ふたり回し

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既視

漸く進展する調査。

ここから先、ようやくSFらしい感じになってきます。


 二人はいつもと同じように、イポリートの張り込みを始めた。カルラも持ち直しつつあるが、今夜も一番手はアレクが務める。オレンジ色の扉を開けると、そこは見慣れた執務室だ。壁一面の窓からは、カベルネの赤に染まる空と、黒く切り抜かれたビルが見える。街の明かりはまばらに咲き始めたばかりで、夜景と呼ぶには心もとない。

 柱時計が時を刻む、まめまめしく聡い音。実に穏やかな、ハバロフスクの夕暮れ時。溜息を洩らしそうになり、アレクは思いとどまった。違う。これはアレクではない。イポリートなのだ。

 イポリートは相変わらず移住計画と宅地開発の段取りにかかりっきりで、アレクのこともユレシュのことも、名前さえ出てこない。

 コーヒーカップをソーサーに戻し、イポリートは未読の企画書を手に取った。カベリニ島とハバロフスクを結ぶ、3連続旋回橋の建設プラン。開通すれば、不便な温泉地が都心の高級住宅地に様変わりする。モスクワの延命策と比べれば、何倍も将来性のある投資だ。こうしたアイデアが下から上がってくるのは、頼もしいことでもあり、また用心すべきことでもある。

 読み終わった企画書を別のファイルに移し、アレクは革張りの椅子に沈み込んだ。デミタスと革の香りが染め上げる特等席に、硬いノックの音が響いた。

「局長、失礼します」

 ユーリだ。この時間に、秘書以外が訪れるとは珍しい。

「入りたまえ」

 扉が開き、見慣れた男が入って来た。ダークブルーのスーツに、黒いシャツと銀色のネクタイ。凡そ医療部の役員らしからぬ服装が、彼の出自を物語っている。

「行政局長につきましては、ご機嫌麗しゅう。大学病院を修復して頂いた件で、一つお礼をと思いまして……」

 ユーリは頭を下げ、紙袋を差し出した。今日の手土産も、例年通りフルーツゼリーの詰め合わせなのだろう。箱は小さいが、手に取るとしっかりとした手ごたえがある。この時期のお茶請けには、まさにうってつけの品だ。

「……頼み事は、上手くいっているかね?」

 ゼリーの箱を睨んだまま、イポリートはぞんざいに尋ねた。オレンジ色の明かりが、水色の包装紙に浮かび上がる。

「残念ながら。ですが、脳の質量と刺激時間の関係は徐々に絞り込めつつあります……」

 刺激時間。カルラも店で口にしていた。イポリートは、やはり今でもユレシュにつながっているのだろうか。ちらついたユレシュの影に、アレクはじっと耳を澄ませた。刺激とは、電気刺激のことか。刺激したのは、ブローカ野なのか。一体どこで、誰が実験を行っているのか。

 一週間待ち続けた、たった一つの手がかりは、しかし、それ以上近づいては来なかった。お小言を貰う前に、ユーリが先手を打ったのだ。

「あまり長居しても、怪しまれますから」

 人影は踵を返し、藪の奥へと逃げてゆく。それを追いかける理由が、アレクにあってもイポリートには全くない。イポリートは目前で、あっさりユーリを逃がしてしまった。

 結局手元に残ったのは、ユーリという男と、実験が続いている可能性だけ。本当なら十二分の筈の釣果が、逃した魚の前ではあまりにも小さい。すごすごと帰ろうとするアレクをよそに、イポリートはおもむろにゼリーの包装紙を破いた。ボール箱の中には、9つのフルーツゼリーが入っている。ピューレを惜しまず練り込んだ、贈答用の品だ。品定めをするでもなく早々に中身を取り出すと、イポリートは台紙の縁に爪をかけ、ぎこちなく引き抜いた。

 ホチキスで止めただけの、真っ白な小冊子。オハからの進歩報告だ。8年前灰となった実験結果に追いつくだけで、最初の5年を費やした。測定の精度を上げ、新たな実験を始めてから早3年、成功の兆しはまだ見えない。進歩というには、余りにも遅々たる歩み。片手でページをめくり、時間と質量の散布図を眺めながら、イポリートはコーヒーの苦味を確かめた。

 間違いない。ユレシュの実験だ。ユレシュが行っていた血なまぐさい実験の続きが、そこでは行われている。ユーリ、そしてオハ。たった二つの名前を、アレクは何度も繰り返した。これだけは、是が非でもカルラの下に持ち帰らなければならない。

「やはり……」

 被験者側の問題が大きい。適性の高い被験者が、もう連邦内には残っていないのだ。情けない話だが、現状期待できるのは例の男くらいのものか。イポリートは冊子を閉じ、ゼリーを箱に戻していった。

「クラーラ、手土産にゼリーを貰った。冷やしておいてくれ。ついでに、新しいコーヒーを頼むよ」

 アレクが急いで戻ってくると、カルラは扉の前で待っていた。吹き抜けに満ちた薄闇の中、艶やかな黒髪は深い光を滲ませる。

「何かあったんですか? 血相を変えて」

 カルラは手すりから立ち上がり、アレクに歩み寄った。

「カルラ様、やりました。イポリートはやっぱりクロでしたよ」

 イポリートがユレシュの実験を再現していること、ユーリという男が連絡役を務めていること、そして実験が、オハの施設で行われていること。額の汗を拭いながら、アレクは成果をカルラに伝えた。

「オハ? サハリンに医学系の研究機関はなかったと思いますが……これは起きている間に調べた方が早そうですね」

 病院や研究所のことなら、カルラの方が何倍も明るい。最初から狙いをつけて、城の探索も進めていたはずだ。

「じゃあ、それはカルラ様にお任せします。で、ユーリの方は俺が探すと」

 アレクが歩きだそうとすると、細い指が手首を掴んだ。

「今日は私も探します。お陰様で、随分調子が戻りましたから」

 無理しないでくださいよ。アレクたちは階段を下りて、一本ずつ他の階段にあたった。階段の突き当りに待ち受ける扉の中はいずれも行政局の秘書官であり、ラベンダー風呂に浸かったり、恋人と飲みに出かけたり、めいめいの夜を楽しむばかりだ。自分の上司が密かに進める計画など露知らず、仕事のことを思い出した時でも、会議の下準備やら、

外出のスケジュールやら、表向きの用事しか出てこない。捻じれた廊下の周りを一通り調べ終わり、カルラはとぎれとぎれに尋ねた。

「突き当りの階段――あそこから上は――もう調べましたか?」

 アレクが手を振ると、カルラは再び階段を見やった。左上に伸びた階段は左の壁際まで続き、細い通路に吸い込まれている。二人は縦に並んで通路に入り込むと、暗い通路の奥、うっすらと差し込んだ光を見つけた。

「あの右側って、外じゃないですよね」

 両手を壁についたまま、アレクは通路を進んだ。

「宮殿の下側、螺旋階段のある方向ですよ……その先には、私の調べていた区画があります」

 ああ、学者さんの? アレクはカルラを振り返ったが、頭をどちらに振ったのか見極めるには暗すぎる。ただ一つ明らかな答えは、細腕がわき腹に伝えた。いいから前に進んでくださいというわけだ。過度の向うは、小部屋か大広間か。推されるままに角を曲がり、アレクは咄嗟に目をかばった。光だ。

「広い、アレクさん、大当たりです」