ふたり回し

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進行

上手くいきかけたと思ったら、再び怪しくなる雲行き……


 カルラとの密会から5日、頑張りますといった割に収穫が上がらない。イポリートは隙を見せず、キリールからの連絡も来ず、国安の巡回をニコライに知らせたのがほぼ唯一の戦果だった。こんなところで足踏みしていては、陰謀を止めるどころか、ユレシュにたどり着くこともままならない。居酒屋の軒先で肉まんをかじっていると、誰かがアレクの肩を叩いた。

「アレク、先生が呼んでたぜ。今から診療所に顔出せってよ」

 一体誰に付き合わされたのか、バトゥの顔ははなから真っ赤だ。青ざめたアルコールの匂いには、仄かなアンズの香りが混じっている。

「コルレル先生が? バトゥと選手交代しろって?」

 軽くふざけるに留め、アレクはバトゥに手番を返した。コルレルの用事とは、一体どんなものだろう。

「違う違う、先生は素面だって。飲んでるのはわ・た・し」

 飲んでいるという割に、エカチェリーナはいつも通りだ。

「バトゥがこの有様だからホントは代わって欲しいとこだけど、あいにく大事な用みたい。いろいろ検査するんですって」

 頑張って、生きて帰ってきてね。エカチェリーナは、笑ってアレクの背中を押した。

「ありがとう。とりあえず行ってみるよ。もしもの時は、骨を拾ってくれ」

 小さく手を挙げて、アレクは坂道を下り出した。後ろから、バトゥの馬鹿笑いが聞こえる。普段が控えめなだけに、その声はなかなか耳から離れなかった。

 緩やかなカーブを描く大通りのそこかしこは、相も変わらず大賑わいだ。この狭いアジートの、一体どこにこれだけの人間が住んでいるのだろう。アレクはスリに遭わないよう、ポケットの中で財布を握った。

「検査か……」

 コルレルは、ユレシュたちとは違う。人体をわざわざ傷つけるような真似はしない。コルレルがするというなら、必要だと思ったからだ。今、検査をすることが。何かがアレクの頭の中で起りつつあるのだと、あの医師が考えている。足取りが軽くなるはずなどどこにもないというのに、診療所の看板はあまりにあっさり現れた。すでに人気はなく、玄関には、休診の札がかかっている。アレクが立ち尽くしていると、やがて中から扉が開いた。

「何しとる。さっさと入らんか」

 何というか、その、お願いします。コルレルの後ろを歩きながら、アレクはためらいがちに尋ねた。

「先生、検査なんですけど……」

 ちらりとも振り返らず、ごま塩頭は固い返事をよこした。

「CTを撮るだけだ。大の男が一々ビビるな」

 コルレルが立ち止まったのは、明かりのついた部屋の前だ。小窓から覗く光は、柔らかく温かい。 

「それとも何だ? そんなに頭を開いて欲しかったのか? ウチは外科だ。道具なら揃っとるぞ」

 不敵に笑うコルレルに構わず、アレクはしれっと聞き返した。

「外科か……先生、軍医だったんですか」

 まあな。コルレルは在籍時に、ポーランドでニコライ達と知り合った。コルレルだけでなく、班長やリイファの父も最古参なのだという。

ブレーメンの音楽隊みたいに、段々集まってきたわけじゃないのか……新入りが俺だけってのも、なんか肩身が狭いというか」

 アレクを台に寝かせて、コルレルはスキャナーを動かした。台は音もなく、穴の中にゆっくりと滑り込んでいく。

「そこまでは言っとらん。お前のよく知っとる男も、最近入ったばかりだ」

 アレクがよく知る男。アレクが起き上がり、尋ねようとすると、コルレルは強引にアレクを押さえつけた。

「ええい、目を閉じんか!」

 断面を切り出す音は、意外なほどにあっけない。大したこともしていないのにアレクはそのまま廊下に追い出され、廊下のソファで時間をつぶした。受付の婆さんすら病院には残っておらず、表の方から聞こえてくるのは消毒薬の匂いばかり。退屈さに欠伸が止まらず、次第に瞼が重たくなってきた。

「ええぞ。入れ」

 コルレルの声に引っ張られ、アレクはソファから立ち上がった。カルラの話に出てきた、ブローカ野の三角部。コルレルが見れば、何か新しいことがわかるのかもしれない。ドアの向うで待っていたのは、しかし、やけに神妙な顔つきのコルレルだった。

「あれ? どこか悪かったんですか」

 アレクは、固い声で聞き返した。シャウカステンの上に、二組のCT画像が並んでいる。コルレルに手招きされて恐る恐る覗きこむと、どちらも大して変わらなかった。

「右が病院で撮影されたもの、左がさっき撮影したものだ。分かるか?」

 言いながら、コルレルは下の方の画像を指した。問題のブローカ野だ。

「左側ブローカ野の内側、この溝だ。前回撮影されたものよりも、若干広がっとる」

 大脳に打ちこまれた一本の重たい影が、ゆっくりと鳩尾に沈んでゆく。三角部の萎縮。テルミンの見立てでは問題なしということだったが、そんなものはアテにならない。アレクは画像に食いつき、それからコルレルを振り返った。

「感電が原因でしょ……なんで進行してるんですか?」

 コルレルは一瞥もよこさず、じっと画像を睨み付けている。鋭く皺の刻まれた眉間を、時間をかけて這い降りる、汗。刑事やニコライが何度か見せた、これはあの顔つきだ。コルレルの目の前には、油断ならない敵がいる。アレクは生唾を飲み込み、コルレルの言葉を待った。

「事故で破壊されたニューロンからの信号が途絶え、機能を喪失したニューロンが分解された……説明はつくが、通常の経過ではありえん。むしろ他のニューロンが伸長して、破壊されたニューロンを代替するところだ」

 紛れもない事実を前に、二人は言葉を失った。脆い音を立てて蛍光灯が瞬き、陰の間を緑の床が漂っている。三角部の萎縮は一体どこで止まるのか。ニューロンが擦り切れていった先には、一体何が待っているのか。答えどころか、疑問さえも口に出来ないまま、時間を秒針が追い立てるのを見守った。時計の左側が、じりじりと減ってゆく。これだけ鈍い歩みを止める術さえ、今のアレクは持っていない。

 終わってしまう。時間がなくなって、このまま、何も止められず。アレクがいなくなった後に、無傷の党とユレシュが残る。カルラから聞かされた虐待が繰り返され、エッシャーの城はユレシュの手に落ち、党が作った事実の中に、人々はいつまでも閉じ込められる。アレクが、このまま何もしなければ。

「先生。この調子だと、いつまで持ちますか。俺」

 顔を上げたアレクの目には、鋭く硬い光が灯っている。暢気な街の青年に手負いの獣の激しさを見て、コルレルはたじろいだ。

「やけに強気で聞くな……ふん、いいだろう。それなら正直に答えてやる」

 今のアレクには、まだ言語障害は出ていない。このまま萎縮が進行しても、何不自由なく生活できる可能性はある。コルレルは赤いペンで、CT画像に予測を書きこんだ。

「だが、今のまま萎縮が進めば、4か月後には三角部の大きさが半分になる。一般的には、文章の反復がほぼ不可能になった状態だ」

 金臭い音を立て、コルレルの椅子が回った。見上げた先に広がるのは、灰色の天井だけ。上を向いたコルレルをじっと見据えたまま、アレクは答えた。

「4か月、いや、3か月かな……分かりました」

 油染みた両手は、つなぎの膝を握りしめている。どんなにか細い可能性も、決して話さないように。

「それまでの間、俺にもっとできることがあるなら――」

 教えて下さい。アレクは低い声で、力を込めて訴えた。

「俺も力になりたいんです。党の陰謀を止めるために……このまま、奴らに好き勝手させてたまるか」

 もう一度アレクの眼差しを確かめ、それからコルレルは大きく深呼吸した。

「コーリャが聞いたら、さぞ喜ぶだろうが……他人に吹き込まれて、勢いで言っとるわけじゃなかろうな」

 コルレルの顔がぐっと近づき、目の前が僅かに暗くなった。アレクの知る医師の顔とは、まるで似ても似つかない。それもそのはず、この男が属していたのは、病院ではなく軍隊なのだ。

「俺が自分で決めたことです」

 アレクがひるまず念を押すと、コルレルは漸く折れた。

「分かった。一つ心当たりがある……」