これにて一件落着。
気になるシャビィのその後は、また今度ということで。
ぼんやり輝く夜の海を、柔らかい波に揺られながら、一艘の小舟が渡ってゆく。陸風に流される雲の影を避け、小舟はナルガから北へと進み、やがて海の只中で止まった。
ジャンク船だ。陰に染まった黒い船体が、紺色の空を大きく切り取っている。小舟はジャンク船を縁取る影の帯にゆっくりと近づき、甲板から縄梯子が下りてきた。
「リシュン殿、本当に助かりました。あなたのつないだ仏法の灯火、かの地に根付かせてみせますぞ。」
門主はリシュンに向かって皺だらけの手を合わせた。この老人がここまでさせるのだから、リシュンも偉くなったものである。
「身に余るお言葉、痛み入ります。」
笑顔で頭を下げるリシュンを、パロームは苦笑しながら見つめた。
「どうか、ご無事で。」
リシュンが別れを告げると、門主は静かに立ち上がり、縄梯子に手をかけた。
「リシュン殿も、あまり無理をなさらぬよう。達者でいてくだされ。」
なるほど、鍛え方が違うらしい。門主は揺れる縄梯子を、年寄りとは思えない速さで昇ってゆく。
縄梯子を昇りきると、門主は小舟に向かってもう一度手を合わせ、で迎えに来た男に向き直った。
「ジェンドラ大師ですね。お待ちしておりました。」
手を組んで頭を下げた虎紳に、門主は自ら歩み寄った。
「危ないところに、よう来てくださった。」
甲板の上に伸びたいくつもの白い影が、門主の周りに集まってきた。門主は足音に振り返ったが時既に遅く、鋭く光る槍の影が、大きな車輪を咲かせている。
「それでは早速縛について頂こう。寺院から胡椒が見つかり、お前が手下に運ばせた護符も、誰かに罪を擦り付けるためのものだと噂が街に広まりつつある。後はお前だけだ。ジャーナ宗、第十一代門主、ジェンドラ。」
門主は拳を固く握り、ありったけの声で叫んだ。
「おのれ!謀ったな、……リシュン!」
いきり立ってはいるものの、門主に動き出す気配はない。八方から槍を突きつけられては、さしもの達人もお手上げだ。
「何をおっしゃいますか。裏で汚い商売に手を染めていながら、ひじりの顔をして人々を欺いてきたお方が。……それに、大師、嘘は占い師の職業病でしてね。初めてお会いした時にも、私は嘘を申し上げたのですよ。」
目には見えないリシュンの影を、門主は目を細めて探った。軽い足音だけが、真っ暗な甲板を歩いている。
「じゃが、あの時は奏国が儂らに目をつけていたことを……」
ええ。リシュンの足音が立ち止まった。
「あのとき私は、山風蠱という卦を、朝廷の権力闘争になぞらえ、薫氏が寺院を狙っていると申し上げました。……ですが、あのときに出た卦、山風蠱が示していたのは、それとは全く別のことだったのです。」
門主の目の前で、夜が語っている。後ずさった門主の背中に、冷たい穂先が軽く触れた。
「山風蠱は、先にお話したとおり、山と風という二つの卦からできています。そのうち山は、人を止める門の、また、山上に門を構える寺院の意味を持ちます。そして風は、人々のせわしない行き来の、さらには、人々の行き交う市場の意味を持ちます。」
リシュンの影は、夜の中で小さく笑った。
「……もうお分かりでしょう。あのとき既に、山風蠱という卦は教えてくれていたのです。あなた達が戒律を破り、密かに商いを行っていることを、ね。」
槍よりも鋭いリシュンの眼差しに貫かれ、門主はその場に崩れ落ちた。気づいた時には、後ろ手に縄が回っている。おぼつかない足取りで引き立てられる門主を見送り、虎紳は呟いた。
「げに恐ろしきは占い師か……本当に見つけてしまうとは。」
リシュンは虎紳士に歩み寄り、こともなげに応えてみせた。
「それはもう、見えざるを見抜くのが仕事ですから。」
これでもう、寺院に先はない。二人が笑っていると、槍を片手に煬威が戻ってきた。
「よ、お疲れさん。あんたのお陰で、文句なしの大勝だ。ありがとよ、先生。」
虎紳も頷き、リシュンに向き直った。
「俺からも礼を言わせてくれ。いずれ隊が正式な謝礼を出すだろうが……寺院から押収した胡椒を、いくらか融通できるだろう。それを山分けというのはどうだ?」
虎紳の提案を、リシュンは両手で退けた。
「いえいえ、何もそこまでして頂かなくとも良いのですよ。ご友人を紹介して下さるなら。」
ナルガの景気は冷え込んでいる。奏に戻るのは、決して悪い考えではない。ないのだが、リシュンが目配せしたために、煬威はこれを冗談と受け取ったようだ。
「ああ、よく言って聞かせるよ。占い師だけには、くれぐれも注意するように、ってな。」
煬威の高笑いは、波を越え、夜の海をまっすぐに突き進む。リシュンは船から身を乗り出し、ナルガと、その先にある遥かな奏国を見やった。
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