ふたり回し

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実験

ようやくSFっぽい感じになる今回。

ここから勢いに乗りたいなぁ……


 ブレスレットが、カルラについていない。浮足立つアレクに、カルラは涼しい顔で答えた。

「家に置いて来たんです。着けていても面倒なだけですから」

 そんな。アレクは身を乗り出し、テーブルに手をついた。

「置いて来たって、置いてきちゃったんですか? 面倒なだけで?」

 ティーカップの陰に隠れ、カルラは目を瞬かせている。

「何も聞いていないのですか? 周りの人から」

 ここ数日、次々に事実を見せつけられてきたが、まだまだ弾は尽きないらしい。アレクが聞き返すと、カルラは遠慮がちに答えた。

「街の人のような対応をされたので、逆に少々驚きました……そう、今まで話題に上ることがなかったのですね」

 カップの中に息を吐き出し、それからカルラはアレクに眼差しを突きつけた。艶やかな黒髪が、格子の影に沈んでいる。

「アレクさん。私たちは、天使などではありません」

 黒々と燃える瞳に、嘘の影は映っていない。カルラの言葉は真実なのだ。アレクには思いつかない、何かしらの形に於いて。

「そんな、天使じゃないって言ったって、天使じゃないですか」

 行き先を見失った言葉が、前提の上でたたらを踏んだ。ブレンドは置き去りにされたまま、格子の影を映している。カルラはコーヒーカップを指さし、アレクが口をつけるのを待った。

ソビエトに於ける天使とは、粉飾された支配階級に過ぎません」

 昔々に倒された、おとぎ話の怪物だ。党が一から作り直した急ごしらえの天国に、そんなものが入り込む隙間が残っているだろうか。アレクは首を傾げ、カルラの目を覗きこんだ。

「階級って……どんだけ昔の話ですか」

 アレクの知っている限り、世の中は平等に出来ている。寝床と食事は確保されていたし、多少の色はつくことがあっても、皆が同じ配給券をもらっていた。アジートの中の方が、よっぽどに不公平だ。

「そう思っていられたのは、思いこまされていたからです。人間は人間、天使は天使……元は同じ人間を、テストで選別しただけなのに」

 格子の間から差し込んだ光は、カルラを容赦なく押しつぶした。モノトーンの縞模様がワンピースの背中に冷たく焼き付いている。

「もう十分騙されたと思ってたけど、まだ続きがあったのか」

 溜息一つで済ませたアレクを、カルラは上目遣いで覗きこんだ。

「最初にお話するべきでしたね。結果として、アレクさんを騙し続けることになってしまった……本当にごめんなさい」

 カルラの言い方では、いくらなんでも大仰に過ぎる。アレクは背もたれから起き上がり、テーブルに身を乗り出した。

「そんな、騙しただなんて。別にわざとじゃないんだし、それに実際、天使様が蘇らせてくれたじゃないですか。死者の国で、彷徨ってた俺を」

 二人の眼差しが近づき、テーブルの上で繋がった。瞳の奥から、真っ直ぐに熱が伝わってくる。

「ありがとう。そう言って下さるのですね、まだ」

 カルラの笑顔に、いつもの陰はない。

「でも、天使様は止めてください。今の私は――いえ、アレクさんの前では、ただのカルラでいさせてください」

 誰かさんにはすっかり、お株を奪われてしまいましたからね。不平まじりに持ち上げられて、アレクは簡単に舞い上がってしまった。

「たまたまですよ、たまたま。天使様が――」

 カルラの目つきがやけに重たい。言いかけた台詞を飲み込み、アレクは譲ることにした。

「カルラさんが教えてくれた場所が、丁度当たりだったんです」

 雲が出てきたのだろうか。格子の隙間へと、逆光が吸い込まれていく。後に残った暗がりには、澄まし顔のカルラがいた。

「いえいえ、どういたしまして。これからも、お互い頑張っていきましょう」

 小さく笑って応えると、カルラは藪から棒に尋ねた。

「タルト……」

 手のひらほどのポップを、細い指がくるりと回した。季節のタルト、6月の間は、ビワがのっているらしい。

「アレクさんは、召し上がりますか? ビワのタルト、今だけみたいですよ」

 これをのがすと、果物にあたる機会はしばらく巡ってこないだろう。一も二もなく、アレクは頷いた。

「勿論! 久し振りに、俺もフルーツ食いたくなってきました」

 アレクはベルを鳴らし、それから漸くコーヒーにありついた。幾分冷めてしまっているが、マンダリンの香りは色褪せない。二人はタルトを待ちながら遠慮がちに話し始め、やがて話は子供時代に及んだ。

「……それが、違うみたいなんですよね。子供の頃は、親と一緒に暮らしてた筈だって。そんなこと言われても、やっぱり仲間達が一緒だった気がするし」

 アレクは視線を落とし、カップの底を見つめた。茶色い上澄みの奥が見通せたところで、そこには濁った澱しかない。

「その人の言うことが、正しいと思います。アレクさんの年周りなら、党の改革が行われたのは物心がついた後。私も子供時代には、両親と暮らしていましたから」

 そこまで話すと、カルラはポットから紅茶をつぎ足した。カルラにいたということは、アレクにも家族がいたのだろうか。塗りつぶされた面影がコーヒーに浮かぶのをじっと待ち続けるうちに、アレクはあることに気が付いた。

「カルラさんは、記憶を書き換えられなかったんですか?」

 紅茶に口をつけてから、カルラはこともなげに答えた。

「それは、天使の特権の一つです。覚えているといっても、朧げな記憶ですが……物心ついてすぐ、私は党に引き取られたのです」

 引き取られたその続きを、アレクは既に知っている。唯一の成功例、エッシャーの城を見つけた者。日焼けした記事の中で、Э(エー)と呼ばれていた少女。

「カルラさん、訊いたことなかったけど……」

 冷え固まった顔を見て、カルラは紅茶を飲み干した。謎めいた気配が解けた分、厳しさが際立っている。

「一度お話しておくべきでしょう。今後、調査を進める上でも知っておいていただきたいことです」

 静まり返った陰の中で、カルラは記憶を手繰り寄せた。病院のリハビリ室に集められた子供たち、森の中を走り続けるバス、鉄条網に囲われた真っ白な研究所。

「被験者は、過去の病歴のみならず、家系についても念入りに調べられていたようです。私の場合、祖父がシャーマンだったことが選出された理由でした」

 黒髪を与えたのは、遠い遊牧民の血か。相槌を打つ合間に、アレクは問いかけた。

「ええ。半分だけですが、私の中にはネネツの血が流れています。それも、霊界を覗き込む、霊媒師の血統が」

 見慣れた何かが一瞬だけ与太話を横切るのを、アレクは決して見逃さなかった。

「霊界を……覗き込む?」

 それが何かを、アレクは体で知っている。遠い汽笛が鳥かごを震わせ、いらぬ言葉を退けた。

「お察しの通り。ユレシュが探していたのは、城への入り口です」

 霧の海を初めて見たとき、あの世としか思えなかった。霊媒師が同じように城の近くを通っていても、なんらおかしいことはない。アレクの顔つきを確かめ、カルラは続けた。

「無論ユレシュは、城を霊界と考えたわけではありません。後から調べたことですが……当時ユレシュの関心は、変性意識状態に向けられていたようです」

 城のことならいくらか聞かされたが、心理学となるとアレクにはさっぱりだ。

「変性? 頭がイカれたってこと? ですか?」

 素直に首を傾げると、カルラの目は僅かにしぼんだ。

「そう思う人もいるかもしれませんが、変性意識状態というのは、突発的なものです。通常の意識が途絶して、無意識が表面化した状態。それが変性意識状態への古典的な解釈でした」

 ところが、ユレシュはそう考えなかった。むしろユレシュは、なぜ人間が同じ意識を繋げるのか、正常な状態を疑った。カルラの語る心理学史に、アレクは少しずつのめり込んでゆく。

「確かにユレシュの理屈なら、誰でもコロコロ他人の体に入る羽目になりそうだ。ちょうど俺たちが、扉に入るみたいに」

 小さくうなずき、カルラが答えた。ですから。

「意識と体を一致させる何かしらの役割を、何かが持っているわけです」

 その機能を失うことが、変性意識状態、憑依と呼ばれる現象なのだ。カルラとともに集められた大量の被験者は、病歴あるいは憑依の実績を持っていた。

「ユレシュはそうした人間を集め、様々な実験を重ねました。催眠や暗示、脳波の測定は幸運な部類です。何しろ中身を触っていない」

 カルラは俯き、冷え切った息を流した。こめかみを伝う汗は決して暑さのせいではない。肩を落とし、黒い瞳を伏せたまま、カルラは言葉を探している。体を伸ばして紅茶をつぎ、諫めようとしたところに、ウェイターがやってきた。