ふたり回し

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淘汰

まさかのバッドエンド!

 目が覚めてから暫くはぼんやり聞くに回っていたが、そのうちアレクはあることに気が付いた。

「そういえば、イワンは?」

 見覚えのあるメンバーの中で、イワンの姿だけが見当たらない。健在そうに見えて、怪我を隠していたのだろうか。バトゥは苦笑を浮かべ、アレクの肩を叩いた。

「そもそも来ると思うか? あのオッサンが」

 賑やかな場所とは縁遠い男だ。勝利を祝っているにしても、いつものようにどこかで一人、スキレットを傾けているに違いない。バトゥの類推に異を唱えるものは、一人としていなかった。

「アーレクっ! どうしちゃったわけ? いきなり有名人じゃん」

 いきなり後ろから抱きつかれて、アレクは間の抜けた声を上げた。

「ラ、ラーニャ? わざわざ迎えに?」

 振り向いた頬に滑らかな吐息が触れ、細く見えない針を刺し入れた。指先まで毒が回り、振りほどくことも叶わない。 

「そーだよ、だって遅いもん」

 アグラーヤは真顔で白を切った。無邪気な蒼い瞳の淵に、アレクの顔が揺らめいている。生温い囁き声が耳の穴に潜りこみ、舌先で脳をくすぐった。

「アレクってさ、やっぱり、タダもんじゃなかったんだね。聞いたよぅ、アレクには何でも分かっちゃうんだって?」

 行こっか。アグラーヤは腕をほどくと、アレクの肩を残した掌に釣り上げられ、見えない繰り糸に命じられるまま、座れる場所を探すと言っていたが、歩きだしたレフ達はどの辺りにいるのだろうか。アグラーヤの声は先に会場を離れ、よく行く店で妙に明るく気前のいい待ち合わせだと答える二人はしばらく歩き続け確かに見慣れたバルに入る何かの合図を店員に通された二階の部屋には大きな赤いソファが低いテーブルを挟んで向かい合い、柔らかく手触りのよいクッションに埋もれた。

「レフ達は、まだ来ていないらしい」

 既に蝶を象ったテーブルの酒瓶の上に置かれ皆、遅いな菫色のキャンドルが光を受けて心なしか爛々と輝く瞳に体が熱っぽい炎の裾は藍染の溜息に吹きかけ儚げに薄闇を踊ったシャツワンピの上で踵が刻まれるところを返事は待ってアグラーヤを大きくのけぞるのが見え、ソファの生地に片足で上げた背もたれの奥に黒光りする皺がねじれてしまい暇だし、裾だけで始めちゃおっかと二人を押しのけた。

「飴色の酒にそれも注ぎそうなグラスを置いたままに俯いたアグラーヤの前だな」

 この前アレクの目を買ったばかりの足首に入ってペディキュアだというが、見せびらかしたにしては全然軽く振らない花の咲き誇る眼差しが波に言い訳しているのを部屋に吸い寄せアレクは一気にグラスを傾けながら見とがめた途端、白い中心に呑まれたソファと同じくらい赤い。

「アレクを下した隣に両手で囁いて跳ねる音が大丈夫」

 腰は耳元から立ち上がってアグラーヤに縋りつくと袖の染みに蜜で捉えた指先を動かし膝が小さな押しつけに聞こえたその時。アレクは遠い声に呼ばれた。

「ごめん、忘れてる用事があった」

 これ以上、ここに居てはいけない。アグラーヤの腕を振りほどき、アレクは赤い部屋から逃げ出した。妙に贅沢な調度品。始めから用意されていた火酒。あれがただの個室に見えていたのだから、アレクも相当に間抜けだ。階段の手前で一度だけ振り返り、そしてアレクは見てしまった。扉の隙間から、先ほどとは色の違う二つの炎が覗いている。悲鳴すら凍り付いて、喉からは険しい息しか出てこない。店を飛び出し、自室まで坂を駆け下りても、背中に植え付けられた怖気が消え去ることは決してなかった。

 着替えもせず横になり毛布を被ってみたものの、寝返りを打つばかりで眠気が全く湧いてこない。耳の奥に、まだ薄紅色の囁きが染みついている。甘く、恐ろしい声音だった。いとも容易く、死を選ばせてしまえるほどに。

 諦めて起き上がると、アレクは冷蔵庫に残った水を飲み干し、それから壁に寄りかかった。コルレルに教わった安眠用の呼吸法は、座った方がやりやすい。仄かな壁の冷たさ。緩んでいく瞼。穏やかに打ち寄せる鼓動。目を瞑って息を数えるうちに、アレクの周りは石造りの廊下になっていた。後はカルラの顔を見れば、幾らか気も鎮まるだろう。

「カルラ様?」

 ところが、中庭にカルラの姿はなかった。まだ眠っていないのか、既に目覚めてしまったのか。パーティーと不眠のせいで、今が一体何時なのかまるで見当が付かない。ただ待つのも勿体なく、アレクは一足先に作戦の成果を確かめることにした。

 白い宮殿の、屋上から降りてすぐの広間。入口から見て一番奥の階段がイポリートの扉に繋がっている。養護センターの実態が明らかになり、今頃頭を抱えているはずだ。オレンジ色の扉を開くと、次第に穏やかなランプの明かりが見えて来た。

 窓の上に映っているのは、和紙でできたランプシェードと透き通った自分の影。残りはささやかなウッドデッキと、一面のベーリング海だ。自分の顔に見覚えがない。これがあのイポリート姿か。青みを残す宵の海に翻る満月を、イポリートは溜め息とともに見つめた。この眺めを、本当に目にする日が来ようとは。リビングの窓からは、領内で一番早い朝日が見えるように。一生使うことはないと高をくくっていなければ、あれほど熱を上げはしなかった。あの頃思い描いた通り窓際で安楽椅子に揺られていても、何の感慨も浮かんでこないのがその証拠だ。

 体が、嫌に冷える。たとえ窓を開け放ったところで、吹き込むのは暑苦しい潮風だというのに。イポリートは汗ばんだ手で椅子の肘掛けを握りしめた。ここで鳴りを潜めているだけで、最後までやり過ごせるだろうか。この場所を知っているのは、長年付き添った数名の部下のみ。建造時の打ちあわせも全て秘書に任せ、着工に関わった人間も、皆記憶を封じてある。それでもキリールは、この孤島を見つけるだろうか。

 孤島の別荘。身を隠しているのだ。それも本来の味方から。キリールだけではない。イポリートは、イブレフスキをも欺いていたのだろう。月明かりが雲に沈み、窓に映った部屋が色濃く浮かび上がる。

「クラーラ。コーヒーを頼む。ブルボンはまだ残っているかな」

 愚問だ。見つかるに決まっている。今まであの男が始末してきた者達とて、皆十分すぎるほどに用心深く身を守っていたのだ。ジュノーか、天津か。船を手配しなければならない。慇懃な海の上に一人で駒を並べるうちに、イポリートはコーヒーがまだなのに気付いた。大きな声で2、3度呼び直したが、クラーラの返事はない。もう、始まっているようだ。

「入りたまえ」

 磨かれた金具の立てる、滑らかな音。肩の筋肉に力が入る。

「邪魔するよ。随分と辺鄙なところまで逃げると思ったら、なるほど、贅沢な別荘じゃないか」

 どす黒く濁った女の声。間違いない、キリールの副官だ。イポリートには振り向くことができず、ガラスに映った女を見据えた。

「折角ここまで来たのだ。ダリア君、是非くつろいで行ってくれたまえ」

 恵まれた体躯、赤くウェーブした髪、アクが強く険しい顔つき。いつかアレクも覗いたことがある、シャワールームの女だった。

「お生憎様。これから回らなきゃならないところが、三つも四つも残っててね。コーヒーブレイクする暇もないのさ」

 私にも、あんたにもね。ニコライと同じ、血なまぐさい笑みを浮かべ、ダリアはイポリートに銃を突きつけた。銃口の冷たさが、こわばった背筋に響き渡る。ここが正念場だ。。

「だからといって、横着には感心せんな。ここで私を撃てば、彼の行方を知る手がかりは完全に失われる」

 彼だぁ? ダリアがこめかみを小突くと、イポリートはなけなしの胆力を振り絞った。

「君達が最も恐れている男だ。彼は必ず計画を実現し、この世界を作り変える。君達に止める術はない」

 窓の向うに、イポリートは笑いかけた。ダリアの似姿も笑っているが、そこに映っているのは蔑みに他ならない。

「ハン、そんなハッタリが通じるもんかい! あのジジイは死んだんだ。今のアンタと同じように、偉そうに座ったまま」

 まるでその場を見てきたような口ぶりだ。ダリアの確信は、一体どこから来ているのだろうか。鏡像に遮られて、闇夜の奥は見通せない。

「その彼が、生きているとしたら?」

 イポリートが淡々と問いかけると、ダリアは今度こそ大声を上げて笑った。罅割れた金管の音が、ガラスの上のイポリートを震わせる。上辺に映ったものを信じ切って、その奥に潜む真実に目を凝らすことさえしない、キリールの愚かな猟犬。これ以上付き合ってやる義理はない。

「私が! コイツで! 床に脳味噌をぶちまけてやったんだよ! 丁度今から再現してやるところさ!」

 ダリアが拳銃を握りしめたその時、雲間から月が現れ、蒼い光の上に人影を切り抜いた。

「ユーリ、撃て」

 イポリートが命じると、冷たい音を立ててダリアの鏡像が砕け散った。月夜に広がる光の飛沫と、慇懃なユーリの微笑み。次善の策とはいえ、全てが手筈通りだ。余りに容易く事が運んだため、イポリートは気付くまでに僅かばかりの静寂を要した。熱い。左肩に深々と、鋭い熱が突き刺さっている。

「おめでたい男だね。向うに味方がいるとでも思ったかい?」

 ガラス片を踏み砕きながら、もはや場違いな革靴がリビングに潮騒を運んできた。体中の熱が、重たい銃創から零れ落ちてゆく。リンネルのシャツに広がり、白熱光を受けて輝く、黄昏の緋色。不意に告げられた死は、今や疎まし気にアレクを見下ろしている。一体何の手違いで、この場面が筋書きに加えられたというのだ。熱帯夜の寒さに震えながら、イポリートは裏切り者を睨み付けた。

「……道理で、何の騒ぎも起きないわけだ」

 アレクが声を絞り出すと、ダリアは月灯りに拳銃をかざした。

「サプレッサー、付いてないだろ?」

 アタシは一発も撃っちゃいないのさ。一人だけ得意げに話し続けるダリアこそ、話の分からぬ部外者に過ぎない。

「図ったな、ユーリ……」

 口にして初めて、イポリートは脚本家の意図を理解した。裏切ったのはユーリではない。彼だ。危険視された実験をオハで密かに再現させ、逃亡中に粛清される首謀者。それがイポリートに配された、この舞台での最後の役だった。

 双眸に灯っていた憎しみが燃え尽き、血の気が失せるのを確かめてから、ユーリは微かに嗤った。伝えるべきことは、これ以上何もない。ユーリが再び構えた銃を、アレクは虚ろな瞳で見つめた。世界が断線する。昏い銃声と共に、形のない影の中をアレクはどこまでも落ちていった。

(第二部「モナドの鏡」へ続く)