ふたり回し

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標的


 アレクの提案を、カルラはあっさり受け入れた。明日の朝10時、レスメンナヤ通りのカフェで。カルラが望んだ待ち合わせ場所は、市内で最も静かな通りだった。水没した湿地に杭を打ちこみ、ケーブルで吊るした極東のヴェネツィア。オフシーズンの別荘地からは、なるほど警官の足も遠ざかる。仕事上がりと同時に寝てしまえば、5時間程度は眠れるだろう。アレクは別れを告げ、アジートに帰っていった。

 翌日仕事に出ると、バザールの片づけが始まっていた。名残を惜しむ仲間たちの間で、アレクは船をこぎながら一日を乗りきったが、余裕のない見通しほど壊れやすいものはない。漸く帰れるというところで、ニコライ達がハンガーを訪れたのだ。

「流石に間が空き過ぎたからな。一日でも早く回したくてよ」

 翌日に点検を回しても、ハンガーを閉めるために誰か一人残らなくてはならない。当然のように新入りが選ばれ、青い顔をしていると、レフが代わりを買って出た。

「俺が残るっス。昨日初トロッコで、アレク君は膝ガクガクだったからねぇ」

 首に腕を回したまま、レフはアレクを隅に連行した。

「何よ? 明日予定あんの?」

 相変わらず、嫌なところで勘がいい。

「実は、また街に行くことになった」

 苦笑いしたアレクに、レフは粘っこい笑みを返した。

「昨日今日振られたばっかりで新しい女を見つけて来ちゃうんだからさ、心配し甲斐がないというか、ふてぶてしい奴だよねぇ、君も」

 後でちゃんと報告するように。レフは文句の一つも言わず、貧乏くじを引き受けた。わざとらしい先輩風にも、アレクは感謝するしかない。トロッコならば、レフこそアレクの倍も漕いでいたのだ。

「で? どうだ、その後は。何か目ぼしいもんは見つかったか」

 レフから解放されたアレクに、ニコライが歩み寄った。逆光の奥底でサングラスが隠した目付きは、アレクに何も教えてくれない。

「ああ。イポリートという男なんだが、俺の逮捕に一枚噛んでいたみたいだ。これから暫く、あの男を追うつもりをしてる」

 見えない眼差しを、アレクはじっと見据えた。逃げない。本当に何もないのか。

「奴か……お前に目をつけたのは。てっきり国安だと思ってたが……いや、その方が分かりやすいか」

 ニコライは、イポリートを庇いもせず、種明かしもしなかった。やはり、違うのだ。

「研究者には見えなかったぞ? 何者なんだ? あいつは」

 鋭いエンジン音が、ハンガーから出て行った。イワンのボルゾイだ。アレクはまだ当っていないが、一台だけ旧型で、エンジンの種類が違うのだという。イワンを見送ってから、ニコライはアレクに答えた。

「敵さ。再構築派の急先鋒だ」

 続いて2台、3台とボルゾイが発進していった。自分のボルゾイをチェックする隊員たちの中、エカチェリーナだけが手を止めて、アレク達をじっと見つめている。

「俺達が軍にいた頃、奴は国安の幹部だった。専門は容疑のでっち上げだ。あのヤロー――」

 一体何人パクりやがった。絞り出した声は、怒鳴り声よりも重く、熱い。ニコライは鼻の頭に固い皺を刻み、大きな傷だらけの拳を握りしめた。

「ユレシュの味方で、間違いないんだな」

 ニコライは答えず、ボルゾイに飛び乗った。4ローターのエンジンが、雄叫びとともに油圧を上げてゆく。狙っているのだ。彼方から漂って来た、仲間達の血の臭いを。

「ああ、お手柄だ。絶対にそいつを逃がすな」

 スロットルを緩め、ニコライはアレクに命じた。

「そいつの後ろには、絶対にユレシュがいる」

 ニコライのボルゾイはハンガーを飛び出し、小さくパワースライドしてホールの出口に頭を向けた。2台分の間を守って、エカチェリーナも同じ軌道で付いてゆく。残された整備班はその場で解散し、アレクはレフに礼を言い直すと、真っ直ぐ固いベッドに戻った。

 

 アレクはまたも、今までと違う場所に出た。かがり火の光が漂う、黴臭い廊下。壁と床と天井には、アジートに負けないくらい扉がびっしり並んでいる。レフ達の近くまで、流されてきたのだろうか。湿った壁に掌をつけて、アレクは短く鼻で唸った。窓の一つもないのでは、どのあたりか見当もつかない。白い宮殿や、カルラのいる中庭への道も。

 廊下は緩やかに捻じれながら、大きな螺旋を描いている。しばらく歩いてゆくと、アレクは階段の踊り場に突きあたった。右から左に登る石段。少しずつ曲がってゆく別に珍しいものでもない。そのまま進んだアレクの目の前に、さっきとよく似た廊下が現れた。

 金具の音が混じった足音が、深い渦の中心に吸い込まれてゆく。アレクは廊下を延々と手繰り続けたが、ここは今まで見てきた場所とは違う。どこかで通路が一周しているのか、歩いても歩いても廊下が枯れ果てる気配はなく、どころか見覚えのある場所に戻ってきてしまうのだ。階段の踊場に立ち止まり、アレクは風の音に耳を澄ませた。

 微かな風の音は、下の廊下から聞こえてくる。ここまでは自分の扉から遠ざかる方へ、遠ざかる方へと歩いてきたが、探し物は案外振り出しに転がっているものだ。最初に見た階段、下ったところに何があるのか、実際アレクはまだ確かめていない。アレクは下りの階段を選び、さらにもう一回下の階に向かった。

 当たりだ。手摺りを回り込んだ瞬間、アレクは小さな声で叫んだ。見下ろした先には、通路ではなく石灰岩の壁が立ちはだかっている。周りの石壁の中、一面だけを覆う白壁には、僅かな見覚えがあった。螺旋階段だ。白い宮殿に繋がる、大きな螺旋階段。間違いない。幾度となく手をついて上った。手前に向かって反り返っているのは、裏側にあの壁があるからだ。

 ツナギの金具が立てた音が、階段の上を跳ね、階下へと転がり落ちた。近い。あと少しだ。あと少しで、この迷路から抜け出せる。アレクは階段を駆け下り、白壁を突き飛ばして踊り場を切り返した。一段飛ばし、二段飛ばしで、左右にステップを刻む安全靴。階段の先に、光が見える。蝋燭の炎ではない、太陽の白い光だ。目の前に現れた四角い空に、しかし、アレクは体をのけぞらせた。

 アレクは足を突っ張ったが、すぐ止まれるわけがない。勢いのついた体はそのまま城の外に飛び出し、バルコニーの手すりに打ち付けられた。漸く見つけた青い空が、大きく口を開けてアレクを待ち構えている。身を乗り出し、足が浮き上がったまま、アレクは膝と両腕で手すりにしがみついた。体が回ろうとしている。膝が浮いてしまう。この手すりを落としたら、空の果てまで真っ逆さまだ。アレクは歯を食いしばり、手すりの上で踏みとどまった。

 とにかく体を起こさなければ、足場の上には戻れない。空の上に残った上半身をのけ反らせ、アレクは重い頭を持ち上げた。首が引きつり、筋が千切れそうだ。腹にめり込んだ手すりが重い。目一杯頭を引き戻し、これ以上は動かせないというところで、ようやく体が内側に滑り出した。両足が床を捉え、バルコニーに浸かった後も、腰が砕けて動けない。右手に浮かんだ別の城をぼんやりと見つめながら、アレクは息を整えた。

 あの城の中にも、無数の扉があるのだろうか。じっと目を凝らしても、対岸はうっすらと霞んだままだ。調べるどころか、辿り着くだけでもどれだけかかるか分からない。冷たい溜息を吐き出して、アレクは再び歩き出した。

 幅の狭いバルコニーは、壁に沿って左へと続いている。突き当りの角を曲がると、壁の陰から緑の庭が現れた。目の前に立ちはだかる一面の芝は、間違いない、カルラがいる中庭だ。壁に開いた入口をくぐり、アレクは見慣れた吹き抜けに辿り着いた。染み一つない石灰岩の壁、天窓から差し込む遥かな光。胸骨に打ち付ける心臓をなで下ろし、アレクはいつもの中庭に向かった。

 そこから中庭に出るためには、一度外の通路に出なければならなかった。城壁から突き出した塔の周りを回り込んで再び城の中へ。カルラに案内された道を綺麗にそのまま遡り、階段を駆け下りれば中庭はもうすぐだ。アレクは息を小さく弾ませ中庭に飛び出したが、そこにカルラの姿はなかった。

 カルラは夢を見ていない。そよぐ風としなる梢だけが、アレクに囁きかけている。人より早く横になるのだから、朝も人より早いのだろう。木陰のベンチに腰を下ろし、短く鼻で唸ってから、アレクは自分の扉へと引き返した。