あまり考えていなかったシーンなので、逆に手こずってしまった感じ。
翌朝アレクは目を覚ますと、シリアルをかき込んでレフのハッチバックを街まで飛ばした。バザールで買った水色のアロハシャツ。細身のホワイトデニム。起きがけに鏡を見て確かめた。黒染めはまだ落ちていない。スリーピースとはいかないが、何しろ天使の同伴なのだ。滅多な格好では出てゆけない。バトゥの走った道を辿り川沿いの道に出ると、遠目にビルの群が見えた。
アジートを出てから、一時間も経っていない。一昨日の苦労が嘘のようだ。臨海地区に入ってすぐの交差点を左に曲がり、アレクは橋の上を流し気味に走った。イポリートは何のため、キリールを欺いたのか。アレクを受け取ったのは、本当は誰だったのか。ニコライは、何をどこまで知っているのか。アレクには無理でも、見破ることができるかもしれない。絡み合った謀の隙間をかいくぐってきたカルラには。
橋の両側には高い柱が立ち並び、円錐状に張られたケーブルが円いデッキを支えている。店や広場もまばらに見えるが、ほとんどは天使たちの別荘だ。7月に入れば賑やかになるのだろうが、人のいる家は少ない。橋は緩やかなカーブを描き、フロントガラスに白いアーチが滑り込んできた。
カルラの言っていたカフェだ。交差したアーチからたくさんのケーブルが下がり、細い足場でつながった小さな鳥かごを支えている。容赦なく高そうな店構えに息をのみ、アレクはポケットの偽配給券を確かめた。大丈夫だ。ドレスコードはともかくとして、勘定は誤魔化せる。
アレクは駐車場に車を停め、中央のエレベーターに乗り込んだ。ここまでのこのこ出てきたからには、恥をかくことなど気にしていられない。諦めて名前を伝えると、しかし、受付はアレクを素通りさせた。
「お連れ様がお待ちです。係りの者がご案内いたしますので、あちらへどうぞ」
待たせてしまっているらしいが、お陰で関所を抜けられた。川面を滑るガラスの廊下を、ウェイターは軽やかに渡ってゆく。白い背中を追ううちに、いつの間にか息が軽くなっていた。
そういえば、カルラは何を着ているだろう。ある物で間に合わせたアレクと同じ筈はないが、白衣以外を着ている姿はどうしても浮かばない。本題とはかけ離れた呑気な悩みを抱えたまま、アレクは個室についてしまった。
「すんません。遅くなりました」
鳥かごの奥には、果たしてカルラが座っていた。
「いえいえ。無理を押して来て頂いたのですから」
実際に会ったのは病院ですれ違って以来だが、間違いない。これはカルラだ。顔も声も話し方も、アレクがよく知っている通りの。せめて平凡な服装をしていれば、迷うこともなかっただろう。
「天使様、ええと、その格好は……」
壊滅的と言うべきか。ピンクと緑がのたうち回る黄色い花柄のワンピース。しかも丸襟だ。今時、6歳児でもこんな服は選ばないだろう。
「このワンピースですか? 着る機会がずっとなかったものを引っ張りだして来たのですが、今思うと少し派手過ぎたかもしれませんね」
すました顔でティーカップを手に取り、冷めた紅茶を飲み干しながらカルラはアレクを窺った。
「いや、よくお似合いですよ。なんというか、その、とてもガーリィな感じで」
こんなところで躓いている場合ではない。アレクはうろ覚えの単語で急場を凌いだ。
「それより、この間の話ですよ」
あの男が、一体誰と繋がっているのか。迂闊な言葉を吸い込み、アレクは外を窺った。開けっ放しの入り口にも、白い格子の向うにも、ウェイターの姿はない。
「そうですね。一応話しやすい場所を選んだつもりですが、あなたはもう知っています。どこで誰の聞いた言葉が、どんな形で襲いかかってくるのかを」
ソーサーにカップを戻したとき、そこにはいつものカルラがいた。花薫る庭にあって、、険しさ忘れさせないカルラ。このテーブルに始めから用意された話題を、わざわざ取り出す必要がなかった。
「イポリートが協力した相手は、一体誰だったんでしょう」
可燃物を扱うときの引き締まった低い声で、アレクはカルラに聞きなおした。
「順当に納まるなら、党の研究機関の筈です。城を狙っていた者が、アレクさんに興味を持った。そして捉えようとしたと」
ですが。カルラは宙を睨んでから、続けた。
「実際に起こったことは、それとは逆のことだった。アレクさんは党の手を逃れ、むしろテロリストに加わりつつあります」
軽い相槌を引っ込め、アレクは歪な眼差しを向けた。カルラはニコライ達のことを、知っていてテロリストと呼ぶのだ。
「でも、ニコライはグルじゃない……です、多分。イポリートには、怨みがあるみたいですし」
声を荒げたアレクの口から、ほんのわずかに犬歯が覗いた。格子の隙間に覗く川面が、過ぎた風にまだ揺れている。
「イポリートが宗旨替えしたのなら、隠す必要もありません。一番分かりやすい可能性は、この場合頼りにならないようですね」
溜息をつくと共に、カルラは外を指さした。ウェイターだ。そういえば、アレクはまだ何も注文していない。ブレンドを一杯頼んでウェイターが帰っていくまでの間、アレクは抜け道を探し続けた。レジスタンスを増長させるためにアレクを利用した可能性。誰かの目を欺くため、アレクを一旦ニコライの手に委ねた可能性。アジートの中に内通者を用意している可能性。どれも自分から手間を増やしているだけだ。
「――ていないと考えるべきでしょう」
アレクが気付いたとき、カルラの話は終わっていた。この矛盾をすり抜ける道が、カルラには見えているのか。アレクが聞き返すと、カルラは首を振った。
「こういう場合は、分かっているところから埋めていくべきです。第一に、現在の状況はイポリートの狙った結果だということ。第二に、ニコライはそのことを知らず、一方的に利用されているということ」
研究者の推測は、堅実で的確だ。分かることは洩らさず、分からないことには踏み込まず。たとえ答えが矛盾に見えても、事実として受け止める。
「でも、わざわざアジートを使う理由がない。イポリートの地位があれば、自分の息がかかった施設がそのへんにゴロゴロしてるでしょ」
カルラは頷き、それから顔の前で手を組んだ。
「そこでアジートを選択したところに、彼の真意を読み解く鍵があります」
イポリートの筋書の中で、最も作為的な部分。アレクがアジートにいることが、イポリートにとって一体何を意味しているのか。水鳥の鳴き声が、立ち込めた謎を横切っていく。アレクは膝を叩いて、テーブルの上の静けさを払った。
「よし。その辺りはまた今度調べましょう。腹が読めないってことだって、城を探してて分かったことなんだし」
カルラは熱のこもった溜息を吐き出し、それから対岸の街を見やった。今、あそこでイポリートは何をして、何を考えているのだろう。
「ええ、答えを出すには、まだ証拠が足りません」
ですが。小さなつぶやきが、風の中にほどけて消えた。
「気を付けて下さい。彼には必ず、アレクさんを連れ戻す算段があります。手下を潜り込ませるにせよ、外部から襲撃するにせよ……何も来ないということはありえません」
そう。全ては決まっているのだ。あの男の頭の中で。カルラの眼差しを追いかけて、アレクも姿の見えない敵を探した。格子の向うに見えるビル群は、心なしか色あせて見える。
「アジートの中でも安全とは言えない、か。でも不思議です。俺、街に来てるのに、なんか安心しちゃってる。不用心ですかね」
アレクが苦笑を浮かべると、カルラは口を尖らせた。
「当たり前です。ほら、さっそくウェイターが戻ってきましたよ」
慌てて口をつぐむのも、かえって怪しく見えるかもしれない。足音を背後に捉えながら、アレクはデートを装った。
「そういえば、この後どこに行くかまだ決めてませんでしたね」
失敗だ。発音が浮足立っている。
「コーヒーをお持ちしました」
白磁のソーサーは、音もなく青いクロスの上にとまった。濃厚な飴色から仄かな湯気が立ち上り、そっと息を吹きかけると静けさに溶けてゆく。ご注文の品は以上です。ウェイターが行ってしまうと、部屋にはいつもの静けさが戻った。風と、葉擦れと木漏れ日だけが囁きかける長閑なひととき。意外な余裕のありかを見付け、アレクは間抜けな声を上げた。
「中庭か……中庭にいるような気になってました。目の前に、天使様がいるから」
エッシャーの城。この世の外から、謀を眺めることができる場所。アレクを狙う敵はなく、カルラだけが中庭で、待っている。
「呆れました。本当に呑気な人ですね」
口先で咎める割に、随分と気の抜けた声だ。カルラの投げ出した左手を見て、アレクはしかし、目を丸くした。
「天使様、腕輪、腕輪を忘れてますよ」