ふたり回し

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想起

なんか詰まった……


 その夜アレクは、再び霧の夢を見た。乳白色の霧、かすかな風の音、果てしない空っぽの平原。いや、ここにいるのはアレクだけではない。あのときアレクに出口を教えたのは一体誰だったのだろうか。出口。出口を見つけるまで、この夢は終わらないかもしれない。アレクはただ目覚めるため、言われた通りの事をした。頭を巡らせて風の音を探し、音が強く聞こえる方向を目指し、向かい風を確かめながら霧の中を歩き続けた。

 翌朝アレクはリハビリ室に呼び出され、運動機能や言語機能のテストを受けた。反射、平衡感覚、力の調節、IQ、発話、作業記憶力。引き続き異常は認められず退院の目途が立ったが、アレクが夢の話をするとピョートルの表情は一変した。

「続けて同じ夢を見た……楽しい夢でしたか? それとも恐ろしい夢?」

 険しい顔で問い詰められ、アレクは小さく後ずさった。

「いや、何も起こらないっていうか……霧、何もない霧の中で迷ってる夢なんです」

 アレクの目が泳いでいるのを見て、ピョートルは右手を突き出しアレクをなだめた。

「別に大したことではありませんよ。ただ、その夢が事故による心的外傷……すなわち、恐れや不安を表しているなら、適切な治療を受ける事で改善することができます」

 目じりや口角に綻びのある、急ごしらえの笑顔だ。アレクは眉を落とし、たどたどしくピョートルに聞き返した。

「あの夢は、そんなにまずいものだったんですか? その、つまり、俺がまだ事故のショックを引きずってるっていう……証拠だと?」

 たるんだ顎に手を当てて少し考え込んでから、ピョートルは手を振った。

「可能性自体はむしろ低いと思います。あくまで念のためですね。どうせタダなんだから治療を受けた方がお得だし、同じ毎日なら気楽に楽しく過ごせるに越したことはありませんよ」

 心理的外傷があったにしても、治してしまえばよいだけの話だ。笑顔で肩を軽く叩かれると、アレクにも笑顔が伝染ってしまった。

「6階の医師に私から話しておきます。日取りが決まったら、追って連絡しますよ」

 アレクはピョートルに礼を述べ、リハビリ室を後にした。患者用の寝巻姿だが、足取りは軽く、医師たちよりも余程元気がいい。ピョートルが苦笑しながら部屋の灯りを消してしまうと、リノリウムの床の上には淀んだ静けさだけが残った。

 わざわざ予定を空けてきたのだろうか。午後からはユーゴ達が見舞いに訪れ、アレクの無事を祝ってくれた。

「おうおう、心配させやがって、工事も一人で一からやり直しだしよ」

 ユーゴはアレクの頭を抱え、思いきり掻き毟った。アレクは笑いながら適当に謝ったが、実際色々とユーゴの世話になったに違いない。

「まあ、良かったじゃない。記憶喪失とか失語症になってるかと思ったけど、なんともないんでしょ?」

 パルミは窓にもたれかかり、顔だけをアレクに向けて話した。

「今のところは、な。カウンセリングを受けろ、みたいな話になった」

 それでもこのまま退院できれば、週末買い物をして予定通りバカンスはナホトカで過ごせるだろう。

「言ってもナホトカだからな。おじゃんになっても、あんま気にすんな」

 ベッドの上に胡坐をかき、ユーゴは笑いながらアレクの肩を叩いた。パルミとユーゴの遠慮のなさは、それぞれ微妙に角度が違う。

「だからさ、オキナワまで行かなくたって、放っときゃそのうち向うから赤道がやってくるんだって。この前テレビでやってた!」

 ウェーブのかかった前髪を払い、ノンナが持論を展開した。

「おお、知ってる知ってる。今度は大西洋に北極が下りてくるんだろ? そしたらもう、常夏の楽園だぜ?」

 ユーゴはノンナの話に便乗し、病室でフラダンスを踊り始めた。はた迷惑な相棒だが、本当に見ていて飽きることが無い。同室の患者に窘められた4人はしばらくラウンジで互いの近況を報告し合い、日没前に解散した。

 霧の夢は、この日も続いた。ピョートルの言っていた通り、何かの原因のせいで同じ夢ばかり見るようになってしまったのかもしれない。慣れのせいか、それとも麻痺のせいか、帰りつけるのが分かっていることもあり、アレクは霧の中を散策する事にした。白い霧に覆われてやはり何も見えないが、この霧の向こうから、確かに声は聞こえたのだ。アレクに逃げ道を教えた誰かが、この霧の中にいる。壁の無い迷路を延々彷徨いながら、アレクは声が枯れるまで叫び続けたが、アレクに応える者はいなかった。