ふたり回し

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不信

めっちゃ空いた……

 
「しかし……いや、待ってください。今までイポリートが、ユレシュの所在について言及したことが――」
 ノックの音。話しかけにも拘らず、アレクがドアを見やる間にカルラの姿は消えていた。
「よお、生きてるか、アレク」 
 ドア越しに聞くと、ざらついたニコライの声がいつもより煤けて聞こえる。カルラを探す余裕もなく、アレクは間に合わせの返事を口走った。
「あ、ああ。さっき、少し眠れたよ」
 開いた入り口から表の賑わいが流れ込み、ニコライの後ろで静かに途切れた。
「顔色が戻ってるじゃねぇか。命拾いしたな」
 飯は食ってるのか。大男の強面には、見慣れない微笑みが浮かんでいる。
「おかげさまで……外はどうなってる?」
 アレクから尋ねると、ニコライは顔をしかめた。
「大体は予想通りだ。連中イポリートの粛清にかこつけて、心理学者を次々にしょっ引いてやがる」
 ただ、もはやリベラル派のみならず、体制派の御用学者にまで捜査の手が及んでいるという。徹底的な摘発は役人を萎縮させるに留まらず、水面下での反発を招くというのが、ニコライの読みだ。
「そんなことより、手前の身体を先に心配しな」
 キリのない質問に耐え兼ね、ニコライはアレクを黙らせた。本当に体制派の中では、仲間割れが始まっているのだろうか。人づての話だけで世間の様子を窺い知るのがかくももどかしいものだと、アレクは今まで思いもしなかった。
「これが病室の床とは……」
 パーカーの埃を払いながら、カルラがベッドの下から現れた。
「カルラ――なんでそんなところに」
 味方として協力していながら、カルラは頑なに秘密主義を貫いている。ニコライ達は、子供達を助けるために命をかけ、落としさえしたというのに。その事実は信用に足らないというのか。アレクが尋ねたところで、帰ってきたのはいつもと同じ答えだけだった。
「前にもお話した通りです。エッシャーの城は、アレクさんが考えているような便利なものではありません。本質的に危険な力であり、人間が近づいてはならないものです」
 手痛い言葉はアレクの隙をついて、腸の底に冷たい錨を下した。腕を組み、目を伏せるカルラ。空調の生温い音だけが二人の間を流れてゆく。
「それに……」
 先に沈黙を破ったのは、カルラの方だった。
「アレクさんをイポリートから『受け取った』人物は、まだアジートの中にいるんですよ。ニコライ本人も、受け手でないという証拠はありません」
 アレクは肩をすくめ、ため息交じりに諫めた。
「いくらなんでも疑い過ぎじゃないのか? 俺ならともかく、仲間全員をニコライが騙してたなんて」
 それに作戦の結果、ユレシュはイポリートと研究所を失い、ニコライはバトゥとボルゾイを失った。得をしたのはキリールとイブレフスキだ。
「ニコライが敵と繋がってるなら、普通作戦を止めるだろ」
 なまじ筋が通っていたばかりに、アレクの言い分は一層頑な答を引き出してしまった。
「ですが、工作員がいることを前提に行動して下さい。党の中に協力者がいるように――」
 床に語りかける、冷たく硬い声。苦し紛れの一般論を、荒々しい溜息が遮った。
「だから、少なくとも、俺が知ってる中にそんな奴はいない。ユレシュに味方するような奴は」
 カルラのしつこさにつられて、アレクの語気もいつの間にか破裂しそうになっている。気づいていたにもかかわらず、取り返しのつかない言葉が放たれてしまった。
「スパイがいるって……正体を隠してるのは、カルラの方じゃないか」
 闇雲な当て付けに振り向き、アレクを見つめたまま動かない。黒い瞳が震えているのを見て、アレクは当たり所の悪さを悟った。
「それが分かっているなら、他の味方も疑ってみることです」
 出がらしを固く搾ったところで、滴り落ちるのは憎まれ口ばかりだ。何も届きそうにない、埃だらけの背中。カルラは音を立てて乱暴にカーテンを払いのけると、足早に病室を出ていった。