ブリキのバケツに柄杓を差し、錆の浮いた蛇口に手をかけた。固く閉まったまま、さび付き出しているのだろうか。ハンドルは指にかみつき返し、中々引き下がろうとしない。息を止めて握りなおし、思いきり力を捻じ込むと、繋がりかけたバルブが僅かにずれ動き、やがて回り方を思い出した。バルブが軽くなるに従い、呻き声が静まり、水の色が薄まってゆく。
「こんにちは」
振り返ると、そこに君がいた。紺色のワンピースと日焼けした腕の間に、小さく覗く白い肩。強く胸を打たれたせいで、僕は返事を忘れていた。ただ、バケツを叩く硬い水音だけが、彼岸の午後を震わせている。
「すいません、私もお墓参りなんだけど、バケツ置き場って、どこかにあります?」
いや、これしかないみたいだよ。僕が答えると、君は目を落とした。白いコンクリートには、小さな影が深く焼き付いている。この日差しの中、ずっと待たせておくわけにもいかない。
「目一杯入れて持ってくよ。別に、半分残してくれたらいいし」
半分水が溜まったところで、僕は水を止めた。年の近い男が、水場が空くのを待っている。軽く会釈して立ち退くと、少し離れた木陰の中で、子供を連れた女性が会釈を返した。舗装された通り道は、墓場の中に一本きりだ。なだらかな坂の上には無数の墓がごった返し、段差を乗り越える度に水がこぼれそうになる。君の声に呼ばれるまま、風に流れる黒髪を追いかけた。
「知らない顔だけど、君も里帰りなの?」
僕が尋ねると、君は首を振った。
「冬に越して来たんです。お兄さんは、東京から?」
うちくらいの田舎になると、日本に土地は二つしかない。東京と、地元だ。
「残念。名古屋の大学に通ってるんだ」
僕は一旦足を止め、少し息を整えた。こめかみを流れる、汗。猛々しいクマゼミの鳴き声が、窓から流れ込んでくる。
「いつもありがとね。看護婦さんにも言われちゃった。『あら、結城さん。またお花替えたの? いい旦那さんねぇ』って。10分も話し込んでいくんだ、あの人」
努めて明るく笑うけれども、また少し、肩の肉が落ちている。ゼフィランサスの花束を手に、僕は花瓶を持ち出した。カトレアを捨て、花瓶を洗い、切り口に水を注ぐ。細い口に花を差し、墓石の上から水を流した。冷たい御影石の上を、透き通ったヴェールが幾重にも滑り降りる。
「久し振り。今年も、また会いに来たよ」
石を磨きながら、僕は君に話しかけた。
「ちょっと太ったんじゃない?」
駄目だよ。最近、手を抜いてビニ弁食べてるでしょ。たまに顔を合わせるとこれだ。付き合い始めたばかりの頃は、もう少し嬉しくなるようなことを言ってくれたのだが。
「ご明察。ちなみにそのおはぎも、後で僕がもらう予定だよ」
濡れた墓石に、遠い日が映り込む。手の甲で汗を拭い、墓石を洗う君に、僕は漸く、そして短く尋ねた。
「お父さん?」
と、母さん。君は振り向かず、そっと墓石に触れた。
「名古屋って、どんなとこですか」
思えば、あの時君にとって、僕は切符でしかなかったのかもしれない。行き先が分かっていたなら、きっと選びはしなかった。金網の向う側を電車の影が通りすぎ、遠くの街へと消えてゆく。か細い鼓動を乗せて、僕たちよりも、はるか先へ。電車の後を追いかけて楓の葉が飛び出すけれど、どんなに手を伸ばしても、冷え切った風にしか届かない。子供達は飛び上がって力尽きた紅葉を捕まえ、君は僕を振り返った。
「まだ綺麗な葉っぱ、拾っちゃった。見て。赤ちゃんの手のひらみたい」
紅葉の柄をつまみ、君はくるくると回して見せた。夕方の庭園に満ちた、温かな落ち葉の匂い。黄昏が梢をすり抜け、二人を幸せの色に染めていた。
「かわいいね。持って帰って、押し花にしようか」
舞い散る紅葉の中を、僕たちはゆっくりと歩んだ。互いに寄り添い、未来に夢を馳せながら。あの日、未来は確かにあった。僕たちの手は、しっかりと握りしめていた。
10月の夕暮れ時は、こんなに肌寒かったろうか。あの温もりを少しでも思い出せはしないかと、僕は日差しに手をかざした。指をすり抜け、秋空へと還ってゆく、寂しい風。静かに波打つススキの上を、赤トンボの群れが漂っている。小さな翅が時折小さく瞬き、静かに水面の上を滑った。
「ごめんね。今年、どこにも行けなくて」
池を眺めながら、君は謝った。繰り返し水面をつつく、赤トンボの軽いステップ。池に面した東屋には照り返しの光が溢れ、青白い網の上をしきりに波紋が駆け抜ける。
「来年は、また嵐山に行こう。この子を背負っていくのは、なかなかしんどそうだけれど」
君のお腹に手をあて、僕はぼつぼつと旅行の話を始めた。川下りとトロッコ電車、なじみの旅館、風と踊る紅葉、夕日にあかあかと燃える、遠くの山並み。二人の前に広がる夢を、しかし、不意に大きな水音が横切った。ささやかな暗がりは荒々しい波に揉まれ、なす術なくがたがたと震えている。暫くして波が落ち着いてしまうと、照り返しを乱すものはそれきり何も現れず、黄昏どきの共同墓地は静けさに包まれた。
「また来るよ。今度は、お正月になるかな」
僕はバスに足をかけたけれども、君は袖を離してくれない。振り替えた僕に、さらに念を押すのだから。
「必ず、必ず戻ってくる?」
必ず。そう。僕は確かに戻って来た。運命を引き寄せる逆らいようのない力を、君の瞳が持っていたから。
「約束だよ、絶対」
後ろから抱き疲れて、荷物をまとめる手が止まった。窓に映った僕らの影は、一緒に山々を見つめている。朝日の中、静かに熱を放つ山並みを。
「うん。絶対に、連れて来よう」
君の腕に、僕は優しく手を添えた。温かい。10月の早朝は、どうしてか、こんなにも。
「実はね、名前だけは、もう考えてあるんだ」
君はどこか自慢げに、すました顔で笑って見せた。いつもならもったいぶって、中々答えを教えない。分かっているけど、僕は仕方なく聞き返した。
「名前か。なんてつけるんだい」
でも、この時だけは、伝えずにいられなかった。君がこっそり囁いた、ヒントよりも小さな名前を、僕は決して忘れない。僕にだけ教えたかった、二人だけの秘密の名前を、僕だけは、決して忘れない。
「祈莉」
遠い夕日を見つめ、僕は小さく呟いた。