ふたり回し

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鏡像

ちょっとだけSFっぽい!(オイ


 再診の日、アレクは夢の事をテルミンに打ち明けた。あれは単なる夢ではなく、水滴を恐れる要因となった過去の出来事ではないのか。話を聞く内にテルミンの顔からは次第に表情が消え、再び催眠療法が行われることになった。

「前回と同じように、電球の光をじっと見つめてください」

 スイッチを持つ手の影が、テルミンの白衣に映りこんだ。

「あなたは今、あの霧の中にいます。イメージできますか?」

 テルミンの声には、力も、色合いも、抑揚もない。見えない声は光を受けて輝く窓をすり抜け、音も無くアレクの頭に流れ込んできた。

「はい……霧が、霧が見えます」

 テルミンは質問を続けた。

「あの霧の中にいるのは誰ですか?」

 アレクは不意に顔を上げ、震え出した。その目が向けられているのは、白い無地の壁の上だ。

「何か、何かが俺を見てる。声……何を言ってる? 風――」

 アレクの視線は暗がり誰も知らない文字を描いている。

「それは悪魔の声です。聞いてはなりません。耳を傾けることなく、帰ってくるのです」

 テルミンはアレクの手を強く握りしめ、張りつめた声で語り掛けた。大きく見開かれたテルミンの目には鋭い光がほとばしっている。

「今、あなたは病院にいます。目の前で電球が輝いているのが見えます……よいですか? 今、あなたは病院にいるのです」

 力に抑えつけられた獰猛なテルミンの声が、アレクを生暖かい夢から引きずり出した。顎を僅かに震わせて肩で息をするアレクの顔は、青黒く倦んでいる。動悸が治まりアレクが見上げた時には、テルミンの顔には既に情け深い微笑みが戻っていた。いつの間にか日が傾き、ブラインドから漏れた光がオレンジ色の縞模様を壁の上に刷り込んでいる。

「……あれは、悪魔の声だったのか……先生、俺は一体どうすれば……毎晩拒み続けられるでしょうか?」

 膝の上に肘をつき頭を抱えるアレクの肩をテルミンはそっと叩いた。

「いえ、今のは記憶に過ぎません。既に主の御業により悪魔は退けられています。その証拠に、今のあたなには冷たいコップをつかむことが出来るはずです」

 テルミンはナースセンターに電話して水を持ってこさせた。冷たい水をたたえたコップはすっかり白く曇っている。目の前にトレイを差し出され、震える息を吐き出しながらアレクはコップをじっと見つめた。

「大丈夫。薬はちゃんと効いていますよ。あれだけ苦い薬に、毎日耐えてきたのでしょう?」

 テルミンに促され、アレクはゆっくりとコップに手を伸ばした。コップから伝わる寒気に指の先が小さく震えている。アレクの手はコップに触れる寸前で凍り付いてしまったが、アレクは目を瞑って息を大きく吸い込み、息を止めて強引にコップを掴み取った。

「よく頑張りましたね。薬を飲み続けた甲斐があったというものです」

 テルミンは震える手からコップを取り上げ、アレクの気合を称えた。引き続き投薬を続ければ、恐怖症は完全に回復するという。

「そうだ、先生」

 処方箋を受け取りながら、アレクはテルミンに尋ねた。

「脳味噌が縮んでないか、レントゲンで見て頂けませんか」

 テルミンは診断書を纏めながら振り返った。

「レントゲンの予約ですか? 9階の先生に掛け合えばなんとかなるかもしれませんが……あの後何か言語障害が出たのですか?」

 今日の診断書は、今までで一番細かい。大部分を占めているのは、夢に関する報告だろうか。

「いえ、でも、もし気付かない間に少しずつ縮んでて、後から分かったりしたら嫌ですよ。やっぱり、脳味噌がやられると、心もおかしくなってしまうというか……俺は、俺でなくなってしまうかもしれないんですよね」

 重たい言葉を一つずつ吐き出すアレクに、テルミンはいつもの笑顔を返した。

「あれは事故による突発的な損傷ですから、悪化するということはまずないはずですよ。出血も見られませんし、それにアレクさんの言った通り、脳の問題は振舞いや能力に反映されるものです。今動いているのが問題ない証拠ということで……もしそれでも心配なようでしたら、ピョートル先生に連絡してみましょう」

 お願いします、とアレクが頼み込むと、テルミンは素直に取り次いでくれた。明日の朝一番が空いているらしい。

「脳味噌がやられると、心もおかしくなる、か……」

 アレクが部屋を後にしようとすると、テルミンは小声で呟いた。

「そうじゃないんですか? 脳味噌でしょう? 考えてるのは」

 含みのある口ぶりに、アレクは思わず振り返った。

「ええ。それが正しいとされています。ですが、一度覆りかけたことがあるんですよ。あれはまだ、私が学生だった頃だったかな?」

 大きな窓から差し込んだ底知れぬ西日の中でテルミンは世間話を始めた。

「発端になったのは、大脳生理学ではなくて、数学者の論文でしてね。人間の精神活動を処理するには、理論上脳細胞が実物の5倍必要だというので、大騒ぎになりました。ああ、勿論学会の中の話ですよ?」

 テルミンの顔つきは影の中に沈んで見えない。

「それはつまり、魂は……脳の中にはないってことですか?」

 アレクの問いに、テルミンは独り言を返した。浮き沈みのない声の中に、時折妙な熱が顔をのぞかせる。

「ええ、野心家達は実に様々な仮説を立て、学会はある意味で無法地帯となりました。それこそオカルト紛いのエセ学者まで現れ出した中で、彗星のごとく現れたのが、ユレシュ教授と大脳端末仮説だったのです」

 テルミンはアレクの様子を伺ったが、何も知らないアレクには疑問さえ浮かばない。アムール川を遡る船が港に入ってきたのだろうか、遠くから聞こえるくぐもった汽笛が部屋の静けさを横切った。

「大脳そのものがある種のアンテナであるというのが、彼の仮説でした。人間の思考は離れた場所にある“玄室”の中で行われており、大脳は身体と“玄室”をつなぐ通信装置に過ぎないというね」

 玄室。魂の眠る場所。科学者は時々、突拍子もない事を考える。

「当時は大いにい持て囃され、党が莫大な資金を投入して大規模な臨床実験が行われましたが、事故でユレシュ本人が死んでしまった後は自然と立ち消えてしまったようです。もとより実験結果が不確かだったこともあって……一過性の流行だったんでしょう」

 今となっては、笑い話ですがね。笑い声の代わりにテルミンは長いため息をつき、アレクは何も返事を思いつかないまま、小さな会釈を残して帰って行ったのだった。