ふたり回し

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憔悴ー1

エッシャーの城、再開します。

 

 アレクがうっすらと目を開け首を起こすと、視界の隅にコルレルが映った。
「目を覚ましたか。気分はどうだ、アレク」
 気分がある場所は、遮られていてよく見えない。ベッドの周りだけが薄闇の中に浮かび、電球の光を弾いて鉄製の棚が五月蠅く輝いている。
「体が遠くに感じる。遠くで、波に揺れてるような……」
 そこまで話してから、アレクは腕が圧迫されていることに気が付いた。上腕に巻きつけられた、幅の広いナイロン地のバンド。血圧計だろうか。
「ふむ。確かに70をきっとる」
 バンドから力が抜け、ゆっくりと萎んでゆく。青ざめたアレクの頬が、僅かに緩んだ。白い間仕切りと消毒液の匂いは、恐らく診療所のものだ。
「しかし、お前さんが担ぎ込まれたときには流石のワシも肝を冷やしたぞ」
 レフが様子を見に行った所、アレクは床の上で白目を向き、汗だくで震えていたそうだ。当然第一に薬物中毒が疑われたが、血液からは何も検出されなかった。半日して容体が落ち着いてからも意識不明の状態が続き、今日でもう5日になるのだという。
「思い出せるか。失神する前、何があったか」
 血圧計をしまいながら、コルレルはアレクに尋ねた。
「俺は……真っ暗なところを、ずっと漂っていた気がする」
 いつものように、エッシャーの城から戻って来たわけではない。はっきりと覚えているのは、逆に城を探索していたことだ。人体実験が明るみになった今、追い詰められたイポリート達が、一体どうしているのか。乱雑に折り畳まれ、塗り重った印象に触れ、アレクは叫び声を上げた。
「殺された! イポリートは、ユーリに殺されたんだ!」
 頭を抱え、目を剥いて、ベッドの上で縮こまるアレク。コルレルは点滴が刺さった右腕を掴み、アレクの背中を震えが収まるまでさすった。
「大丈夫だ、ワシから二コライに伝える。それにアレク、殺されたのは敵だ。お前さんには無関係の男だ」
 コルレルはゆっくりと、繰り返し言って聞かせた。襲われたのはイポリートであり、アレクに手が及ぶことはない。アジートに居るのが一番安全なのだ、と。だがアレクは、確かに撃たれたのだ。胸の銃創が熱を持ち、とめどなく血が流れ出るのを感じた。そして銃声が、命を終わらせる音を。
「空っぽなんだ、あの先には、空っぽしかない」
 ベッドの上に座ったままシーツにくるまって震えていると、わざわざニコライが尋ねてきた。イブレフスキはイポリートを首謀者に仕立て上げ、身代わりにした可能性が高い。いかに工作が露骨であっても、イブレフスキが多数派である以上、追及は難しいというのがニコライの見立てだ。
「だがこうなると厄介なのは内輪だぜ。明日は我が身と思ってる奴は少なかねえだろうしな」
 イポリートが逆らったというのは、本当に方便に過ぎないのだろうか。ダリアとイポリートのやり取りを断片的に伝えると、ニコライは首を傾げた。
「イポリートはユレシュの存在を匂わせ、ダリアは自分が撃ったと言い張り、ね」
 額面通りに受け取るなら、ダリアやキリールはユレシュの味方ではないということになるが、問題はアナトリーがどちらの側についているのかだ。
「暫く休めとも言えなくなっちまったな。アレク、早く治せよ」
 ニコライは手を挙げ、踵を返した。敵と味方。党とアジート。極東派とモスクワ派。多数派と『守る会』。イポリートとキリール。散乱した対立構造を眺めているうちに、アレクはたった一度だけ、イポリートとキリールの電話を盗み聞きしたことを思い出した。
「そうだ、ニコライ、今の今まで忘れてたけど――」
 足を止め、振り返るニコライ。
「俺が逃げたって話をキリールから聞いた後で、イポリートがほっとしてたんだ。『受け渡しは上手く行った』って」
 あれは結局、どういう意味だったんだろう。アレクが尋ねるより早く、ニコライは低く怒鳴った。
「馬鹿野郎、そういうこたぁいの一番に言うもんだ」
 部屋中に張り巡らされた鋭い気配に、アレクはそれ以上何も言えなくなってしまった。ニコライはもう、敵を探し始めている。

 ニコライが帰った後、アレクはポタージュスープを出されたが、干上がった胃袋は液体すら受け付けなかった。眠気と共に忍び寄る、あの暗闇に抗いながら、二日。アレクの身体は日増しに弱るばかりだ。目と脳が干上がり、人からかけられた言葉も、頭に浮かぶ考えも読みとれないほどに掠れている。
「アレクくぅ~ん、今日はヤバイお見舞いを持ってきたぜぇ。余りにもヤバイから、バレても俺の名前は黙っててくれよん」
 レフだ。アジートがお祭り騒ぎに浮かれる中、レフは昨日も見舞いに来てくれた。ボルゾイの整備も、部品待ちの作業が再開され忙しいに違いない。少なくとも菓子ではないレフの手土産に、自ずとアレクの興味は向かった。
「ああ、ありがとう。俺の方は、相変わらずだ。早くハンガーに戻らなきゃいけないのに」
 ところがいくら待っても、手土産どころか、レフ自身入ってくる様子がない。アレクが身体を起こしてレフを呼ぶと、思いがけない人物が現れた。
「カルラ様?」
 パーカーにジーンズという、見慣れない格好だ。変装になっているのかなっていないのか、フードを目深に被っている。
「アレクさん……待っていても来ないから、私の方から来ちゃいましたよ」
 精一杯の、ぎこちない笑顔。一足遅れて焦点が定まり、アレクは危険性を思い出した。
「来ちゃったって、まずくないですか? アジートに出入りしたりして」
 カルラの正体は、レジスタンスにも明かしていない。アレクと不用意に会って、怪しまれないものだろうか。
「大丈夫ですよ。ついでの用事がありましたから」
 救出作戦の事後報告と謝礼に加え、善後策について『守る会』から内密の連絡があったらしい。カルラが事もなげに話すので、アレクは思わず藪をつついた。
「カルラ様は、前からニコライ達とも知り合いだったんですか」
 知っていて、信用していないのかとまでは、流石のアレクも聞けなかった。
「いえ。『守る会』は以前から他の組織と情報の共有を続けていますが、私のように研究機関に内偵しているものがメッセンジャーを務めることは稀です」
 実のところ、この訪問にも少なからぬ危険があるという。
「それでも、無理を言って替わって貰ったんです。アレクさんの身に何かがあったのではないかと思って」
 カルラは恐る恐る、骨の浮いた背中をさすった。静かな掌から、穏やかな温もりが伝わってくる。
「イポリートが殺されたのは、もう伝わってますよね」
 ええ。返事を待って、アレクは話し出した。
「俺はその時、イポリートの扉の中にいたんです」
 逃亡したイポリートを、ダリアが暗殺しに来たこと。ダリアが自ら殺したはずのユレシュが生きていると、イポリートが仄めかしたこと。ユーリが寝返って、イポリートを撃ったこと。夥しい血が流れ、とにかく寒かったこと。そして再び撃たれた瞬間、全てが真っ暗になったこと。
「思うんです。俺はひょっとしたらあのまま、戻ってこれなかったかもしれないって……一瞬でも眠ったら、今度こそ戻って来れないかもしれないって」
 カルラはアレクの肩を抱き、強張った体をゆっくりと寝かしつけた。
「道理で酷い隈だと思いました」
 吐息に耳をくすぐられて目を開けると、ほっそりとした顔が間近にあった。黒い瞳の輝きに、何もかも明け渡してしまいそうになる。
「格好悪いとこ、見られちゃったな……」
 ばつの悪さを、アレクは笑って誤魔化した。倒れてから一週間になるのだ。髪は油染み、唇は荒れ果て、口も乾いて酷い臭いに違いない。
「それなら私が、アレクさんを迎えに行きましょう」
 そんなことはお構いなしにカルラはアレクの肩に手をつき、顔を覗きこんだ。
「どこかに閉じ込められても、私が必ず助け出します」
 それで少しは、安心して眠れませんか。頬にかかった黒髪を間違えて咥えないよう、アレクは小さく口を動かした。
「それ以上心強いものなんて、何もありませんよ」