ふたり回し

小説投稿サイトとは別に連絡や報告、画像の管理などを行います

水蛇の塔(一八六四年五月五日)

やっとこさ本筋に入りました。


 明くる五月五日。夕べは野営地が蚊に襲われ皆殆ど眠れず、重たげな曇天の下一日が始まつた。朝よりガジマル伐採の為村人の協力を仰ぐも金貨に興味を示す者は無し。一度コンポンチアムへ戻り人夫を募る必要を感ずる。 午前中、止むを得ず我々のみで横穴と思しき箇所の採掘作業に入つた。ガジマルの気根を払い壁面を露出させたものゝ、いざ鶴嘴で崩すと為らば躊躇せずにゐられぬ。何も出土せねば徒に遺跡を破壊するのみで終はつて仕舞ふので在るから此ればかりは如何ともし難い。斯く迷いし時己の霊感を信ぜよとは師の訓へ。私は親ら鶴嘴を手に取りて学生達の見守る中ラテライトを突き崩した。併し乍ら、私の手に伝はつてきた物は、振下ろした鶴嘴が虚空に陥入する軽い手応へではなく、鶴嘴の先が硬い砂岩に弾き返される辛辣な衝撃で在つた。ラテライトの壁は修理、或は装飾の痕跡で在る。我々の見解は一致し採掘作業は取止める運びと成つた。

 斯くして発掘二日目は徒労に終はつた。此の日唯一の収穫は村長より晩餐の誘いを受けた事。兎角探検は原住民との友好が命綱で在る。反感を買うに留まれば苦労は無いが寝首を掻かれる者は後を絶たず、逆に良好な関係を維持出来れば得難い情報や生活面での協力に肖れる事も有るのだ。申し訳程度に服の泥を落とし我々は村落に向かつた。

 日が沈み星が夜空に散らばると、村中の子供達が裸足で駆け寄り広場に集ふ。彼らにとつて数少ない楽しみで在る昔話が始まるのだ。焚火を囲んだ子供達は真剣な眼差しで、厳かに語り出した老婆の姿を静かに見詰めた。昔々神が此の世にゐた頃、あの河にも竜蛇が棲んでゐたと云ふ。此の竜蛇は水を司る雨季と大河の神で在つたが、蛮族の神々が往々にしてさうで在るやうに邪な顔を持ち、時折荒れ狂ひ河を溢れさせては年頃の乙女を奉納させたさうだ。悠久の時の中でヒンドウ教が風化して仕舞つたのであらう。此れではまるでタイラアが纏めた新大陸の部族神話で在る。

 其の時、俄かに強風が吹き荒び焚火が大きく揺らめいた。家々の壁面を荒々しく影がのたうち、刹那竜の姿を取りたかと思へば、其れは可笑しな事を言ふ。お前達は今も俺を神として崇めてゐるではないか、と嘲笑ふ声が何処からともなく聞こえて来た。教え子達の悪戯か、案内役の狂言かと振り返つて見たものゝ、驚く振りを見せる者すら無し。村人達が突風に恐れ戦く中、長老が杖を打ち鳴らし何かを大声で叫ぶと風は忽ち止んで仕舞ひ、広場には元の明るさが戻り、昔話が終わると何事も無かつたかのやうに村人達は酒宴を催したので在つた。

 酒宴の間教え子達に鎌を掛けたがそもそも声だに聞いて居らず、案内役の男も左様な覚えは無いと謂ふ。ただ、長老が叫んだ言葉は覚えてゐたらしく、決してお前の事では無い、其れは彼の娘の事だと叫んだ旨を男は私に教えて呉れた。