ふたり回し

小説投稿サイトとは別に連絡や報告、画像の管理などを行います

☶☴(山風蠱)――その56

ついにというかなんというか、殴り合いが始まった。

今回はなんとかしのいだが、次回分はどうしたものか……

その55より続く


「坊さん、とんだ災難だな。この板切れは何だい……お経?がびっしり書いてあるけど。」

 痘痕面(あばたづら)の水夫が、足元に落ちた護符を一枚拾い上げた。二人を手伝うつもりらしいが、シャビィにとってはありがた迷惑だ。

「お守りを運んでいたのですが、少し急ぎすぎたようです。面目ない。」

 素顔のシャビィは立ち上がり、男から護符を受け取った。雨が降りしきっているというのに、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが、人垣を作り始めている。よろめく体を支えようと、右足を下げたとき、シャビィの後ろで耳慣れた声がした。

「お前!……シャビィ?一体どうやって――」

 呪いの解けたシャビィに気づいて、ヘムがふらふらと立ち上がった。頭から引いた血の気が、シャビィの背筋を這っている。ヘムを振り返り、その顔を見て、シャビィは飛びすさった。

「貴様、お情けで生かされておきながら……後足で砂をかけるか……」

 いかめしい肩を震わせながら、ヘムはシャビィにゆっくりと近づいた。シャビィも構えて後ずさるが、ヘムに勝てたことなど一度もない。手近な棚を二人の間に引き倒し、シャビィは路地裏に逃げ込んだ。

「逃げるな、裏切り者め!」

 ヘムの怒号が、狭い路地を真っ直ぐに突き抜けた。荷物からは解き放たれても、半日分の疲れを引きずっていては、兄弟子を振り切ることは難しい。右へ、左へ、ナルガの奥に向かって曲がりくねった階段を駆けまわるうちに、シャビィはとうとう袋小路にあたってしまった。

四面を家に囲まれた小さな広場の中心には、蓋の付いた大きな井戸がある。ゆっくりと近づいてくる足音に向かって、シャビィは小さく鶏歩に構えた。

「たまには老師も間違うらしい。やはりお前はあのとき殺しておくべきだったよ。」

 広場の角から、ヘムが現れた。構えてこそいないものの、歩幅は小さく、肩は落として、いつでも動き出せる手本のような姿勢だ。

「先輩、なぜそんなに罪を重ねようとするんです。寺院はそんなにお金に困ってるわけじゃないでしょう?」

 訴えながら、シャビィはまたじりじりと後ずさった。分厚い雨の帳の奥にヘムの姿は遮られ、僅かに見える輪郭だけが、次第に大きくなってゆく。

「ほう?この期に及んで俺が因果に落ぬよう気にかけてくれるとはな……だが、その心配は無用だ。」

 ヘムの湿った足音が闇、尖った笑い声がこだました。白い影が、小刻みに肩を震わせている。

「はかない蓮華を毒虫からお救いしようというのだ。これを功徳でなくて何と言う!」

 シャビィは目を細め、ヘムの出方を窺った。

「それこそ無益な殺生です。老師の庵に飾られたのでは、蓮華も長くは持ちますまい。」

 シャビィのかかとが、冷たい石壁にぶつかった。ヘムがこの隙を見逃すはずがない。ヘムが振りかぶった拳をシャビィは右に動いて躱し、右手ですくい上げようとしたが、拳は飛んでこなかった。それどころか、伸ばした肘がヘムの左手につかまり、いつの間にか極められている。

「蘇るとも。その蜜で飼っていた、蜂の王子が捕まれば。」

 ヘムは口元を歪めると、右手でシャビィの腕を引っ張り、左手で肘を押し出した。シャビィの強い足腰も、肘に走ったきしみばかりは止められない。ヘムに注文されるまま、シャビィは自ら石壁に飛び込み、重たく、鈍く、暗い音が、雨の広場に響き渡った。


その57へつづく


アルファポリスのポイント集計へのご協力をお願い申し上げます。