ふたり回し

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俺は死を選ぶぞ! その3

修羅道に走るCタケ。

彼を止めるものとは……


 俺はナプキンの袋を睨み付け、じっくりと間合いを測った。

 何も恐れることはない。

 向いの売り場を見て分かった。

 これはおむつだ。おむつに過ぎない。

 別の言い方をすれば、紙に覆われた吸水ポリマーだ。

 ためらうな、掴み取れ。

 これまでも戦って来たではないか。

 IBの、源の、紗恵さんのプレッシャーは、この程度ではなかったはずだ。

 通りの賑わいはいつの間にか色あせ、俺とナプキン以外の全てが広い余白になっていた。

 阻むものはない。

 なんだ、掴み取るだけか。

 この袋を、買い物かごに入れるだけ。

 簡単だ。

 簡単なことだ。

 俺の手はおのずから、ナプキンの方へと流れてゆく。

 掌がビニールに触れる、たやすい感触。

 意思の力などではない。

 他人がやっていることを、ぼんやり眺めているみたいだ。

 空っぽな世界の中で、感覚だけが研ぎ澄まされてゆく。

 ビニールのパックに5本の指が僅かに食い込み、クリーム色の棚から引っ張り出した。

 介護用おむつも軽かったが、これはそれよりもっと軽い。

 掌を翻し、軽く手を広げると、ナプキンの重みが離れていつの間にか買い物カゴに加わっている。

 なんだ。

 こんなものか。

 散々二の足を踏んでいた割には、少し味気ないくらいだ。

 俺はおむつ売り場を離れ、バファリンを探し始めた。

 ここまで飲み薬のコーナーはなかったから、化粧水の反対側にあるのだろう。

 レジよりも、表の方が近い。

 間抜け面で立ち尽くした少女たちの前を横切り、俺は反対側の筋に入った。

 何事もないのに大きく目を剥いて、なんだか馬鹿みたいだ。

 ここは花粉症。

 ここは胃薬。

 ここは風邪薬。

 あった、頭痛薬だ。

 おれは買い物カゴにバファリンを加え、そのままレジの列に並んだ。

 一人。

 二人。

 前の客が清算を終え、俺の番が回ってくる。

 カウンターにカゴを置いたのだが、なぜか店員はバーコードを読もうとしなかった。

 何やらしきりに、カゴの中と俺の顔を見比べている。

 学生バイトにしても、随分とトロい店員だ。

 まだ春先だから、研修が明けたばかりなのかもしれない。

「あの、待ってるんですけど」

 俺が急かすと店員は謝り、そそくさと清算を終わらせた。

 なんだ、やればできるではないか。

 一瞬見直しかけたが、それは間違いだった。

 差し出した手を無視して、おつりをトレイに乗せて返したのだ。

 俺は抗議を差し控えたが、世の中は良心的な客ばかりではない。

 この店員は遠からず、大目玉をくらう羽目になるだろう。 

 それも所詮は他人事か。

 俺はさっさと忘れることにした。

 過酷なお使いは、まだ半分以上残っているのだ。

 店を出ると、通りの賑わいが一気に押し寄せてきた。

 散発的なおしゃべり、緩慢な雑踏の流れ、氾濫する服の彩り。 

 どうやら、ここは、元の世界のようだ。

 アーケードの天井を見上げ、俺は大きく深呼吸した。

 五感の焦点が、少しずつ定まっていく。

 今のは一体、何だったのだろうか。

 五感は希薄なのに、意識は限りなく明晰だった。

 体から精神が乖離して、離れて行ってしまうかのような。

 得体のしれない、あの感覚を反芻しようとするうちに、ある言葉が意識を掠めた。

 ゾーン。

 極限状態におかれたアスリートが、脳の処理能力を完全に開放した状態。

 意識からフェードアウトする背景、引き伸ばされる時間の流れ。

 間違いない、ゾーンに入った時の典型的な体験だ。

 トップアスリートでもなかなかたどり着けない境地に、労せず到達してしまうとは。

 つくづく自分の才能が恐ろしい。

 ビニール袋の持ち手を俺は強く握りしめた。

 自分の力を確かめるように、見えない何かを掴み取るように。

 今の感覚だ。

 今の感覚を自在に引き出すことができれば、試合に役立つかもしれない。

 きっかけは最悪だが、これは予想外の成果だ。

 Kよ、礼を言わせてもらうぞ。

 一体どんな顔をして、と俺はお前に尋ねたが、あれがその答えだ。

 穏やかに、凛々しく、迷いを捨て去った静寂の極致。

 覚醒した今の俺には、もはや恐れるべきものなど何もない。

 もう一つの成果を手に、俺は再び歩き出した。

 それにしても、下着の店はどこにあっただろう。

 見慣れている筈なのに、いざとなると思い出せない。

 興味のない店というものは、やはり頭に残らないようだ。

 男で覚えているのは、前を通る度にチラ見してしまうような俗物くらいのものだろう。

 ビニール袋を下げたまま、俺は商店街を見渡した。

 行き交うリア充ども、メニューを書いた立て看板、そして散在するマネキン。

 見えた。

 下着姿のマネキンが、ポーズをとって通行人を誘惑している。

 

 ランジェリーショップは、ドラッグストアとはわけが違う。

 オタクが一人で、ランジェリーショップ。

 買い物どころか、入店できるかどうかさえ怪しい。

 あのピンク色の空間には、計り知れない困難が待ち受けているだろう。

 結び目だらけのショーツを履いた真っ黒なマネキンを見据え、しかし、俺は平静を保っていた。

 紛れもなく、右手に下げたナプキンのお陰だ。

 ナプキンは買えた。

 最初は絶対無理だと思ったにも関わらずだ。

 パンティーとて同じこと。

 壁の高さが段違いだろうが、同じように踏み台にしてやる。

 既に一線を超えてしまった俺を、この程度の障害で止められるものか。

 俺は軽く笑い、目を閉じて鼻から息を吸い込んだ。

 さっきドラッグストアで体験した、あの感覚を思い出すために。

 大したことはない。

 適当にパンティーを選んで、レジに持って行けばいい。

 それだけだ。

 簡単なことだ。

 さて。

 店に、入るか。

 ランジェリーショップに向かい、俺は悠然と通りを横切った。

 雑踏が、雑音が、遠くに退いていく。

 この体は、なんと軽いのだろう。

 この世界は、なんと広いのだろう。

 凡人どもよ、見るがいい。

 こんなにも清々しく穏やかな気持ちで、俺はパンティーを買い求めることができるのだ。

 俺の常識は、臆見に過ぎなかった。

 俺の予感は、間違ってはいなかった。

 

 マネキンの横を通りすぎ、俺は一歩を踏み入れた。

 ランジェリーショップには、壁などない。

 ためらいの向うには、何も立ちはだかってはいなかったのだ。

 解き放たれた俺の肩を、しかし、誰かの腕が捉えた。

 無駄なことは止めておけ。

 俺は自由なのだ。

 今なら俺は自分の足で、どこまでだって歩いてゆける。

 俺を留めておくことはこの世の誰にもできはしない。

 俺は手を払いのけ、憐れみをこめて女を見つめ返した。

 

「申し訳ないのですが、当店に男性用の商品はありません」