ようやくそれらしい話になって来た。
「カルラさん、火の玉が!」
アレクの手を振りほどき、カルラは火の玉に向かって叫んだ。
「止まりなさい。帰れなくなりますよ」
張り上げても、薄い声しか出てこない。連日の探索には、まだ無理があったのだ。
「風の、音に、向かって――風上、に――」
手すりから身を乗り出し、なけなしの声を振り絞るカルラ。一体なぜ、そこまでして火の玉を呼び止めるのか。苦しげなカルラと火の玉を見比べ、アレクは大きく息を吸い込んだ。
「止まれ! そっちじゃない!」
怒鳴り声が吹き抜けを跳ねまわり、手すりをかすかに震わせた。
「風上だ、風上に行け!」
自分で繰り返してみて、初めてアレクは思い出した。あの声だ。霧の海を彷徨っていたとき、カルラに同じことを言われた。アレクもこうして、カルラに追い返されたのだ。ふらふらと引き返す火の玉を目で追いながら、アレクは小さくカルラに尋ねた。
「じゃああいつは……あいつも迷ってたんですか? 霧の海で」
ええ。息を整えてから、カルラはか細い声で答えた。
「研究所の子供でしょう。資料を見る限りでは、他にも2,3人が迷い込んでいるはずです」
さっきの火の玉が、人間。向かい側のテラスは、いつの間にか再び暗がりに覆われている。情けない声を上げ、アレクは頭を掻きむしった。
「やっぱりか……俺もああ見えてたのかな」
正体が分かったところで、肩透かしとはとても言えない。アレクと同じ遭難者が、同じように鏡を見つけたとしたら。人の容をして、二人の前に現れたとしたら。今までのように、追いかけるばかりではいられなくなってしまう。
「実際にここで見ちゃうと、結構焦りますね。レポートは見てたんだけど……もう、ここまで来てるんだよなぁ」
アレクが零すと、カルラの毛先が小刻みに揺れた。いつもは涼し気な黒髪が、白衣の肩から力なく垂れ下がっている。
「急を要する事態ではありません。鏡に近づいた被験者がいれば、私も気づいていたでしょうから」
モルタルの上に白衣の裾が広がり、覚束ない灯りに震えた。
「辿りつかない理由は、簡単です。その前に、彼らの命が尽き果ててしまう」
あの暗がりの中に、一体何が潜んでいるのか。一体何がカルラを追い立てていたのか。アレクには、まるで見えていなかった。眉間に打ち込まれた重い寒気が、背骨を伝い、足下に降り積もってゆく。
亡霊ではない。8年前、カルラ達を虐げたのと全く同じ悪意が、今もあそこで命を貪っている。オハの話を聞いた時も、この吹き抜けを見つけた時も、アレクが幽霊を怖がっている間も、カルラには、ずっと見えていた。へたり込んだカルラがまだ手すりを掴んで放さないのは、焼き付いているからだ。セメントの塊を握りしめて震える手を、見つめながら拳を握った。
「止めさせましょう。こんなこと、いつまでも続けさせちゃいけない」
カルラの隣に膝をつき、押し殺した怒りを込めて、アレクは話しかけた。
「ですが――」
迂闊に手を出せば、こちらの存在も知れてしまう。ユレシュは雲隠れし、捕まえるチャンスは二度と回ってこないかもしれない。他所にある研究所で、実験が続けられるだけなのかもしれない。それでも、今、苦しんでいるのは彼らだ。
「ユレシュは無理だけど……今でも、イポリートなら巻き込めるかもしれないし。そしたら今度は、奴らが追われる番だ。でしょ?」
考えなしの楽観論に、カルラは漸く顔を上げた。濡れた瞳に、小さな火が燃えている。微かな風に揺らぐ、弱々しく、小さな灯り。淀んだ薄闇の中で、その光だけがはっきりと見えた。
「助けたい。私も、あの子たちを助けたい」
肘を手すりに乗せ、這い上がろうとするも、起き上がるだけの力が残っていない。ここ数日、無理をし過ぎたのだ。手すりに寄りかかったまま、身動きが取れないカルラ。添えられただけで、手前に残った片腕をアレクが支えた。
「忘れないでくださいよ。俺もいるってこと」
使えるときは、使って下さい。カルラを引っ張り上げるのは、余りにも簡単だった。この薄い肩は、今までどれだけのものを背負ってきたのだろう。
「ありがとう……それに、ごめんなさい」
一度目を伏せてから、カルラは再びアレクを見つめた。
「いつも頼ってばかりなのに、頼っていない振りをしていました」
張り詰めていた顔つきが、漸く和らいだ。アレクの肩に掴まり、一歩一歩、確かめるように歩きだす。廊下の端までたどり着くと、二人は階段の端に座った。
「護民局に仲間がいます。彼に打診して、立ち入り調査をお願いしましょう。問題はどう説得するかですが」
腰を下ろすが早いか、カルラは作戦会議を始めた。児童虐待の嫌疑で裁判所から許可が下りてしまえば、研究所に拒む権利はない。対案もなく相槌を繰り返すうちに、アレクはあることを思い出した。
「カルラさん、裁判所って、軍隊にも命令できますか?」
子供が軍人に連行されたと、アデライーダは言っていた。警備されているのか、運搬車を手配しているのか、とにかく養護センターに出入りしているのだろう。
「軍隊ですか……国防局のもつ権限は、外部から切り離されています」
警察では、手が出せないということだ。攻め手を失ったカルラは、眉間に手を当てて長い溜息を吐き出した。
「国防局の反対派は内部抗争で粛清されてしまいましたし、軍に対して捜査権があるのは、それこそ保安局くらいのものです」
せっかく意気が上がったばかりだというのに、僅かな隙間も見当たらない。
「それってつまり、押し入るしかないってことですよね……」
それも、軍隊相手に。そんなことができるのは、それこそ軍隊くらいのものだ。軍隊。軍隊の反対派。足下を見ていたアレクが、急に頭を上げた。
「国防局の反対派でしょ? いますよ。ニコライ達が!」
軍から抜けてきたという話を、以前聞いたことがある。アレクとて、実力行使で救われたではないか。俄かに勢いづいたアレクに、カルラは目を丸くした。
「レジスタンスの力を、借りる? しかし……そう、戦えるのは、彼らくらいのものでしょうね」
いつものように目を閉じて、カルラはじっと考え込んだ。
「ニコライ達なら後腐れもないし、イポリートに一杯食わせるためなら、絶対動いてくれますよ」
アレクは立ち上がり、カルラに訴えた。実際のニコライ達は、カルラが言うほど無法者ではない。
「分かりました。ただし、一つ条件があります」
カルラは目を開き、黒い瞳でアレクを見上げた。
「子供たちを保護しなければなりません。レジスタンスから福祉局内の協力者に働きかけるよう、アレクさんが交渉してください」
この計画は、文字通りの襲撃になるでしょうから。