ふたり回し

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手術

やたらと細かいシーンになってしまった。


「お待たせいたしました。こちら、季節のスイーツ、ビワのタルトでございます」

 皿がクロスの上を滑り、小さな波が浮き上がった。斜めに乗せられた半切りのビワがが、艶やかな光を放っている。ウェイターが去った後も、アレクはカルラがフォークに手を伸ばすのをじっと待っていたが、にらみ合いが続くばかりで一向に気配がない。しびれを切らしてビワをつつき、アレクはおもむろに頬張った。

「やっぱりうまいですよ。みずみずしくて、香りがふわっとして」

 答える代わりに、カルラはタルトの先をつついた。

「まあ、それで実験するうちに、分かったんでしょ? こめかみのところの、ブレーカー? ブローカー?」

 正しい名前を思い出せず、アレクは人差し指をばたつかせた。

「ブローカ野です」

 ため息交じりの一言。それでもカルラが応えたことには変わらない。

「同じバスに乗っていた女の子は、側頭葉の白質を部分的に切断されました。研究が始まった当初は、城は表象が記録された辞書のようなものだと考えられていたのです」

 辞書ですか。煮え切らない相槌に、カルラは小さくうなずいた。

「大脳の各部位に、それぞれ主だった役割があることはご存じですね」

 側頭葉の外側部には、対象を意味と結びつける機能がある。物体を視認したとき、単語を耳にしたとき、特定の表象を呼び出し、それが何であるかを知らせるのだそうだ。

「それで、その部分が意味に関係してるのは、城と繋がってるからだって、そういうことになったわけですね」

 だが、それは間違いだ。間違いを確かめるためだけに、一体何人が使い捨てられたのか。浮かない顔を見定めてから、カルラは小さく頷いた。

「言わずもがな、結果は失敗でした。彼女の世界からはリンゴと犬の区別が消え……意味のない文章を延々と語り続けるようになりました」

 部位を変え、手段を変え、ユレシュ達は虱潰し大脳を破壊し続けた。側頭葉が駄目なら帯状回を、切断が駄目なら電気刺激を。被験者は実験のたびに知性一部を切り取られ、消耗が蓄積すれば新たな被験者と交換される。膨大な記録とともに、犠牲者が積み上げられていった。

 救いのない結末に、返す言葉が見つからない。うなだれたアレクの目に、コーヒーが映り込んだ。暗い淀みの奥底で、際限なく絶望は膨らんでゆく。その上澄みに、他ならぬアレクの姿を映したまま。アレクは目でミルクのポットを探したが、その手が掴んだのはコーヒーカップの取手だった。

「そしてその実験は――」

 コーヒーを飲み干し、アレクは結果を確かめた。

「一人の被験者に辿り着くまで続けられた」

 まなざしの先に、果たして最初の一人がいた。そして恐らくは、最後の一人が。カルラはアレクを真っ直ぐ見つめ返したが、やがて首を横に振った。

「いえ。終わりはしませんでした。私が城を見つけたことで、彼らの研究は加速してしまった……私が受けたのと同じ手術が、百人近くに施された……」

 結果はやはり、惨憺たるものだったという。少なくない被験者が霧の海を見たのだが、その先に行けたのは結局カルラ一人だった。

「ブローカ野三角部、前頭前野ヘの投射を行うニューロンのうち、第3群及び第4群の軸索に70ミリボルトの電圧を1ミリ秒。霧の海に辿り着く、ほぼ唯一の航路でした。そこまで絞り込めていながら結果が出てこなかったのは、ひとえに被験者の個体差のためです」

 カルラは瞼を閉じ、両手を強く組み合わせたが、決して祈りはしなかった。党に利用されるがまま、神が怒りもしないことを、思い知っているからだ。

「と、どうなったんですか……その人たちは、その後」

 研究所は全焼。生存者は一人もおらず。分かっていることなのに、尋ねずにはいられなかった。知らず知らず掴んだカップは、既に底を晒している。

「半数以上の被験者は言語機能に大きな障害を受け、4文節以上のロシア語が理解できなくなりました。確かなことはわかりませんが、他の研究所に引き取られていったと聞いています」

 そこまで話すと、カルラは小さく息をついた。諦めをはらんだ、重く、熱く、苦い溜息。漸く開いた扉の奥には、遥かに長い沈黙が伸びている。そして。カルラは小さく両手の陰で呟いた。

「残った仲間たちも、次々と犠牲になりました。ほとんどは霧の海を彷徨い続け――」

 カルラの言葉が、とうとう壁に突きあたった。こめかみを伝う汗が、冷たい光を放っている。話に割り込むわけにもいかず話の続きを待っていると、雲間から太陽が覗いた。真っ白な光の上に焼き付いた格子の影は、硬く、冷たく、重々しい。わななく唇を固く結んでから、カルラはアレクを強く見据えた。

「――違います。私が彼らを欺いたのです。風下に出口があると、ユレシュ達の指示通り」

 格子の影を背負ったまま、カルラは低い声で続けた。恐らくは、これ以上取り乱さないために。

「霧の海は、通過点に過ぎません。全ての実験は、二人目、三人目を城に送り込むために行われました。霧の海から逃がすどころか、私は仲間を霧の奥へと誘い込み……彼らは誰一人、夢から帰ってこなかった」

 耐えきれなくなったカルラは、今度は逆に仲間達を追い返すことにした。おかげで何人かの被験者は目を醒ましたそうだが、戻って来た者たちはやはり大きな後遺症を負っていたのだという。

「後遺症? まさか、この間の?」

 カルラが倒れたのは、単なる過労のせいではない。アレクの知らない何かが、カルラの意識を蝕んでいるのだ。重たい目が眼窩に沈みこみ、苦い唾が喉を降りてゆく。

「二年ほど前からです。扉に入ったとき、相手に引っ張られてしまうようになって――」

 アレクの表情に気づいて、カルラは手を振った。

「そう深刻そうなお顔をなさらないでください。あんな状態になるのはよほどの無理をした時だけですし、休み休み続ける分には何の心配もありません」

 格子の下を、水鳥の影が滑った。呪いの届かぬ空の彼方へと、軽やかな羽音が消えてゆく。河の向うに広がる清潔な街並みを見やり、それからアレクもぎこちなく笑った。

「大丈夫ですよ。カルラさんの分も、俺が頑張りますから」

 さあ、これ食べたら、映画でも見に行きましょう。アレクは再びタルトをつつき出した。