ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――その57

バリバリ戦うシャビィとヘム。

剣も魔法もない素手泥仕合の行方は、いかに。

その56より続く


 このむごい音もシャビィの耳にはまるで届かず、シャビィの体を貫いたのは、総身が叩きつけられる、はかりしれない力だけ。倒れる間際に踏みとどまりはしたものの、右腕は痛みに食い尽くされ、口の中には鉄錆の味が広がり、眉間を流れる血に染まって、目の前が真っ赤に見える。

「どうだ?シャビィ。戻りたい気分になったか?老師は寛大なお方だ。お前が一度道を踏み外したとしても、心から悔い改めれば迎え入れて下さるだろう。」

 ヘムがシャビィの耳元で、そっと優しく囁いた。

「思い上がったお前の台詞も、今のうちなら忘れてやろう。今までどおり、素直に先輩の言う事を聞いて、修行に励めばいいじゃないか。」

 依然ねじ伏せられたまま、シャビイは肩で息をしている。ヘムは再び、シャビィの右肘を絞った。

「このまま仏道に背けば、お前は永劫三悪道に閉じ込められることだろう。道はカタリム山にある!カタリム山に返り、仏門に帰れ、シャビィ!」

 シャビィにとって、道とは寺院そのものだった。山裾の畑で流す汗、難解な公案をめぐる議論、心身を鍛えるための厳しい訓練、僧堂に満ちた水々しい墨の香り、心すらも忘れ去った座布の上のひと時、そして何より、志を同じくする仲間達……鐘の音と共に始まり、日の出とともに終わる一日の積み重ねは、確かに悟りへとつながっているように見えた。しかし――

「先輩、修行を続けた先に、道は開けますか?」

 再び始まった禅問答に、ヘムの手が一瞬緩んだ。

「それ以外の、どこにある?」

 シャビィの手首を捕らえたヘムの右手に寄りかかり、シャビィはヘムの体を崩した。倒れまいとシャビィを引っ張るヘムの体の前側に、力の隙間が生じているのが横目にはっきり見て取れる。シャビィは体を落とし込み、腰をひねって左足を狭い活路に差し込んだ。

「そこだ!」

 シャビィは右手の下をくぐって、力の隙間に滑り込んだ。翻った体の流れはそのまま左の拳に伝わり、ヘムが体を起こす動きにぴったりと合わさっている。シャビィはそのまま勢いだけを左手から送り出し、よろめいたヘムの体を真っ直ぐに突き飛ばした。

――シャビィがまっすぐ進むためには、そこから外れる覚悟がいるのだ。

 ヘムは背中を井戸筒に打ち付け、痛々しいうめき声を上げた。円い井戸筒の上では、受身などとりようがない。間髪いれずにシャビィは駆け寄り、左の踵を叩き込もうとしたが、ヘムは見事にこれを捌いてシャビィの足を掬い上げた。

「調子に乗るなよ。」

 左足を上に逃がし、立て直すのに精一杯で、蹴り込まれたヘムの足をシャビィは上手く掴めない。両手でなんとか受け止めたものの、シャビィは大きく突き放され、その隙にヘムも間合いの外に逃げ出してしまった。シャビィは大きく息をつき、左手で血の入った目をこすった。

「丁度いい。お前みたいなお利口さんが、俺は一番嫌いでな。前々から叩きのめしてやりたいと思っていたのさ。」

 石畳に唾を吐き捨て、ヘムはシャビィににじり寄った。暗い雨はいよいよ激しく、二人の顔を打ち付ける。シャビィも自ら歩みだし、あと一歩で打ち込めるところまで近づいたその時、額から流れてきた一筋の雨水が、ヘムの左目を塞がせた。

この好機を逃す手はない。シャビィは左手でヘムの左手を叩き落とし、右肩から素早くヘムに密着した。ヘムの背後に刺さった踏み込みは、音を立てないほど優しく、深い。右手の手刀は雨だれを断ち切りながら、確かにヘムの腰を捉えたように見えた。

 だが、ヘムは腐ってもシャビィの兄弟子だ。シャビィの技は、あらかた知っている。ヘムは左足でシャビィの右足を刈り取り、シャビィはその場に膝をついてしまった。力の抜けた手刀も、再びヘムに捕まっている。シャビィは咄嗟に右足を投げ出し、尻餅をつきながら左に回ってヘムの左手を引きずり下ろした。シャビイの上に倒れたヘムは、放し損ねたシャビィの右手に引き込まれ、肩から地面に落ちてゆく。受身をとったヘムの左手からは高々と飛沫が上がり、色あせた広間を彩った。


その58へ続く


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