ふたり回し

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ハック&スラッシュにミスコンはいらない

久しぶりにちょっと細かい演出を狙ってみました。


 イェリックさんが連れて行ってくれたのは、スパの中でも一番上等なレストランでした。

 ガラスが張られた床の下には薄い水槽が広がり、地上のプールをバックに縞模様のクマノミが泳いでいます。

 ピックでサザエの酒蒸しをほじりながら、フィンカちゃんがイェリックさんに訊ねました。

「オッサンはいつもここ来てんの? お得意様っぽかったけど」

 青いお皿に描かれた塩の波でサザエの身を何度か洗い、フィンカちゃんは一口で食べてしまいました。

 単なるお塩とはいえ、模様が崩れてしまうのはもったいない気がします。

 

「医者に勧められて、週2回来とるよ。血の池地獄が精神療養にいいらしくてね」

 イェリックさんは青茶を飲み干し、ナプキンで口元を拭いてから答えました。

 この次に出てくるのは、フカヒレと鮫の卵のライスクレープ巻きです。

 すぐに泳げるようにと理由を付けて、なるべくご馳走を避けようとしたのですが、一口ずつ宮廷料理みたいのが出てくるコースがあるとは思ってもみませんでした。

「あんなことがあった後では無理もないけれど……余り気にしすぎないでください。生きてればいいこともきっとあります。ええっと、ほら、お嬢さんのコンクール、いかがでしたか?」

 イェリックさんの手紙にあった中では一番明るい話題です。

 私はお茶を注ぎながら、イェリックさんの顔を覗き込みました。

「ええ、あの聞かん子がなかなか立派な演奏をするようになって――二位入賞で無事地区予選突破できた。本選でリベンジしてやると息巻いとるよ」

 イェリックさんははにかみながら、小さなカップから立ち昇る湯気を吸い込みました。

 少しやせたイェリックさんの顔は、さっきよりも少しだけ暖かい色をしています。

 

「それはおめでとうございます。本選、私たちも応援に行っていいですか? お手紙頂いた時から、リーゼちゃんの演奏、聴いてみたいと思ってたんです」

 私が笑いかけると、イェリックさんは目を丸くしました。

 そんなに変なことを言ったつもりはないのですが、何か間違えてしまったのでしょうか。

 おしゃべりがすっかり凪いでしまい、みんなで黙ってお茶をすすりながらクレープ巻きを待っていると、突然フィンカちゃんが空を見上げました。

 ビーチボールです。

 空に浮かんだ水の球から、ビーチボールが降ってきました。

「おーい!」

 立ち上がってボールを受け止めたフィンカちゃんを、小さな男の子が呼びました。

 男の子はなんと、水の球から逆さまにぶら下がっています。

「俺のボールだぞ! 勝手に持っていくなよ!」

 いえ、男の子だけではありません。

 ドームの天井からつるされた水の球で、何人ものお客さんが泳いでいます。

 今起こっていることに、私以外は誰も気づいていないのでしょうか。

 みんな渋い顔で男の子を見上げているだけです。

 ひきつったテーブルから立ち上がり、ワノンちゃんは両手を振り上げて言い返しました。

「皿がひっくり返ったらどないすねん! このクソガキ!」

 ありったけの声で喚くワノンちゃんに驚いて、足元のエンゼルフィッシュたちが散り散りに逃げていきました。

 他のお客さんたちも眉をひそめ、小声で何やら囁いています。

「生意気だぞ! お前だって小学生のくせに!」

 いきり立ったワノンちゃんをルイエちゃんはなんとか椅子に座らせ、背中をさすってなだめました。

 ほっそりとしたワノンちゃんの肩に合わせて、青いテーブルが震えています。

 フィンカちゃんは一旦ワノンちゃんに手を伸ばそうとしましたが、手を引っ込めてボールを高くトスしました。

「ほら、あんまり高く飛ばすなよ」

 銀色の三角形がみずみずしく上下に揺れ、イェリックさんの目が釘づけになりました。

 持って生まれたものがものをいうのが、人の世の悲しい所です。

 赤いボールは少しずつ遅くなりましたが、止まりかけたかと思うとまた水の球に吸い寄せられていきます。

 水の球が単なる人工重力を使ったトリックなのが分かって、私はこっそり縮こまりました。

「あ、ありがとうございますっ」

 ボールを受け取った男の子が、裏返った声で叫びました。

 逆さまな男の子も、顔を真っ赤に染めています。

 私は目を細めて男の子を見上げ、それから小さくため息をつきました。

 

「ほら、みんな。次の料理が来たよ」

 ルイエちゃんが呼びかけると、ウェイターのお兄さんは一皿ずつクレープ巻きを出してくれました。

 白いクレープ巻きの隣には、紫色の花が添えてあります。

「プチプチして、面白い食感だろう? これが妙に気に入ってしまってね」

 イェリックさんの言う通り、噛むたびに卵とフカヒレが音をたて、澄んだ旨みが口の中に広がります。

 私たちはクレープ巻きを楽しみながら、ちらちらとワノンちゃんを窺いました。

 上品な味わいに目を輝かせ、今日一番の幸せ顔です。

「これはホンマの絶品ですわ。イェリック先生にはもう足を向けて寝られまへんな」

 ようやくワノンちゃんにもツキが回ってきたのかもしれません。

 またおしゃべりが回り出して雰囲気が明るくなった矢先に、しかし、私はテーブルの上に妙なものを見つけてしまいました。

 季節限定デザートのポップの裏側に、どこかで見た顔が写っていたのです。

『第3回ミス・ナガラマガコンテスト開催! ニホチマの2連覇なるか!』

 今朝ワノンちゃんをバカにしたロクデナシの名前です。

 ワノンちゃんにばれないよう、私がゆっくりとルイエちゃんに目配せすると、ルイエちゃんは目を瞑ってもっとゆっくり首を振りました。

 

「あ、マンゴスチンババロアだってよ。これなんか、うまそうじゃねぇ?」

 フィンカちゃんから隠れながら、ニホチマさんは憎たらしく微笑んでいます。

 私は慌ててフィンカちゃんを止めました。

「待ってください。コ、コースにもデザートがついてくるんじゃないですか!」

 私はイェリックさんを睨み付け、強引に頷かせました。

「も、勿論。最後にソルティライチのシャーベットが出るとも」

 私とルイエちゃんが固唾を呑んで見守る中、フィンカちゃんは呑気にスイーツの味を頭の中で比べています。

 もう少しイェリックさんに遠慮するとか、フィンカちゃんにそういう発想はないのでしょうか。

「デザートだけ二つも食っても仕方ないか。まあ、オッサンにも悪いしな」

 ポップは元の位置に戻され、恐れていた破局は避けられました。

 フィンカちゃんが隠し持っていた常識に感謝しなくてはいけません。

「そうそう、あんまり食べ過ぎると、泳いだ時にお腹がつるかもしれないしね」

 ルイエちゃんが合いの手を入れたのもつかの間、今度はワノンちゃんがポップに手を伸ばしました。

 

マンゴスチンなぁ。うちにも見してーな」

 気づくのが遅れてしまい、私の手は間に合いません。

 ワノンちゃんは両手でポップをしっかりとつかみ、食い入るように写真を見つめています。

 一か八か、私はポップを上から掴み、強引にひったくる作戦に出ました。

「わ、私にも貸してください!」

 ニホチマさんの顔に爪を立てて、私はありったけの力でポップを引っ張りました。

 ワノンちゃんもつられて意固地になり、ポップをなかなか手放してくれません。

「なんでユニスが見るん! あんたさっきコースのデザートでええゆーたやん!」

 我ながら迂闊なことを言ってしまったものです。

 筋の通った突っ込みを私は屁理屈でねじ切りました。

「い、いらないとは言ってません! スイーツは別腹です!」

 こんなことを言わせるなんて、ワノンちゃんの鈍さは犯罪です。

 これではまるで品のないたかりではありませんか。

「遠慮はいらんよ? せっかく遊びに来たんだから、美味しいものを食べなくては」

 イェリックさんは笑って許してくれたその時、私たちの手からポップがすっぽ抜け、くるくると回りながらテーブルに角をぶつけました。

 プラスチックの板がはね、軽い音をたてて転がって行った先は、フィンカちゃんの足元です。

 私が取り返す間もなく、ニホチマさんの写真はフィンカちゃんの手にわたってしまいました。

「ミスコンねえ……あれ? これ今日じゃねぇ? 今日か! へぇ、面白そーだし、皆で出てみようぜ」

 ゴーッシュ!

 考えうる限り最悪の反応です。

「ゆーても、まだ受付やっとるか分からんえ」

 フィンカちゃんの危険なやる気にワノンちゃんが水を差してくれましたが、それで一件落着というわけにはいきませんでした。

 それで片付いてくれればよかったものを、こともあろうにフィンカちゃんはワノンちゃんにポップを渡してしまったのです。

「ワノン、見てみろって。合計30人までなら飛び入り参加もOKって書いてあるじゃん」

 ワノンちゃんの顔は、フィンカちゃんからポップを受け取った途端たちどころに凍り付きました。

 テーブルの向こうでは、ルイエちゃんがおでこを押さえています。

「こ、これは、さっきの……」

 小刻みに震えるニホチマさんの写真を見て、イェリックさんは目をしばたかせました。

「おや? もう彼女に会ったのかね? ついてるじゃないか。春風のニホチマといえばもはやナガラマガ名物の一つだよ」

 言うに事欠いて春風とはひどい冗談です。

 男の人のいるところではよっぽどうまく猫を被っているのでしょう。

 

「この腐れボディコン……ええ気になるんも今のうちや……!」

 ワノンちゃんの手の中で、ニホチマさんの顔にひびが入る小さく、しかし鋭い音がしました。

 どうやらこのままのんびり温泉を楽しむわけにはいかないようです。