ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――戊

その53から63までを総括。

丁より続く


 夜明け前の港で、シャビィは眠たげに目をこするパロームと再会した。パロームシャビィを荷担ぎの親方に引き合わせると、親方はシャビィの体つきに満足したのか、すんなりとシャビィを受け入れた。この世間知らずは、都会人にはない野暮ったい愛嬌を備えていたため、出稼ぎの男達にもいたく歓迎され、ひっきりなしに出入りする船の荷物を積んでは下ろし、積んでは下ろし、本人も馬鹿正直に、人並み以上の汗を流した。

 荷物を運んでいる間もシャビィはよくよく目を光らせたが、寺院の船はなかなかやってこなかった。リシュンの読みでも昼過ぎ以降という話だから、なんら問題ないのだが、待つ身にとって時は長い。新しい船の積荷が分かる度に、シャビィはこっそり肩を落とした。

 東の空に黒い半月が昇った頃、白い雨雲がナルガの空を覆い始めた。ほどなくして十歩先も見えない大雨となり、担夫たちは空き倉庫の中に避難した。

「こいつは通り雨じゃねぇな。風が出てきやがった。」

 もみあげを伸ばした年嵩の男が、倉庫の外を見やった。港では、水夫達が雨に打たれながら、船を波止場に繋ぎ直している。

「これで少しは暇になるかね。」

 頭にバンダナを巻いた男がキンマを噛みながら、もみあげの男に巻いたキンマを手渡した。

「この波じゃしばらく船は出せないだろう……来る方は知らんが。」

 もみあげの男は、箱の上に腰を下ろし、キンマを口に入れた。二人がキンマを噛む音が、雨音に混じって足元を濡らしている。

「これから入ってくる分は、雨が上がったあとにまとめて下ろすんですか?」

 シャビィが尋ねると、肩に刺青をした男が、シャビィの脇腹を小突いた。

「そういうことは言いっこなしだぜ。積み替えずに出て行く船だってあらぁ。」

 赤い汁を地面に吐き捨て、バンダナの男が口を挟んだ。

「遅れたら弁償だと言って、雨の中を運ばせる奴もいるがね。」

 勘弁してくれよ。刺青の男が音を上げると、ほかの男たちが一斉に笑い出した。付き合って笑ったものの、寺院の船がいつ、何に扮してやってくるかも分からない。シャビィは再び、港を見つめた。

 シャビィの仕事は、至極簡単だ。他の担夫達と一緒に寺院が持ち込んだ荷物を運び、港の中央、一番人の集まるところで、放り投げるだけでよい。だが――

「何緊張してんだ?雨が降ったって、やることは同じだろう?」

 悪酔いしたバンダナの男が、シャビィの顔を見とがめた。シャビィは小さくはにかみ、手を振って誤解を払った。

「いえ、もっと個人的な問題です。私は、古巣を離れてーー切り替えられたと思っていました。」

 だが、いざ目の前に仲間が現れたとき、果たしてシャビィには何食わぬ顔ができるだろうか。彼らの方が間違っているのだと、信じ続けることができるだろうか。

「前の仕事の話はよ、気の毒だと思うが……」

 もみあげの男が、地面にキンマのカスを吐き捨てた。

「……俺あ、昔船乗りだったことがあってな。なんつうか、こう、船は風に乗って進むじゃねぇか。だから、放っておくと、どんどん流されて変な方に行っちまう。だから……」

 キンマのせいで、いさかさか話がよじれている。もみあげの男は、言葉に詰まって、顔の前で手を組んだ。

「……だから、なんだ。舵をきるのは、曲がるためとは限らねぇ。真っ直ぐ進むために舵をきることだって、いくらでもあるってもんだ。」

 うん、まあ、そういうことよ。シャビィは口を開けたまま、もみあげの男を大きな瞳でじっと見つめた。

「格好つけるのはいいけど、ちゃんとアドバイスになってんの?それ。」

 刺青の男がちゃちゃを入れると、バンダナの男も加わり、空き倉庫は再び笑い声で溢れかえった。

「何ぬかしやがる。ちゃんと話になってるよなぁ、兄さん。」

 もみあげの男に呼ばれて、シャビィは惚けたまま相槌を打った。

「ええ、ありがとうございます。」

 無理に合わせなくてもいいんだぜ。バンダナの男がシャビィを唆したそのとき、分厚い雨を切り裂いて、一隻の帆船が姿を現した。

「噂をすればなんとやらだ。」

 バンダナの男がため息をつき、重そうに腰を上げた。錨をおろした船からは次々に水夫が飛び出し、太い綱を渡して埠頭に船をつないでいる。役人が船に近づき、船上の男と話を始めたようだが、ここからではよく見えない。しばらくして話し合いが終わり、役人が船に上がり込むと、外套をきた男が船の方からこちらにやって来た。

「荷物をおろして荷車に積み替えてくれ。荷車は仲間が呼びに行った。時期に迎えに来るはずだ。」

 男の声を聞いて、シャビィは俯いたまま生唾を飲み込んだ。ヘムだ。リシュンの狙い通り、門主が誘いに乗ったらしい。

もみあげの男に呼ばれて、奥から親方が現れた。

「畏まりました。雨が闇しだい、作業に取り掛かりましょう。」

 ヘムの外套から水が滴り、音を立てて石の床に散らばった。

「何を悠長な。一刻を争うのだ。今すぐ運ばないか。」

 フードに溜まった光の中で、ヘムの目が冷たく陰った。いよいよだ。シャビィは手のひらを服でぬぐい、親方の言葉を待った。

「雨の中の作業は危険です。簡単にお引き受けするわけには――」

「分かった、色をつける。」

 ヘムの舌打ちは、離れて座るシャビィにも聞こえた。担夫達の間にも、険しい表情が広がってゆく。親方とヘムの間を、シャビィの眼差しがせわしなく行き来した。

「お前ら。仕事だ。さっさと終わらせるぞ。」

 へーい。男たちがざらついた返事を吐き出す中、シャビィは一人そっと胸を撫で下ろした。あとは荷物を受け取り、港の真ん中で放り投げるだけでよい。打ち付ける雨の中、列を作って歩く逞しい男たち。自分の脈をこめかみに数えながら、シャビィは一歩ずつその時へと近づいていった。

「新入り、足、滑らせんなよ。」

 役人と入れ違いで、シャビィ達は船に乗り込んだ。刺青の男は足の指で突起をつかみ、雨が流れる傾いた長板を器用に登ってゆく。これならば鷹爪の足とさほど変わらない。シャビィも難なく板を登りきり、ふと倉庫を振り返った。シャビィ達のいた空き倉庫のとなりがわずかに扉を開けている。今日は閉め切りにされていたはずだが、何かあったのだろうか。

「おい、何をしている。」

 ささくれだったヘムの声に、シャビィは頬を引き締めた。件の荷物はもう甲板の上に固められ、欲深い白檀の香りを雨の下に這い回らせている。ヘムに目を合わせないよう、シャビィは木箱だけを見て、刺青の男と同じ動きを繰り返した。

 片膝をついて屈み、木箱の角に手をかけて、奥に傾ける。木箱の床に手を差し入れ、一息に持ち上げて肩に乗せ、立てた方の膝に力を入れて立ち上がる。何も難しいことではない。何も難しいことではないが、どこか一つでもしくじってヘム達に疑われるようなことになれば……そもそも箱の中身が目当てのものでなければ、全てが水の泡だ。

 シャビイは目を閉じ、水をまき散らしながらかぶりを振った。頭を隠したヘムがここにいるのだ。やましいものを運んでいるのでなければ、説明がつかないではないか。震える手で木箱を担ぎ上げ、シャビィは船のへりにかかった長板を目指した。後少しで、すべてが上手くいく。

 だが、横目でヘムを伺ったのが、大きな間違いだった。折悪しく、ヘムもシャビィを見ていたのだ。

「ん?お前、どこかで前にも会ったことがないか?」

ヘムに呼び止められて、シャビィの足は凍りついた。

「いや、そんなことは……」

「ありません」の一言が、喉に使えて出てこない。シャビィは擦り切れた声を必死に絞り出そうとしたが、中途半端に口がわななくばかりだ。見覚えのない担夫が答えに窮しているのを見て、問いかけたヘム自身も首をかしげている。

 顔を描き換え、ボロを身にまとい、ヘムの前に立っている男に、もはや禅僧シャビィの面影はない。どこの港にもいる、担夫そのものだ。あと一言嘘をつきさえすれば、ヘムは見逃してくれるに違いない。額に張り付いた髪から滴る雨だれを噛み締め、男は目をつむった。それでも、この男にはどうしてもつけなかったのだ。ただの担夫なら何の迷いもなくつけるはずの、たった一言の嘘が。


 周りの男たちが見守る中、シャビィは大きく息を吸い込み、やにわに飛沫を上げて駆け出した。長年潮風にさらされているのだろう。しなびた甲板が、たるんだ音を立てた。

「待て!」

 血相を変えたヘムが、叫びながら追いかけてくる。シャビィは素早く長板を駆け下り、振り向きざまに足で蹴飛ばした。

「逃がすな、盗人だ!」

 ヘムは大きく助走をつけて、船から埠頭へ飛び降りた。先をゆく担夫達をすり抜け、シャビィはがむしゃらに走り続けたが、木箱を担いでいたのではどうあがいても勝負にならない。目障りな男たちを蹴散らしながら、ヘムはみるみるシャビィに迫ってきた。

「何しやがる!」

 バンダナの男を躱すと、シャビィの目の前に広場が開けた。シケで船が止まったせいか、人通りはほとんどない。屋台の主人たちが火を止めて、世間話をしているくらいだ。

 ここで木箱をひっくり返したところで、悪事の証は立てられない。多くの商人と買い物客で賑わう、ナルガ一の大通りを目指して、シャビィはありったけの力を振り絞った。血の重みを振り払い、絶え間なく足を踏み出し、腱の悲鳴をねじ伏せて、石畳を送り出し、ただひたすらに前へ、前へ。勢いをつけて検問所を突き破ろうとしたそのとき、聞き覚えのある声がした。

「後は任せろ!」

 煬威だ。シャビィに向かって突き進む荒々しいヘムの走りに、検問所の兵士たちが体でぶつかってゆく。ヘムが地面に倒れ込んだ表紙に、青みがかった禿げ頭がフードの中から現れた。

「放せ、仏敵め。今に仏罰が下るぞ!」

 鼻血を垂れ流しながら、ヘムは煬威達を呪った。

「よく言うぜ、この不良坊主が!」

 煬威がヘムの頭を殴りつけ、すべてが片付いたように見えたが、兵士たちが勝どきを上げたのもつかの間、船に乗っていた力自慢の修行僧たちが、ヘムを助けに駆けつけた。倉庫から飛び出した虎紳達の班も加わり、黄色い僧服が棍に打たれ、緑の隊服が投げ飛ばされ、港の広場は、瞬く間に合戦場と化している。シャビィはこの隙に乗じて、なんとか人だかりに食いついた。

 ところが、木箱を放り投げようと振りかぶったそのとき、シャビィは水溜りに足を滑らせてしまった。足にかかっていた重みが後ろに逃げ出し、大きな体が宙に浮き上がり、水溜りに倒れふしたシャビィを捨て置き、木箱だけが人ごみに突っ込んでゆく。

 重たげな音を立てて木箱は角から階段にぶつかり、激しく回りながら高々と跳ね上がった。四角い蓋が弾け飛び、香木の板切れが中に振りまかれるのを、通りの人々が口を開けて眺めている。中身が減って軽くなった木箱は二、三度跳ね返り、石段に引っかかって漸くその場に落ち着いた。

「おのれ、よくも!」

 混戦から抜け出したヘムが、散らばった護符を這いつくばって集めだした。この場にもはや用はない。シャビィは手をついて起き上がろうとしたが、水溜りの中にとんでもないものを見つけてしまった。


 浅黒く日に焼けた、団子鼻の禅僧である。

「坊さん、とんだ災難だな。この板切れは何だい……お経?がびっしり書いてあるけど。」

 痘痕面(あばたづら)の水夫が、足元に落ちた護符を一枚拾い上げた。二人を手伝うつもりらしいが、シャビィにとってはありがた迷惑だ。

「お守りを運んでいたのですが、少し急ぎすぎたようです。面目ない。」

 素顔のシャビィは立ち上がり、男から護符を受け取った。雨が降りしきっているというのに、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが、人垣を作り始めている。よろめく体を支えようと、右足を下げたとき、シャビィの後ろで耳慣れた声がした。

「お前!……シャビィ?一体どうやって――」

 呪いの解けたシャビィに気づいて、ヘムがふらふらと立ち上がった。頭から引いた血の気が、シャビィの背筋を伝ってゆく。ヘムを振り返り、その顔を見て、シャビィは飛びすさった。

「貴様、お情けで生かされておきながら……後足で砂をかけるか……」

 いかめしい肩を震わせながら、ヘムはシャビィにゆっくりと近づいた。シャビィも構えて後ずさるが、ヘムに勝てたことなど一度もない。手近な棚を二人の間に引き倒し、シャビィは路地裏に逃げ込んだ。

「逃げるな、裏切り者め!」

 ヘムの怒号が、狭い路地を真っ直ぐに突き抜けた。荷物からは解き放たれても、半日分の疲れを引きずっていては、兄弟子を振り切ることは難しい。右へ、左へ、ナルガの奥に向かって曲がりくねった階段を駆けまわるうちに、シャビィはとうとう袋小路にあたってしまった。

四面を家に囲まれた小さな広場の中心には、蓋の付いた大きな井戸がある。ゆっくりと近づいてくる足音に向かって、シャビィは小さく鶏歩に構えた。

「たまには老師も間違うらしい。やはりお前はあのとき殺しておくべきだったよ。」

 広場の角から、ヘムが現れた。構えてこそいないものの、歩幅は小さく、肩は落として、いつでも動き出せる手本のような姿勢だ。

「先輩、なぜそんなに罪を重ねようとするんです。寺院はそんなにお金に困ってるわけじゃないでしょう?」

 訴えながら、シャビィはまたじりじりと後ずさった。分厚い雨の帳の奥にヘムの姿は遮られ、僅かに見える輪郭だけが、次第に大きくなってゆく。

「ほう?この期に及んで俺が因果に落ぬよう気にかけてくれるとはな……だが、その心配は無用だ。」

 ヘムの湿った足音が闇、尖った笑い声がこだました。白い影が、小刻みに肩を震わせている。

「はかない蓮華を毒虫からお救いしようというのだ。これを功徳でなくて何と言う!」

 シャビィは目を細め、ヘムの出方を窺った。

「それこそ無益な殺生です。老師の庵に飾られたのでは、蓮華も長くは持ちますまい。」

 シャビィのかかとが、冷たい石壁にぶつかった。ヘムがこの隙を見逃すはずがない。ヘムが振りかぶった拳をシャビィは右に動いて躱し、右手ですくい上げようとしたが、拳は飛んでこなかった。それどころか、伸ばした肘がヘムの左手につかまり、いつの間にか極められている。

「蘇るとも。その蜜で飼っていた、蜂の王子が捕まれば。」

 ヘムは口元を歪めると、右手でシャビィの腕を引っ張り、左手で肘を押し出した。シャビィの強い足腰も、肘に走ったきしみばかりは止められない。ヘムに注文されるまま、シャビィは自ら石壁に飛び込み、重たく、鈍く、暗い音が、雨の広場に響き渡った。


 このむごい音もシャビィの耳にはまるで届かず、シャビィの体を貫いたのは、総身が叩きつけられる、はかりしれない力だけ。倒れる間際に踏みとどまりはしたものの、右腕は痛みに食い尽くされ、口の中には鉄錆の味が広がり、眉間を流れる血に染まって、目の前が真っ赤に見える。

「どうだ?シャビィ。戻りたい気分になったか?老師は寛大なお方だ。お前が一度道を踏み外したとしても、心から悔い改めれば迎え入れて下さるだろう。」

 ヘムがシャビィの耳元で、そっと優しく囁いた。

「思い上がったお前の台詞も、今のうちなら忘れてやろう。今までどおり、素直に先輩の言う事を聞いて、修行に励めばいいじゃないか。」

 依然ねじ伏せられたまま、シャビイは肩で息をしている。ヘムは再び、シャビィの右肘を絞った。

「このまま仏道に背けば、お前は永劫三悪道に閉じ込められることだろう。道はカタリム山にある!カタリム山に返り、仏門に帰れ、シャビィ!」

 シャビィにとって、道とは寺院そのものだった。山裾の畑で流す汗、難解な公案をめぐる議論、心身を鍛えるための厳しい訓練、僧堂に満ちた水々しい墨の香り、心すらも忘れ去った座布の上のひと時、そして何より、志を同じくする仲間達……鐘の音と共に始まり、日の出とともに終わる一日の積み重ねは、確かに悟りへとつながっているように見えた。しかし――

「先輩、修行を続けた先に、道は開けますか?」

 再び始まった禅問答に、ヘムの手が一瞬緩んだ。

「それ以外の、どこにある?」

 シャビィの手首を捕らえたヘムの右手に寄りかかり、シャビィはヘムの体を崩した。倒れまいとシャビィを引っ張るヘムの体の前側に、力の隙間が生じているのが横目にはっきり見て取れる。シャビィは体を落とし込み、腰をひねって左足を狭い活路に差し込んだ。

「そこだ!」

 シャビィは右手の下をくぐって、力の隙間に滑り込んだ。翻った体の流れはそのまま左の拳に伝わり、ヘムが体を起こす動きにぴったりと合わさっている。シャビィはそのまま勢いだけを左手から送り出し、よろめいたヘムの体を真っ直ぐに突き飛ばした。


――シャビィがまっすぐ進むためには、そこから外れる覚悟がいるのだ。


 ヘムは背中を井戸筒に打ち付け、痛々しいうめき声を上げた。円い井戸筒の上では、受身などとりようがない。間髪いれずにシャビィは駆け寄り、左の踵を叩き込もうとしたが、ヘムは見事にこれを捌いてシャビィの足を掬い上げた。

「調子に乗るなよ。」

 左足を上に逃がし、立て直すのに精一杯で、蹴り込まれたヘムの足をシャビィは上手く掴めない。両手でなんとか受け止めたものの、シャビィは大きく突き放され、その隙にヘムも間合いの外に逃げ出してしまった。シャビィは大きく息をつき、左手で血の入った目をこすった。

「丁度いい。お前みたいなお利口さんが、俺は一番嫌いでな。前々から叩きのめしてやりたいと思っていたのさ。」

 石畳に唾を吐き捨て、ヘムはシャビィににじり寄った。暗い雨はいよいよ激しく、二人の顔を打ち付ける。シャビィも自ら歩みだし、あと一歩で打ち込めるところまで近づいたその時、額から流れてきた一筋の雨水が、ヘムの左目を塞がせた。

この好機を逃す手はない。シャビィは左手でヘムの左手を叩き落とし、右肩から素早くヘムに密着した。ヘムの背後に刺さった踏み込みは、音を立てないほど優しく、深い。右手の手刀は雨だれを断ち切りながら、確かにヘムの腰を捉えたように見えた。

 だが、ヘムは腐ってもシャビィの兄弟子だ。シャビィの技は、あらかた知っている。ヘムは左足でシャビィの右足を刈り取り、シャビィはその場に膝をついてしまった。力の抜けた手刀も、再びヘムに捕まっている。シャビィは咄嗟に右足を投げ出し、尻餅をつきながら左に回ってヘムの左手を引きずり下ろした。シャビイの上に倒れたヘムは、放し損ねたシャビィの右手に引き込まれ、肩から地面に落ちてゆく。受身をとったヘムの左手からは高々と飛沫が上がり、色あせた広間を彩った。

「まだだ!」

 シャビィはいち早く起き上がり、立ち上がろうとしているヘムに、右の拳を叩き込んだ。ヘムは咄嗟に手で体を庇いはしたものの、勢いは殺しきれず、足が床から浮いている。シャビィはすかさず踏み込んで、立て続けに双把を放った。

 濡れた足場とは思えない、力の乗り切った一撃だ。ヘムは抗うこともできずに軽々と吹き飛ばされたが、あまりに壁が近すぎた。ヘムの体は倒れる前に背中から壁にぶつかり、受身を取ったヘムの前に、シャビィは自ら飛び込んでゆく。突き出された左足はシャビィの胸板に音を立ててめり込み、シャビィを二、三歩押し戻した。

 吸い込む息が痛みを押し広げ、全身を駆け巡って再び胸へと帰ってくる。息を浅く抑えながら喘ぐシャビィに近づくと、ヘムは大きく体を沈めた。足払いから、死角に潜り込む技だ。

 研ぎ澄まされた水音を、シャビィは高く飛んで躱し、大きくのけぞり手を伸ばして、井戸の蓋の取っ手を掴んだ。弧を描いたシャビィの体は井戸の上で逆さに止まり、再び弧を描いて腹側へ跳ね返った。軽やかな音と共に着地したシャビィの手には、井戸の蓋が握られている。井戸を挟んで構えたまま、二人はしばらく睨み合ったが、それも長くは続かなかった。

「ヘムーっ、ヘムーっ、どこに行ったのーっ?こんな時に、何してるのよーっ!」

 ヘムを呼ぶクーの声は、ここからそう離れていない。ヘムはにやりと笑って勝ち誇り、大きな声で呼び返した。

「クー、ここだ!シャビィもいるぞ!」

 風が強くなったのか、四角く切り取られた小さな空を、真っ白な雨雲が勢いよく流されている。入り組んだ路地の上げる擦り切れた悲鳴に負けじと、クーも声を張り上げた。

シャビィが?大変じゃない!」

 胸と頭を打ち鳴らす脈に耐え、シャビィは目頭に皺を寄せた。傷ついたシャビィの体には、クーどころかヘムの相手をする力も残っていない。風と雨の音に混じって、広場につながるたった一つの階段を、湿った足音が上ってくる。

 だが、広場に流れ込む音の洪水の底には、聞き覚えのある低い唸りが潜んでいた。頭上でもなければ路地でもない、目の前に口を開けた石組みの井戸筒から、水路の音が湧いているのだ。

「一切万物皆無情なり。恨むらくは我が身を以て、獅子に食われざりしことを!」

シャビィが未曾有経を引いたそのとき、四角い広場が闇に包まれた。井戸の内側に、梯子の影が伸びている。顔を背けたヘムに向かって、シャビィは井戸の蓋を投げつけ、緯度に向かって走り出した。

ヘムは蓋をなんとか弾いて、大声で叫んでいるが、空の怒号に叩き潰され誰の耳にも届かない。井戸のへりに手をついて、石畳を強く蹴り、シャビィは白い光の中へひと思いに飛び込んだ。

「逃がすか!」

 シャビィを追って、ヘムも井戸に飛び込んだ。梯子につかまるシャビィの脇を、勢いよく通り過ぎ、激流の餌食となって、ヘムが押し流されてゆく。シャビィは小さく身を縮め、ヘムの悲鳴が遠ざかるのを震えながら聞いていた。


「ヘム?シャビィはどこなの?」

クーがたどり着いた時には、広場に二人の姿はなかった。雨の打ちつける石畳の上には、井戸の蓋だけが残されている。少しの間蓋を見つめ、それからクーは大きく目を見開いた。

「嘘……待って、そんな……」

 クーは井戸に駆け寄って中を覗いてみたものの、眩しいばかりで中の様子は分からない。水路の唸り声だけが、むごい顛末を物語っている。クーは目を瞑って、小さく項垂れた。

「なんてこと……いけない!」

 クーはかぶりを振り、走って広場を跡にした。


それからしばらくしてクーの足音が聞こえなくなってから、シャビィは井戸の外に這い出し、ボロボロに傷ついた体を冷たい石畳に横たえた。


 その頃プリア・クック寺院では、仲間が捕まったという報せを受け、皆が浮き足立っていた。勿論全ての者が事情を知っているわけではない。説明を求める弟子たちを遠ざけ、門主は閉め切った私室を音を立てて歩き回った。

「老師、お忙しいところ誠に申し訳ありません。」

 遠慮がちな弟子の声に、門主は激しく噛み付いた。

「分かっておるなら、煩わせるでない!」

 ただ護符が見つかっただけではない。ヘム達は大帆行の名前を借りて札を運んでいたのである。せめて、素直に捕まれば誤魔化しようもあったものを、ヘム達は兵士たちと乱闘騒ぎを起こしたというではないか。これではもはや、誰も寺院の肩を持つまい。

「その、リシュンと申す占い師が、お目通りを願いたいと……」

 その一言に、門主の足はぴたりと止まった。また何か、得難い報せがあるかもしれない。

「通せ!……いや、儂が出よう。」

 墓場につながる裏門に、件の女が待っていた。

「大師にあられましては、ご機嫌麗しゅう。」

 リシュンは恭しく跪き、水の滴る門主に訊ねた。

「ことの成否が気になり、馳せ参じました。大師、真の咎人は見つかりましたか?」

 見つかるどころか、奏国軍の屯所に捕まっている。門主はたぎる腹わたを、しおらしさで覆い隠した。

「それが、間に合いませんでな。奏国の兵達が、今こちらに向かっておるようなのです。」

 リシュンは目を伏せ、大げさに嘆いてみせた。

「やはり左様にございましたか……港が軍に閉め切られていたのは、そのためだったのですね。」

 そこまでされては、門徒の船で逃れることもかなわない。門主は裏門の真新しい柱に寄りかかった。

「もはやこれまでか……」

 門主の目は、暗い眼窩に落ち込んでいる。リシュンはしぼんだ老人の手を取り、真顔で訴えた。

「諦めてはなりません。ここで仏法の灯火を途絶えさせては、夜は再び暗きに沈んでしまいます。」

 門主はリシュンを見上げ、かすれた声で呟いた。

「しかし……」

 リシュンは周りを窺い、それから門主に囁きかけた。

「夜半に小舟を出して、沖の船に拾ってもらうのです。向かいの港は抑えられているでしょうが……この島の近くに実はもう一つ港があるのです。」

 小さな声で話すリシュンに、門主もつられて小声で返した。

「なんと、初耳ですな。」

 リシュンは島の西を見やった。暗い雨の向こうには、尖った平たい島がある。

「ナルガの西に、岩山からなる細長い島があるでしょう?……あの島の裏側には、鳥関水軍のアジトがあるのです。彼らに頼めば……シャンビーヤに逃れることができるかもしれません。」

 思い切ったリシュンの案に、門主は顔を曇らせた。

「信用できるのですか?相手は海賊ですぞ。」

 リシュンは門主に向き直り、力強く頷いた。

「心配には及びません。密航は彼らの商売の一つですから……ただし、それなりの金子を要求されるでしょう。小舟が奏国軍に見つからぬよう、お供も二人か一人に絞らなくてはなりません。」

 門主は目頭をおさえて唸り、それから恐る恐る口を開いた。

十両あれば足りますかな?」

 リシュンは少し考え、暗い顔で頷いた。

「大師お一人なら、恐らくは。」


 門主が金子を取りに戻ると、医師の廊下を裸足が走る、冷たい音が近づいてきた。

「老師!表に奏国の兵隊が!ここは私たちが引き止めます故、老師だけでもどうかお逃げください!」

 懐に金子を隠し、門主はクーの肩を叩いた。

「クーよ、我が身を惜しまぬそなたの帰依は、来世において必ずや実を結ぶであろう。」

 クーは跪き、押し殺した声で答えた。

「クーめは果報者にございます。」

 どうかお達者で。僧服の裾を翻し、クーが跡にした廊下は、風が吹き込んだわけでもあるまいに、点々と雨に濡れている。門主は大振りな外套を着込み、リシュンの下へと急いだ。廊下を抜け、枯山水を渡り、墓場へつながる裏門へ。砂利を蹴り上げ、息せき切って駆けてきた門主を見て、リシュンは目を丸くした。

「そんなに慌てて、如何なさいましたか?」

 門主のハゲ頭は、大粒の汗でびっしり覆われている。

「兵士たちが、ついにやって来たとのこと。儂はひとまず身を隠します。」

早速いさかいが始まったのか、僧堂のむこうが何やら騒がしい。

「それならば、よい所がございます。ご案内いたしましょう。」

 リシュンは門主を助けながら、草の生い茂る墓場を横切り、廃屋の立ち並ぶ裏路地に駆け込んだ。


「ところで、大師。」

 曲がり角の先を覗きながら、リシュンが訪ねた。狭い階段の上に、人影は見当たらない。

「何ですかな?」

 フードの下から、門主が声を覗かせた。

「先日、さる禅師様が失踪されたという噂を伺ったのですが……」

 リシュンの問を、門主は用心深く噛み締めた。

シャビィのことでしょう。最初にお会いした時に、儂が連れていた。」

 リシュンは角を曲がり、門主を手招きした。人気のない路地裏は、雨音に沈んでいる。

「ええ。無事、見つけられましたか?」

 壁に手を付きながら、門主は急な階段を一段ずつ下りていった。目の前に開けた海には、確かに船が見当たらない。

「いえ。ほぼ総がかりで探しましたが、見つかりませなんだ。」

 門主の声は、心なしかざらついている。リシュンは階段の半ばで立ち止まり、振り返った。

「しかし、信じがたいことですね。あんなに真面目そうな人が、寺院から逃げ出すとは。」

 リシュンは顎に手を当てて、考え込むふりをした。

「全く、わしも未だに信じられませぬ。一体どうやって――」

 言いかけて、門主は口をつぐんだ。焦りに負けて、口が緩んでいるようだ。

「となると、やはり奏国の兵士が絡んでいるのでしょうか。」

 リシュンは気づかぬふりをして、廃屋の床下に潜り込んだ。

「え、ええ。そうでしょう。そう考えるのが筋ですな。」

 門主は後ろを振り返ってから、リシュンに続いた。光の届かぬ床下は眩しさに塗り込められ、前をゆくリシュンの姿もよく見えない。

「口封じか、責め問いか。いずれにせよ……こちらです。」

 リシュンは突き当りを右に曲がった。行き止まりに見えたが、家同士の間に小さな隙間があったらしい。

「よい禅師様でしたのに……寺院にとっても、惜しい人を亡くされましたね。」

 隙間の先には、よく見えないが、小さな扉があるようだ。リシュンは肩を落とした門主を支えながら、扉を押し開いた。

「ええ。ですが、それだけではのうて……あれは、預かりものだったのです。」

 門主は秘密の部屋を見渡し、ゆっくりと語りだした。


 ぼんやり輝く夜の海を、柔らかい波に揺られながら、一艘の小舟が渡ってゆく。陸風に流される雲の影を避け、小舟はナルガから北へと進み、やがて海の只中で止まった。

 ジャンク船だ。陰に染まった黒い船体が、紺色の空を大きく切り取っている。小舟はジャンク船を縁取る影の帯にゆっくりと近づき、甲板から縄梯子が下りてきた。

「リシュン殿、本当に助かりました。あなたのつないだ仏法の灯火、かの地に根付かせてみせますぞ。」

 門主はリシュンに向かって皺だらけの手を合わせた。この老人がここまでさせるのだから、リシュンも偉くなったものである。

「身に余るお言葉、痛み入ります。」

 笑顔で頭を下げるリシュンを、パロームは苦笑しながら見つめた。

「どうか、ご無事で。」

 リシュンが別れを告げると、門主は静かに立ち上がり、縄梯子に手をかけた。

「リシュン殿も、あまり無理をなさらぬよう。達者でいてくだされ。」

 なるほど、鍛え方が違うらしい。門主は揺れる縄梯子を、年寄りとは思えない速さで昇ってゆく。

 縄梯子を昇りきると、門主は小舟に向かってもう一度手を合わせ、で迎えに来た男に向き直った。

「ジェンドラ大師ですね。お待ちしておりました。」

 手を組んで頭を下げた虎紳に、門主は自ら歩み寄った。

「危ないところに、よう来てくださった。」

 甲板の上に伸びたいくつもの白い影が、門主の周りに集まってきた。門主は足音に振り返ったが時既に遅く、鋭く光る槍の影が、大きな車輪を咲かせている。

「それでは早速縛について頂こう。寺院から胡椒が見つかり、お前が手下に運ばせた護符も、誰かに罪を擦り付けるためのものだと噂が街に広まりつつある。後はお前だけだ。ジャーナ宗、第十一代門主、ジェンドラ。」

 門主は拳を固く握り、ありったけの声で叫んだ。

「おのれ!謀ったな、……リシュン!」

 いきり立ってはいるものの、門主に動き出す気配はない。八方から槍を突きつけられては、さしもの達人もお手上げだ。

「何をおっしゃいますか。裏で汚い商売に手を染めていながら、ひじりの顔をして人々を欺いてきたお方が。……それに、大師、嘘は占い師の職業病でしてね。初めてお会いした時にも、私は嘘を申し上げたのですよ。」

 目には見えないリシュンの影を、門主は目を細めて探った。軽い足音だけが、真っ暗な甲板を歩いている。

「じゃが、あの時は奏国が儂らに目をつけていたことを……」

 ええ。リシュンの足音が立ち止まった。

「あのとき私は、山風蠱という卦を、朝廷の権力闘争になぞらえ、薫氏が寺院を狙っていると申し上げました。……ですが、あのときに出た卦、山風蠱が示していたのは、それとは全く別のことだったのです。」

 門主の目の前で、夜が語っている。後ずさった門主の背中に、冷たい穂先が軽く触れた。

「山風蠱は、先にお話したとおり、山と風という二つの卦からできています。そのうち山は、人を止める門の、また、山上に門を構える寺院の意味を持ちます。そして風は、人々のせわしない行き来の、さらには、人々の行き交う市場の意味を持ちます。」

 リシュンの影は、夜の中で小さく笑った。

「……もうお分かりでしょう。あのとき既に、山風蠱という卦は教えてくれていたのです。あなた達が戒律を破り、密かに商いを行っていることを、ね。」

 槍よりも鋭いリシュンの眼差しに貫かれ、門主はその場に崩れ落ちた。気づいた時には、後ろ手に縄が回っている。おぼつかない足取りで引き立てられる門主を見送り、虎紳は呟いた。

「げに恐ろしきは占い師か……本当に見つけてしまうとは。」

 リシュンは虎紳士に歩み寄り、こともなげに応えてみせた。

「それはもう、見えざるを見抜くのが仕事ですから。」

 これでもう、寺院に先はない。二人が笑っていると、槍を片手に煬威が戻ってきた。

「よ、お疲れさん。あんたのお陰で、文句なしの大勝だ。ありがとよ、先生。」

 虎紳も頷き、リシュンに向き直った。

「俺からも礼を言わせてくれ。いずれ隊が正式な謝礼を出すだろうが……寺院から押収した胡椒を、いくらか融通できるだろう。それを山分けというのはどうだ?」

 虎紳の提案を、リシュンは両手で退けた。

「いえいえ、何もそこまでして頂かなくとも良いのですよ。ご友人を紹介して下さるなら。」

 ナルガの景気は冷え込んでいる。奏に戻るのは、決して悪い考えではない。ないのだが、リシュンが目配せしたために、煬威はこれを冗談と受け取ったようだ。

「ああ、よく言って聞かせるよ。占い師だけには、くれぐれも注意するように、ってな。」

 煬威の高笑いは、波を越え、夜の海をまっすぐに突き進む。リシュンは船から身を乗り出し、ナルガと、その先にある遥かな奏国を見やった。


「老師、お忙しいところ、失礼いたします。」

 シャビィは三拝してから、門主の私室に足を踏み入れた。

「お久しぶりです、老師。」

 シャビィの前にいるのは、老師と呼ぶには若すぎる、小難しい優男だ。

「ああ、久しぶりだな。シャビィ。どうだ?怪我の具合は。」

 先週まで、院主と呼ばれていたこの男は、ジェンドラ逮捕の報せを受け、今はカタリム山の主として事件の後始末にあたっている。

「おかげさまですっかり元通りに治りました。ですが、老師、ヘム先輩は……見つからなかったのですね。」

 シャビィは小さく俯いた。中庭に鳥が遊んでいるのだろうか。軽やかにさえずる声が、部屋の中まで聞こえてくる。

「……五日前、水死体が見つかったそうだ。お前には伝え辛かったのだろうが……気に止むことはない。お前が手を下したわけではないのだから。」

 院主は少しずつ言葉を絞り出したが、シャビィはゆっくりと首を横に振った。

「世にあってはそうかもしれません。ですが、私にとっては同じことです。」

 シャビィの微笑みは、澱むことなく、風にざわめくこともない。院主はシャビィの眼をじっと見つめ、それから静かに言い渡した。

「分かった。シャビィよ。今日をもって、お前を破門に処する。」

 シャビィが静かに額づくのを、院主はじっと見つめた。

「長い間、本当にお世話になりました。」

 部屋に満ちた静けさを、小鳥の羽音が横切った。伏せたままシャビィは返事を待ったが、院主は何も応えない。やがてシャビィが面を上げると、院主は苦笑してみせた。

「あんなことがあった後では、さして未練も感じぬか……何、お前だけではない。この一週間、何人もの仲間が山を下りていった。この寺も……見ての通りだ。引き払う手はずも整えてある。」

 笑顔で外を見やる院主に、シャビィは思いを打ち明けた。

「私も、わからなくなりました……私が今まで学んできたことは、正しかったのか、それとも、間違っていたのか。」

 言葉とは裏腹に、シャビィの顔つきから迷いやあきらめは伺えない。

「だから、旅に出ようと思います。旅をして、世界を見て回りたい……思えば私は、ほかの先輩方と違って、浮世のことさえまるで知らない。真理に至るためにはまず、自分の目で五色の世界を見つめなければならないのだと、思い至りました。達磨大師が、そうしたように。釈尊が、そうしたように。」

 シャビィの眼差しをよくよく確かめ、院主は小さく頷いた。

「その旨は、リシュンという占い師からも聞かされたよ……人によって、悟りに至るきっかけは様々だ。存外、お前にとって、その旅は寄り道ではないかもしれぬ。」

 旅か――院主は小さくつぶやき、窓越しの空を眺めた。鐘の形にくり抜かれた黄色い空から、淡い陰が部屋に差し込んでいる。

「ところでシャビィ、行き先はもう決まっているのか?」

 院主の何気ない問いかけに、シャビィはさらりと白状した。

「いえ。今のところは、何も。」

 リシュンの前ではバムパなどと口にしてしまったが、いざ旅に出るとなると、いかにも夢物語である。シャビィが後ろ頭をさすると、院主は晴れやかな笑顔を見せた。

「そうか。ならばちょうど良い。ついでに一つ、使いを頼まれてはくれぬか。」

 院主にも、寺院にも、返しきれない大恩がある。シャビィは迷わず頼みを聞き入れた。

「私に出来ることがあるなら、是非。」

 届け物か、人探しか。いずれにしても、旅をすることに変わりない。訪れた先で、よい師に巡り合うこともあろう。シャビィは院主の言葉を待ったが、院主が呼んだのは、全く別人の名前だった。

「……ということです。リシュン殿。」

 シャビィの上を素通りした眼差しの先にいたのは、果たしてリシュンその人だった。いつの間にか、リシュンが戸口で立ち聞きしていたのだ。

「リ、リシュンさん、どうしてここに……」

目を白黒させるシャビィに、院主は種を明かしてみせた。

「彼女を無事、白帯の奥地、無端まで送り届けて欲しい。聞けば、お前は危ういところを彼女に助けられたという。お前としても、不服はないはずだが?」

 シャビィは両手を突き出して、院主の説く理屈から身を守った。

「し、しかし……とにかくダメです!女性と二人旅だなんて。しゅ、修行が妨げになります!」

 頑なに拒むシャビィを、薄暗いリシュンの影がしっかりと押さえつけている。挟み撃ちに会い、シャビィはすっかり逃げ場を失ったかのように見えたが、ここに至ってリシュンがシャビィを庇いだした。

「よいのです、大師。伝え聞くところによると、無端という村があるのは、未だに森が深く、賊のはびこる翠峻の山奥。かくも険しい旅に、無理に付き合って頂くことはありません……」

 翠峻といえば、僻地中の僻地である。この娘は一人で、そんなところに赴こうというのだ。

「リシュンさん……」

 寄る辺のない笑顔を見上げ、シャビィは僅かに目を細めた。

「……私が立て替えた、金三両を今すぐ払っていただけるなら。」

 リシュンの口からさらりと出た一言が、シャビィのわきを流れ去っていった。何も言い返せないまま、暫く呆け、シャビィは漸く口を開いた。

「立て替えた?と言いますと……」

 リシュンは腕を組み、小さく鼻を鳴らした。

「乱闘騒ぎの時に、シャビィさんが割った焼き物のお代です。よりにもよって、お高い青磁ばかり……」

乱闘していたのは煬威達だ。弁償なら、彼らに求めるのが筋ではないか。

「乱闘って、私は加わってませんよ。私が先輩と――」

 言いかけて、シャビィは口をつぐんだ。戦う前に、確か大通りでひと悶着があったはずだ。ヘムを撒こうと倒した棚に、焼き物が並んでいたのかもしれない。

 血の気の失せたシャビィの顔を見て、リシュンは冷たい釘を刺した。

「言わずもがな、三両は大金ですよ。港で働いて稼ぐとなると、十年かかるか、二十年かかるか……あるいは、利子を払うのでだけで力尽きてしまうかもしれません。」

 シャビィの前にかがみ込み、リシュンはそっと付け足した。

「その点、私についてくれば、一年足らずで自由になれますよ。」

 床に手を付いたシャビィの肩を、院主は優しく叩いた。

「すまんな。私も出してやりたいが、奏国軍に根こそぎ持っていかれてしまってな。ここには何も残っていないのだ……それに、恩人をむざむざ死なせるわけにも行くまい。」

 すっかり観念したシャビィは、力なくリシュンに頭を下げた。

「……お供いたします。」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」

 リシュンも頭を下げたが、それもつかの間のこと。すぐさま立ち上がり、表の方を指差した。

「さあ、シャビィさん、荷物はここまで運んであります。船が出るまで間がないので、急いでください。大師も、ありがとうございました。」

 挨拶を軽い会釈ですませ、リシュンは足早に歩きだした。

「老師、失礼いたします。」

 シャビィも立ち上がり、リシュンを追いかけようとしたところを、院主は涼しく呼び止めた。

シャビィよ、道は見つかったか?」

 穏やかな眼差しを通じて、静けさが二人の間を伝わった。この期に及んで、語るべき言葉はない。シャビィは左足を上げ、足の裏を院主に見せた。

「ならば、行くがよい。」

 院主は小さく頷き、シャビィを送り出した。表には、呆れ顔のリシュンが待っていることだろう。シャビィは一礼して、リシュンの後を追った。

「言った端から、のんびりしないでください。」

 シャビィは文句を聞き流しつつ、大きな荷物を背負い込んだ。行李は見た目に違わず重く、女ひとりでは到底運べそうにない。

「こんなにたくさん、邪魔になりませんか?」

 シャビィが荷物を振り返ると、リシュンはため息混じりに答えた。

「しばらくは船旅なので、ご心配なく。丘に上がる時に減らせば良いのです。」

 行きますよ、早く。番のいない門をくぐり、二人は坂道を歩きだした。北の異国を目指して駆ける、暖かい潮風に吹かれながら。


――下を巽、外を艮にするは山風蠱。本来は父母との死別や、葬儀を表す卦であるが、艮が末子、巽が長女を指すことから、この卦はしばしば、年上の女が年下の男を弄ぶ様に例えられる。前途多難な二人の旅路が、一体どこに向かっているのか、そればかりは、私のの目にも見通せない。

 


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