ふたり回し

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陥入

トリップシーン、難しいな……連続するとワンパターンになりかねない。


 このまま覗き続けたところで、アレクに出来ることはない。カルラに言われた通り、アレクは指先に意識を絞り込み、炎天下を歩く手足を止めるよう念じた。これでノンナの意識から抜け出すことが出来るはずだ。ほどなくしてアレクの体はノンナからずれ始め、気が付いた時には、目の前にドアが立ちふさがっていた。

 アレクが見たのは、夢などではなかった。秘密基地や陰謀よりも遥かに確かな手触りを持つ、いつも通りの日曜日だ。そこにアレクの姿はなく、党の作った辻褄だけが遺されている。昼前だったことを除けば、これ以上ない現実だ。

 ふらつきながら後ずさり、背中を冷たい壁につけ、アレクはゆっくりと座り込んだ。今この時も、街には仲間達がいる。変わらない姿で、聞きなれた声で、ユーゴやパルミや、ノンナが生きているを確かめることが出来たのだ。暗がりに切れ込んだヴォルト天井を見上げながら、アレクは溜め息を宙にほどいた。

 薄暗い廊下は静かなカモミールの香りに満たされ、突き当りの小窓の中を長閑な空が流れてゆく。ハバロフスクの煩さとは、何もかもが正反対だ。ドアの前に座ったきり、立ち上がれずいるうちに、アレクの手足はすっかり冷え込んでしまった。日の光を受けて輝く、、真っ白な雲。エッシャーの城からは、夜空が見えることはない。

 夜。そういえば、ハバロフスクも昼前だった。アレクは一日働いてから部屋に戻って横になったわけだが、そもそも外が昼か夜かはアジートの中から見えるものではない。昼夜がひっくり返っているのは寧ろアレクの方だというのが、よほど素直な見方なのだ。

 今ならば、他の扉の中も。膝に手をついて立ち上がると、左手の指からキーホルダーが滑り落ちた。廊下の中を跳ね回る鍵の音はあまりにも、軽くて薄く、脆すぎる。屈んで鍵を拾ってから尻ポケットの奥に突っ込み、アレクは白い宮殿を目指した。

 道すがら、回廊に並んだ扉がいつにも増して目についた。いつもは同じに見えるオークの扉が、それぞれの表情と色合いで語りかけてくる。広いだけで静まり返っていた城が、惑うほどに鮮やかで、賑わっている。手近な扉に足を向けてしまいそうになりながら、アレクはその度に踏みとどまった。暴くべき秘密は、ここにはない。望楼の間にそびえるあの白い宮殿こそが、アレクの狩場なのだから。

 やはり昼間だからだろうか。カルラの姿は、中庭にも螺旋階段の広間にも見当たらない。アレクはおぼろげな記憶を頼りに螺旋階段を抜け、望楼の広場に辿り着いた。

「今なら……」

 歪なバルコニーと黄金の窓を縫い付けられた、白亜の宮殿。カルラに割り当てられた持ち場を見上げ、アレクは拳を握ったままゆっくりと息を吸い込んだ。この棟に入っているのは、一体どんな人々なのだろうか。いきなりユレシュにあたるほど簡単にはいかないだろうが、仲間の下に戻るためにも何かの手掛かりを見つけなければならない。

 まずはエントランスホール、正面のバルコニーに並ぶ逆さまの扉だ、アレクはバルコニーから伸びた半円形の階段を登り、右側の回廊を回って外に出た。外側のバルコニーは大きく弧を描いてUターンし、広場の石畳が頭の上にくる。二つ目の入り口からエントランスホールに戻り、アレクは床のアラベスクを見上げた。大丈夫だ。ここまでの道順は記憶通りに辿れている。ホールを横切る回廊からはいくつかの階段が伸びており、そのうち一番手前から右に出ているものが、下につながっている階段だ。階段は少しずつ左に曲がっており、赤い絨毯を踏みしめながら登ってゆくと、入口の向かいにある一番下のバルコニーに辿り着いた。足下には無数の階段と通路が走り、その奥には天井のフレスコ画が踊っている。随分と丸顔の、あれは天使達だろうか。窓から差し込み吹き抜けを貫く光の軸に目を細め、それからふと顔を上げると、そこに目指した扉があった。

 ワークブーツの底をくすぐる絨毯の毛羽立ちと、掌に張り付く手すりの冷たさ。つる草の影を被った、白い扉がゆっくりと近づいてくる。扉の前で立ち止まり、滑らかな光を放つノブにそっと手をかけて、アレクは大きく息を吸い込んだ。

 黄色いロープが視界に入り、一、二の三で肩を沈める。駄目だ。息を吸い損なった。これではしっかり伸びきれない。足を引き寄せ壁を蹴ると大粒の水音が頭と肩にのしかかった。掬び手に引き寄せられる、水鏡の冷たい輝き。早々に浮かび上がり、アレクは水をかき寄せながら大きく息を吸った。

 出だしは調子が良かったのに、どうも今日はツイていない。アレクはペースを落としたままプールサイドまで平泳ぎをして、ターンせずに上がってしまった。キャップとゴーグルを外して流しの縁にかけ、蛇口を空けるのは少しだけ。噴きあがるシャワーに目をあてがった。昼休みもそろそろ終わりだ。早く着替えないと、また隊長にどやされる。

 隊長。アレクはゆっくりと息を吸い、瞬きを試みた。目に当るざらついた痛みが体から遠ざかってゆく。隊長ということは、消防か、軍人か。科学者ほどではないものの、これは当たりかもしれない。

 そういえば。男は顔を上げ、強く蛇口を閉めた。モハメドが例の倉庫に出向いているのだ。密輸品の取り締まりで浮上した、ウスリー島の倉庫群。場合によっては、武力衝突も起こりうる。キャップとゴーグルを拾い上げ、男は歩き出した。

 ここまでくれば間違いない。男の素性が分かったところで、アレクは手足を宙に突っ張った。体から剥がれた感覚がうるさくぶれはじめ、男の下からしきりに飛び出そうとする。甲高いがたつきが極まったかと思うと、アレクはもうバルコニーにいた。

 保安局が見つかったのは、ありがたい誤算だった。機密に接する機会が多く、アレクやカルラを狙うかもしれない。壁を覆うつる草の影には、まだ二つの扉が残っている。この機会に、少しでも回っておくべきだろうか。アレクは次の扉に近づき、金色のノブをつかんで開け放った。

 

 降り注ぐ水音に、アレクは小さく目を開けた。赤く波打つ前髪越しに大理石を模したパネル。洗っても洗っても、なかなか匂いは落ちてくれない。前髪から滴り落ちる流れが、乳房の上を滑って、ざらついた床板に滔々と吸い込まれてゆく。

 シャワールームにいることに気付いて、アレクは引き返そうとした。偵察のつもりが、これでは単なる覗きではないか。女がバルブを閉め、ドアにかけたタオルを引っ張った。髪を叩き、二の腕を擦り、脇の下をなぞり、贅沢な肌触りは少しずつ降りてゆく。アレクは手を抑え込んだが、体は女から中々抜けてくれず、ついにタオルが辿り着くかと思われた、その時だった。

 フックにかけた無線機の中で、太い紐が切れる音がした。

「指令室、指令室。こちらモハメド、見つけました。コーヒーです。アルゼンチン産。日付も新しい。まず間違いなく、連中が持ち込んだものでしょう」

 湯煙に軽く滲む、無線機のランプ。赤い光は鋭く重くアレクの目に突きささる。アルゼンチンは西側の国だ。先ほど覗いた男が思い浮かべたのも、恐らくこいつらのことだろう。女は無線機を耳にはかけず、手に持ったまま話しかけた。こちら、シャワールームだ。

「よくやった。一旦離れて監視に移れ。3時までには我々も合流する」

 腹の底に沈み込む、冷たくて低い声。冗談さえも嘲けりに聞こえる程に。

「失礼いたしました。隊長。動きが確認でき次第、再度ご報告します」

 部下が生真面目に謝るのを聞いて、女は唇を歪めた。モハメド

「見せしめだ。徹底的に潰すぞ」

 生け捕りにするのは、一匹で十分だ。後は皆殺しにしても構わない。テロリストなど、母なるソビエトには存在しないのだから。女は通信を切り、赤い下着の上に黒いトレパンを履いた。引っ張られたキャミソールは二本の紐をぶら下げ、ドアの上から少しずつずり落ちている。

 テロリストは存在しない。かつてのアレクにとっても、それは真実だった。耳にすることはあっても、彼らは日々の暮らしから果てしなく遠い所にいたのだ。血なまぐさい台詞が木霊するうちにキャミソールはドアから剥がれ落ち、女は足で器用にそれを受け止めた。 だが、アレクはもう知っている。そのテロリストというのが、レフであり、班長であり、ラーニャであり、エカチェリーナであり、バトゥであり、コルレルであり、そして、ニコライであるということを。

 女は頭からキャミソールを被り、首の後ろで紐を結んで、洗濯物を手提げに詰め込んだ。鍵の外れる音は硬く、女の足音はひどく柔らかい。アジートで暮らしているのと同じ人々のところに、この歩みは向かっている。アレクは死に物狂いでもがき、影のバルコニーに辿り着いた。

 ニコライ達に知らせなければ、大変なことになる。