ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――その58

いよいよ決着。

その57より続く


「まだだ!」

 シャビィはいち早く起き上がり、立ち上がろうとしているヘムに、右の拳を叩き込んだ。ヘムは咄嗟に手で体を庇いはしたものの、勢いは殺しきれず、足が床から浮いている。シャビィはすかさず踏み込んで、立て続けに双把を放った。

 濡れた足場とは思えない、力の乗り切った一撃だ。ヘムは抗うこともできずに軽々と吹き飛ばされたが、あまりに壁が近すぎた。ヘムの体は倒れる前に背中から壁にぶつかり、受身を取ったヘムの前に、シャビィは自ら飛び込んでゆく。突き出された左足はシャビィの胸板に音を立ててめり込み、シャビィを二、三歩押し戻した。

 吸い込む息が痛みを押し広げ、全身を駆け巡って再び胸へと帰ってくる。息を浅く抑えながら喘ぐシャビィに近づくと、ヘムは大きく体を沈めた。足払いから、死角に潜り込む技だ。

 研ぎ澄まされた水音を、シャビィは高く飛んで躱し、大きくのけぞり手を伸ばして、井戸の蓋の取っ手を掴んだ。弧を描いたシャビィの体は井戸の上で逆さに止まり、再び弧を描いて腹側へ跳ね返った。軽やかな音と共に着地したシャビィの手には、井戸の蓋が握られている。井戸を挟んで構えたまま、二人はしばらく睨み合ったが、それも長くは続かなかった。

「ヘムーっ、ヘムーっ、どこに行ったのーっ?こんな時に、何してるのよーっ!」

 ヘムを呼ぶクーの声は、ここからそう離れていない。ヘムはにやりと笑って勝ち誇り、大きな声で呼び返した。

「クー、ここだ!シャビィもいるぞ!」

 風が強くなったのか、四角く切り取られた小さな空を、真っ白な雨雲が勢いよく流されている。入り組んだ路地の上げる擦り切れた悲鳴に負けじと、クーも声を張り上げた。

シャビィが?大変じゃない!」

 胸と頭を打ち鳴らす脈に耐え、シャビィは目頭に皺を寄せた。傷ついたシャビィの体には、クーどころかヘムの相手をする力も残っていない。風と雨の音に混じって、広場につながるたった一つの階段を、湿った足音が上ってくる。

 だが、広場に流れ込む音の洪水の底には、聞き覚えのある低い唸りが潜んでいた。頭上でもなければ路地でもない、目の前に口を開けた石組みの井戸筒から、水路の音が湧いているのだ。

「一切万物皆無情なり。恨むらくは我が身を以て、獅子に食われざりしことを!」

シャビィが未曾有経を引いたそのとき、四角い広場が闇に包まれた。井戸の内側に、梯子の影が伸びている。顔を背けたヘムに向かって、シャビィは井戸の蓋を投げつけ、緯度に向かって走り出した。

ヘムは蓋をなんとか弾いて、大声で叫んでいるが、空の怒号に叩き潰され誰の耳にも届かない。井戸のへりに手をついて、石畳を強く蹴り、シャビィは白い光の中へひと思いに飛び込んだ。

「逃がすか!」

 シャビィを追って、ヘムも井戸に飛び込んだ。梯子につかまるシャビィの脇を、勢いよく通り過ぎ、激流の餌食となって、ヘムが押し流されてゆく。シャビィは小さく身を縮め、ヘムの悲鳴が遠ざかるのを震えながら聞いていた。


「ヘム?シャビィはどこなの?」

クーがたどり着いた時には、広場に二人の姿はなかった。雨の打ちつける石畳の上には、井戸の蓋だけが残されている。少しの間蓋を見つめ、それからクーは大きく目を見開いた。

「嘘……待って、そんな……」

 クーは井戸に駆け寄って中を覗いてみたものの、眩しいばかりで中の様子は分からない。水路の唸り声だけが、むごい顛末を物語っている。クーは目を瞑って、小さく項垂れた。

「なんてこと……いけない!」

 クーはかぶりを振り、走って広場を跡にした。


それからしばらくしてクーの足音が聞こえなくなってから、シャビィは井戸の外に這い出し、ボロボロに傷ついた体を冷たい石畳に横たえた。


その59へ続く


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