ。なんなら、ウチの頭に直接引き合わせてやってもいいぜ。」

 シャビィも立ち上がり、パロームに頭を下げた。リシュンの作ってくれたこの機を、小さな拘りで捨てるわけにはいかない。

「かたじけない。出来れば明日からでも、港の仕事を回してくださいますよう。」

 シャビィがリシュンに目配せすると、リシュンは黙って頷いた。

「よしよし、話はつけといてやるから、心配すんな。」

 パロームの笑い方には、狡さはあっても嘘がない。

「ええ、よろしくお願いします。」

 ふらつく足元を力で押さえつけ、シャビィはなけなしの笑顔でパロームの手を取った。

「私からも、お礼を言わせてください。パロームさん。」

 リシュンが深々と頭を下げ、話はあっけなくまとまってしまった。パロームは、何も知らないまま。

「お待たせしました。焼きそばと、サテの定食です。」

 カマニが運んできた皿からは、薄暗い湯気が静かに立ち上っていた、リシュンの焼きそばは勿論、シャビィのサテも、ケチャップマニスで茶色く染まっている。

「俺はもう済ませてますんで、どうぞ、気兼ねなく。」

 パロームに進められるまま、二人は遅めの昼食にありついた。真っ先に広がるのはソースの酸味と甘みだが、どの具材も程よい歯ごたえに加えて、ソースに負けない味を湛えている。店主の火加減には、一分の隙も見当たらない。

 シャビィが空きっ腹に料理を詰め込む傍らで、リシュンはパロームの世間話を聞かされた。何でも、頭目の一人娘の婿取りで、少々揉めているらしい。

「そこんとこ、また今度先生のお知恵を拝借できないもんかと。」

 持ちつ持たれつというわけだ。リシュンは箸を置いて、パロームに微笑みかけた。

「願ってもないお話です。多少の狂言くらいなら、喜んでお付き合いしますよ。」

 娘か頭を、上手く説き伏せろといったところだろう。この手の仕事を善行よろしく爽やかに引き受けてしまうあたりが、リシュンの流石である。

「助かります。」

 力みの抜けた胸をなでおろし、パロームは額を拭った。店には竈の熱がこもっているが、暑さだけではこれだけの汗は出るまい。リシュンは再び焼きそばを食べ進め、シャビィがおかわりを平らげるのを待ってから、パローム達に別れを告げた。


 店を出てから、リシュンは知り合いの商館を片端からあたっていった。この服で上がり込むわけにもいかず、シャビィはまたもや表で見張りだ。門主がまだシャビィを探しているのか、黄色い僧服が何度も目の前を横切り、そのたびに冷たい汗がシャビイの背中を伝った。虎紳の言ったことが正しければ、いつ彼らがリシュンを狙い出さないとも限らない。

 そうして東の空が青みかかってくるまで、リシュンは休まず粘り続けた。寺院まで噂が伝わらなければ、何の意味もないのだ。自由に動ける間に少しでも広めておかなければならない。

「このあたりで切り上げましょう。夜にうろつくのは危険です。それに、明日の朝は早いそうですから。」

 リシュンは十件目から出てくると、肩掛け鞄をシャビィに預けた。さして小さな鞄ではないが、シャビィが持つとまるで玩具だ。

「上手くいきましたか?他の人よりも長居していたような。」

 来たのとは逆の道を歩き出したリシュンを、シャビィは小走りで追いかけた。次第に道が細くなり、廃屋が目立つようになる。

「自慢話が長いので困りました。イゲロイから取り寄せたと言って雪豹を見せてくれましたが、あれで20匹目ですよ。本当にとんでもない猫屋敷です。」

 リシュンは肩をすくめてみせたが、シャビィが笑う気配はなかった。

「そんなに遠くから……この暑さでは、さぞ堪えるでしょうね。」

 会ってもいない獣のことを、よくもまあ気の毒がれたものだ。リシュンは聞こえないように程々のため息をつき、それからシャビィに釘を刺した。

「化け猫の心配をしている暇はありませんよ。明日が大一番になるかもしれないのです。」

 さあ、帰りましょう。リシュンは曲がった階段を上り下りしながら、迷うことなく飲み屋と、芝居小屋と、連れ込み宿の間を通り抜けた。夕暮れの匂いを嗅ぎつけ、漸く起きだした人々が、店の前に水を撒いている。リシュンの後ろに隠れながら、シャビィはなんとか悪徳の渦をかいくぐり、青い夕闇の差し込む広場にたどり着いた。

「広い……こんなに……」

 波間に太陽の陰を抱いた穏やかな海に向かって、なだらかな碧い坂が、冷たく横たわっている。墓場の上にはけたたましい海鳥の声が積み重なり、シャビィ達の下には、波の音さえ届かない。

「今朝お話した墓場です。眺めは悪くないのですが……この季節は渡り鳥がうるさくてかないません。」

 リシュンは声を張り上げ、鳥の声を押しのけた。夕闇に塗りつぶされた藍色の坂を飛び交う、真っ白な塗り残しは、風をなぞる鳥の影。静かに佇む墓石の影を、立て続けに横切って、雛の元へと餌を運ぶ。

「昔はここにも賑やかな街が広がっていたのでしょうか。」

 また一羽、海鳥の影が、シャビィの上を滑っていった。目の前の墓場に街の面影はなく、その墓場も草むらに呑まれて、今はただ墓石が残るばかりだ。シャビィの問が聞こえないのか、潮風に乱れた髪を直しながら、リシュンは草むらに分けいった。

「シャンカさんから聞いた話ですが、」

リシュンは立ち止まり、シャビィを振り返った。物憂げな表情を、低い太陽が青く照らしている。

「ナルガでは、死んだ人の魂が、夏になると渡り鳥になって戻ってくるそうです。そうして、たまに生きた人間を連れて行ってしまうのだとか。」

 リシュンは再び、碧い海を眺めた。

「じゃあ……」

 シャビィは草をかき分け、リシュンに向かって歩きだした。

「彼らはここに集まって、失われた故郷を偲んでいるんでしょうか。」

 神妙な顔で黄昏るシャビィを見て、リシュンは肩をすくめた。

「まさか。鳥たちは子作りに来ているだけですよ。それに……人が住み着く前も、ここは鳥の島だったのです。人がしまを取り上げる前に、戻っただけのことではありませんか。」

 いつかナルガが滅びても、この島は同じ夕日に染まり、鳥たちで溢れかえるだろう。リシュンはあたりを見渡し、草むらを足でかき分けた。


「ああ、ありましたよ。潰された街の跡です。」

 草むらの中から現れたのは、踊り子が彫り込まれた、玄武岩の柱だった。同じ踊り子の様々なポーズが、ざらついた医師の肌にびっしりと並んでいる。

「今は草に覆われていますが。この下は全て瓦礫の山です。片端から掘り返せば、棺桶の間から金銀財宝の一つや二つは出てくるかもしれませんよ。」

 悪趣味なリシュンの提案を、シャビィはきっぱりと断った。

「もうその手には乗りません。心にもないことを言って人をからかってばかりいると、そのうちツケが回ってきますよ。これを機に、日頃の行いを見直してみてはいかがですか?」

 したり顔で説教されて、リシュンは小さく鼻を鳴らした。

「残念、もう慣れてしまいましたか……いかがです、その顔の方は。そちらにも慣れましたか?」

 リシュンの誂えた前髪をいじり、シャビィは苦笑した。

「慣れてきたとは思いますが、慣れすぎるのも困りものです。修行に差し支えがなければ良いのですが。」

 近くの茂みに、一羽の海鳥が降り立った。小さな巣の中では、雛たちが首を伸ばし、ありったけの声で餌をねだっている。

シャビィさん、世の中を見て回ると行っていましたが……本当に旅に出るつもりなのですか?」

 リシュンの問いに、シャビィは笑って答えた。

「ええ。托鉢しながら、着の身着のままで、とりあえず……バムパを目指してみようと思います。なんといっても、仏教の本場ですから。」

 聞けば聞くほど死出の旅だ。あまりの無謀さに、リシュンは眉を寄せた。

「他の人ならともかく、シャビィさんがバムパとは……今から先が思いやられますね。」

 先の海鳥が二人の前を横切り、最後の漁に飛び立った。あたりが暗くなってきたせいか、空を飛んでいた海鳥の多くが、自分の巣に戻ってきている。

「そういえば、リシュンさんはどうするおつもりですか?この捕物がうまくいったら。」

 髪を掻き上げながらシャビィが聞き返すと、リシュンは曖昧なほほ笑みを浮かべ、それからシャビィに背を向けて何かを呟いた。

「リシュンさん?」

 鳥の声に埋もれた言葉を確かめようと歩み寄り、シャビィはリシュンの手に、あの鍵が握られているのを見た。

「お金を貯めて、私も、旅に出るつもりです。この鍵の正体を確かめ、元の世界に帰るために。」

 風に揺られる青い草原に、亭客の黒い影は深く焼きついて離れない。シャビィは立ち止まり、うつむいたまま、力なく請け合った。

「見つかりますよ。きっと。」

リシュンは振り向くことなく、風の中に両手を広げ、大きく息を吸い込んだ。

「ええ、あと少しです。あと少しで、私たちの道が開ける。だから……勝ちましょう、必ず。」


戊へ続く


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