ふたり回し

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偽薬

愈々不穏な展開……というほどでもないか。


 柔らかく滑りのある霧が一面に立ち込め、穏やかに渦巻いている。微かに聞こえる風の音、肌に残る霧の温もり、体に張り付く服の重み。一体どこにあるのか分からないにも関わらず、アレクはこの場所を知っていた。遠い昔、来たことがあるのかもしれない。はっきりと思い出せるのは、誰かの短い言い付けだけだ。

「風の音のする方へ……風上に向かって歩くんだ……」

 乳白色の深みから日々の暮らしへ浮かび上がる為、アレクは両手でしっとりとした霧をかき分けた。頬を撫でる風を頼りに、額を手の甲でぬぐい、滑りやすい足場を歩き続けるアレク。次第に強まる風に逆らい気が遠くなるほど歩き続けると、やがて風は雄叫びを上げ、体中の産毛に留まった露を荒々しく弾き飛ばすようになった。そこから先のことを、アレクは何も覚えていない。ただ、自分が戻ってきたのがあの病室であることを、彼は目覚めると同時に知った。

 アレクはテルミンから、自分がカフェで失神した事を伝えられた。その後地元の病院に運ばれ、容体が安定したためにこちらに送り返されたらしい。手足の痙攣が認められないことから、癲癇の可能性は低いという。

「念のため頭部のレントゲンを撮ったところ――見えますか? 前頭葉ブローカー野の三角部に僅かな委縮が発見されました。両側です」

 テルミンは横向きに撮った写真の上に丸を描き入れた。前に突き出した部分の付け根、丁度こめかみあたりだろうか。

「へ、変形って、かなり不味いんじゃあ――」

 立ち上がった拍子にアレクはパイプ椅子を倒してしまい、薄っぺらくひび割れた音が診察室にこだました。アレクの息は浅く、額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。

「いえ、ブローカー野は言語機能に関わる重要な部位ではありますが、委縮自体は非情に小規模です。アレクさんご自身も、今、こうして私と会話していて、特に困難を感じたりはしないでしょう?」

 テルミンも立ち上がるとアレクの背中を優しく叩き、それに合わせてわざとゆっくり息をして見せた。テルミンに引きずられ、アレクの呼吸は次第に収まってゆく。

「それよりも、倒れた当時の状況を詳しく教えて頂けませんか? 失神の直接的な原因は、恐らく脳の機能の不全ではなく心理的な負担です。一見些細な出来事が、強い緊張や恐怖を呼び起こしてしまったのかもしれません」

 テルミンは椅子を起こしてアレクを再び座らせた。テルミンの顔には、筋肉で作った大げさな笑みが張り付いている。

「気を失った時は、カフェにいました。アイスコーヒーが運ばれてきて、それで……あれ?」

 アレクは目を瞑り、額に手を当てて記憶をたどった。

「そうだ、コップを掴もうとしたんです。そうしたら、触った瞬間になぜか驚いて……」

 たどたどしい回想を、テルミンは何も言わず、メモを取りながらアレクの話に耳を傾けた。

「そういうことでしたか。アイスコーヒーのコップ……それまでに、似たようなショックやプレッシャーを感じたことはありませんでしたか? 倒れる程とはいかないまでにしても」

 退院してからの一週間は、アレクにとって平和そのものだった。アレクは首を捻ったまますっかり黙り込んでしまい、壁の中をガスが流れる薄暗い音だけが診察室に渦巻いている。

「いや、待てよ……あれは……」

 しばらくして、アレクは重い口を開いた。

「先週俺が退院した日、雨が降ってたでしょう? あの時、雨が肩にかかるのが凄く気になって――」

 窓から差し込む光の中を、熱気の影が音も無く昇ってゆく。アレクの眉間に汗が伝うのを見て、テルミンはカーテンを閉めに行った。

「それは――」

 アレクの後ろで、ブラインドを下ろす脆い音がした。

「水滴に対する恐怖、と解釈するべきかもしれません。コップの表面も、結露に覆われていたのでは?」

 アレクは振り返らず、空っぽの声で呟いた。

「そうだ、白く曇って、冷たい――」

 テルミンは時間をかけてゆっくりと席に戻り、小さく両手を伏せた。その声は穏やかで、ガラスに沁み込むほどに眠たい

「忘れていた過去の出来事が、昏睡の影響で蘇ってきたのかもしれませんね……薬を処方しましょう。途轍もなく苦い薬ですが、飲み込まずによく噛むようにしてください」

 背中を丸めて前のめりになり机に食らいつきながら、テルミンは処方箋にペンで字を刻み付けた。

「普通の薬とは逆ですね」

 テルミンの指示に眉をよせ、アレクは処方箋を受け取った。薬の名前はさっぱりだが、テルミンの筆圧は見た目通りに強かったらしい。裏面を触っただけでも書いてある字を読み取れそうだ。

「そこがこの薬のポイントです。それでは、あなたに主のお導きがあらんことを」

 テルミンは多くを語らず、効き目を仄めかしただけだった。

 テルミンの指定した薬は、本当に苦かった。口に入れた途端にアムール川の香りが広がり、舌は痺れて縮み上がる。味を思い出しただけで冷や汗をかくような代物だったが、謎の水滴恐怖症を直すためアレクは毎晩、天使の与えた試練に挑み続けた。

 その一方、アレクは再び霧の夢を見るようになった。この霧は水滴恐怖症と関係があるのかもしれない。霧の中を彷徨いながらアレクはヒントを探したが、幾ら歩いても見えるのは霧ばかり。結局何かしらの出来事を思い出すこともなく、引き返す羽目に成るのだった。仕事中にも考え事をしていることが増え、簡単な作業で間違いを犯す。再入院以降のアレクの不調を見かねたユーゴは、とうとう後遺症を疑い出した。

「なあ、アレク。俺、思うんだけどさ、お前、ひょっとしたらこの間の事故で……」

 あまりにユーゴらしからぬ凄まじい歯切れの悪さだ。アレクは白身魚のフライをかじり、よく噛まずに水で流し込んだ。

「だから悪かったって言っただろ。ただの考え事だよ。水滴に触れなくなった原因が思い出せないかと思ったんだ」

 アレクが髪を掻き毟ると、ノンナはサラダからスイートコーンを弾きながら訊ねた。

「それで? 何か思いついた?」

 今のところ、収穫は何もないに等しい。上目づかいでノンナを見やり、アレクは小さくため息をついた。

「まだ分からないけど、夢……を見るんだ、最近。霧の中を歩いてる夢。前にも話しただろ?」

 霧ねぇ。ノンナは空になったコップを樫のテーブルにかざした。ぼんやりとした光の中から、蛍光灯の形が浮かび上がってくる。鋭い光に、アレクは思わず目を堅く瞑った。

「それは、まあ湿ってはいるよな」

 首を捻る二人を見て、ミーシャは苦笑まじりに返した。

「あの霧、どっかで見たことがあるんだよなぁ。きっとそこで――」

 うなだれるアレクをパルミがそっと覗き込んだ。

「無理に思い出す必要あるのかな……その、思い出さなくてもいいからじゃないの? 忘れちゃったのは、さ」

 一遍先生に話て、ちゃんと治療してもらった方がいいのかもね。パルミが立ち上がるとぞろぞろと仲間も続き、この日の夕食はお開きとなった