ふたり回し

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加担

ずるずると引き込まれるアレクであった。


 帰り道、アレクは脇目も振らずにひた走った。バルコニーを駆け抜け、階段を駆け降り、中庭を横切ってアラベスクの大広間へ。分厚い靴底が重い足音を立て、ツナギの金具が一斉に喚き散らす。夢の中にいるはずなのに息は次第に浅くなり、喉が乾いて強く痛んだ。カルラの話が正しければ、アジートの夜はまだ続いているのだろう。寝ているニコライを叩き起こして、果たして取り合ってもらえるかどうか。そもそも面会する権利がアレクにはないかもしれない。短い睨み合いの後、アレクは思い切り扉を開け放った。ニコライは無理でも、知り合いを捕まればなんとかなるかもしれない。

 飛び起きた。折りたたみベッドは硬く、背中には冷たいシャツが張り付いている。フットライトの黄色い灯りは壁の上に大きな影を投げかけ、目覚まし時計の窓を塗りつぶしている。ベッドを降りて時計を手に取り時間の位置を確かめると、午後13時27分。女の言った時間にも、まだいくらか余裕がある。Tシャツと短パンのまま、アレクは着替えもせずに部屋を飛び出した。

 側道はともかく、アジートの大通りは行き交う人で賑わっている。甘ったるいネオンや店からもれた黄色い灯りが、岩肌に木霊する、人々の怒鳴り声。アレク達が寝ているというだけで、アジートが夜になっているわけではないらしい。

 この様子なら。アレクは足を速めた。ニコライも起きている可能性がある。通りにはいつもと変わらぬ雑多な臭いが塗りたくられているにも関わらず、吐き気は少しも昇ってこない。時計屋の前を通り過ぎたところに銀色の隔壁があり、溝に足を取られぬようアレクは小さく飛び越えた。重たく響く足音は、銀色の天井に少しずつ染み込んでゆく。音がすっかり止んでからアレクは大きく息を吸い込み、合金の扉を叩いた。

「ニコライ、アレクだ! 夢を見た! ウスリー島の倉庫が国安に見つかったぞ!」

 痺れた拳を張り上げて、かすれた声を振り下ろす。ニコライ、ニコライ。何度も名前を読んでいると不意に隔壁が動き出し、アレクは拳をすかされて扉の間に倒れ込んだ。

「煩えな。インターホンを使いやがれ」

 ニコライは、分厚いテーブルの上で手を組んでいる。シャツ一面にプリントされたハイビスカスの赤が眩しい。

「それで? 何があった」

 アレクは絨毯に手をつき、立ち上がりながら答えた。

「寝てる間に、城を見て回ってたんだ。そしたら、軍人か何かに当って……」

 悪い報せに、ニコライは歯を見せて笑った。アレクが見つけた蜂の巣が、ニコライには蜂蜜に見えているとでもいうのだろうか。

「幸先いいじゃねえか」

 分厚い隔壁が閉じる、取り返しのつかない音がした。唾が粘つき、息が重い。

「でも、不味いことになってるんだよ。密輸品の倉庫が見つかって、そこで待ち伏せして、テロリストを襲撃するって」

 焼けついた言葉が、干からびた頭蓋骨にこだまする。あの女は、見せしめだと言っていた。このままでは多くの仲間が命を落とすことになるだろう。ニコライはデスクに聳えたまま、いまだに身じろぎ一つ見せない。切子の入った琥珀色の灯りに、アレクの訴えを透かしているのだ。細かな音を重ねながら、壁掛け時計の針だけが数字の上を進んでゆく。1時42分。3時までは1時間と少ししかない。

「――どこだ。その倉庫ってのは」

 ニコライが訊ね返したのは、秒針が三度廻った後だった。怖れ知らずのデタラメにも怒らず、アジートの一大事にもひるまない、穏やかで厳かな声。

「ウスリー島と言っていた。3時までに部隊が合流するとか」

 1時45分。横目で時計を窺ったアレクを、ニコライは溜息まじりに宥めた。

「どうせ夜中にしか開けねえよ。他に分かったことは?」

 密輸品。ウスリー島の倉庫。テロリスト。3時に合流。皆殺し。どぎつい言葉の隙間に、何か挟まってはいないだろうか。

「何かあったんだけど、何だったっけ……」

 アレクが目を瞑って天井を仰ぐと、答えは、俄かに降って湧いた。頬を打つ温かい雫、体を包む軽い水音。『指令室、指令室、こちらモハメド』。あの部屋で、女はシャワーを浴びていたのだ。

「そうか――おっぱいだ。隊長って呼ばれてたのは女だった」

 アレクが晴れやかに叫ぶと、サングラスの間に皺が寄った。不味い。これではからかいにしか聞こえない。テロリストの首領を相手に、一体どんな命知らずだ。

「フン、どうやら出任せじゃねえみたいだな……分かった。手は打つ」

 女の隊長に、心当たりがあるのだろう。見れば、両手の指が手の甲に深々と食い込んでいる。恨み言を幾つか零した後、ニコライはアレクに目を向けた。

「助かったぜ。また頼む」

 アレクは少し迷ってから、半分だけ答えることにした。

「礼はいらないさ。俺の方が世話になってるからな」

 ともかく、これで無駄な血は流れない。アレクは小さく片手を上げ、そそくさと執務室を後にした。

 その後アレクは部屋に戻ったものの、なかなか寝付けず朝を迎えた。目覚まし時計が鳴るのは、部屋に来た時と同じ6時半。実際は半日ずれていたわけだが、整備班にとっては朝である。レフに教えられたカフェでトーストをかじり、他人の真似をして金を払い、アレクは通りをのんびりと下った。狭い坑道を満たす悪臭も、三日目ともなると気にならない。ガレージについてみるとアレクは一番乗りのようで、新入りらしく掃除をするうち、仲間が一人、また一人とやってきた。

「どうしたんだい、アレクくぅ~ん。ホームシック? 彼女のことが心配? 大丈夫、大丈夫だって」

 レフはアレクの顔を見て、力任せに励ました。シャワーを浴びた時にひどい隈が出来ていたから、気を遣われても仕方がない。

「弱気になっちまうのは、楽しいことしてないからさ。よぉしよし、今日こそ俺が責任持って、よろしくないお店に連れてってあげようじゃないの」

『いい店』ではない辺りは流石レフというべきか。生返事を返し、アレクはボルゾイの傍を離れた。歩行脚のベアリングは、タイヤ立ての脇に置かれた大きな赤いボックスだ。不均等に力が掛かるので足の軸受は歪みやすく、予備のベアリングが腐るほど置いてある。場所によって径が違うので、間違えやすい部品の一つだ。

 ボルゾイは吊るされたまま、ゆっくりと宙を泳いでいる。心なしか、左後足の動きが鈍い。跨っていた先輩が降りると、班長が足場に登り、腰のプラグを抜いて備え付けのコンピュータに繋いだ。おかしいのは、制御系か、油圧か、サスか、軸受けか。直接操作しても足の動きは変わらず、一旦外す運びとなった。

「オイル洩れはないんスよね……バルブもちゃんと開閉するし」

 油圧制御装置に信号を送ると、磁石がコイルに引き寄せられる。磁石がポペットバルブと同軸のギヤを回転させ、空転用の回路が閉じ、出力側の回路が開く。信号が途切れるとスプリングで磁石が戻り、バルブが元に戻る。油圧制御装置にも問題は見当たらず、班長は軸受を調べた。

「アレク君、86mmのベアリング、くれるかな」

 当たりだ。アレクの手渡したベアリングと入れ替えに、班長は擦り減ったベアリングをよこした。内側のカバーが、見事に中心からずれている。念のために腰のサスを確かめダンパーのオイルを入れ替えると後足は無事に息を吹き返した。

 後はオイルの交換と、エンジンのチェックだけだ。車体底のジャックにバキュームのノズルを繋ぎ、アレクは手動コックを開けた。チューブの中をオイルが流れる音は深く、頼もしい。アキュムレータの圧力計が0になり、オイルの流れは止まったが、班長は支持を出さなかった。ガレージの入り口、巨大な地下ロータリーを背にして、ニコライが立っていたのだ。