修羅道に走るCタケ。
彼を止めるものとは……
俺はナプキンの袋を睨み付け、じっくりと間合いを測った。
何も恐れることはない。
向いの売り場を見て分かった。
これはおむつだ。おむつに過ぎない。
別の言い方をすれば、紙に覆われた吸水ポリマーだ。
ためらうな、掴み取れ。
これまでも戦って来たではないか。
IBの、源の、紗恵さんのプレッシャーは、この程度ではなかったはずだ。
通りの賑わいはいつの間にか色あせ、俺とナプキン以外の全てが広い余白になっていた。
阻むものはない。
なんだ、掴み取るだけか。
この袋を、買い物かごに入れるだけ。
簡単だ。
簡単なことだ。
俺の手はおのずから、ナプキンの方へと流れてゆく。
掌がビニールに触れる、たやすい感触。
意思の力などではない。
他人がやっていることを、ぼんやり眺めているみたいだ。
空っぽな世界の中で、感覚だけが研ぎ澄まされてゆく。
ビニールのパックに5本の指が僅かに食い込み、クリーム色の棚から引っ張り出した。
介護用おむつも軽かったが、これはそれよりもっと軽い。
掌を翻し、軽く手を広げると、ナプキンの重みが離れていつの間にか買い物カゴに加わっている。
なんだ。
こんなものか。
散々二の足を踏んでいた割には、少し味気ないくらいだ。
俺はおむつ売り場を離れ、バファリンを探し始めた。
ここまで飲み薬のコーナーはなかったから、化粧水の反対側にあるのだろう。
レジよりも、表の方が近い。
間抜け面で立ち尽くした少女たちの前を横切り、俺は反対側の筋に入った。
何事もないのに大きく目を剥いて、なんだか馬鹿みたいだ。
ここは花粉症。
ここは胃薬。
ここは風邪薬。
あった、頭痛薬だ。
おれは買い物カゴにバファリンを加え、そのままレジの列に並んだ。
一人。
二人。
前の客が清算を終え、俺の番が回ってくる。
カウンターにカゴを置いたのだが、なぜか店員はバーコードを読もうとしなかった。
何やらしきりに、カゴの中と俺の顔を見比べている。
学生バイトにしても、随分とトロい店員だ。
まだ春先だから、研修が明けたばかりなのかもしれない。
「あの、待ってるんですけど」
俺が急かすと店員は謝り、そそくさと清算を終わらせた。
なんだ、やればできるではないか。
一瞬見直しかけたが、それは間違いだった。
差し出した手を無視して、おつりをトレイに乗せて返したのだ。
俺は抗議を差し控えたが、世の中は良心的な客ばかりではない。
この店員は遠からず、大目玉をくらう羽目になるだろう。
それも所詮は他人事か。
俺はさっさと忘れることにした。
過酷なお使いは、まだ半分以上残っているのだ。
店を出ると、通りの賑わいが一気に押し寄せてきた。
散発的なおしゃべり、緩慢な雑踏の流れ、氾濫する服の彩り。
どうやら、ここは、元の世界のようだ。
アーケードの天井を見上げ、俺は大きく深呼吸した。
五感の焦点が、少しずつ定まっていく。
今のは一体、何だったのだろうか。
五感は希薄なのに、意識は限りなく明晰だった。
体から精神が乖離して、離れて行ってしまうかのような。
得体のしれない、あの感覚を反芻しようとするうちに、ある言葉が意識を掠めた。
ゾーン。
極限状態におかれたアスリートが、脳の処理能力を完全に開放した状態。
意識からフェードアウトする背景、引き伸ばされる時間の流れ。
間違いない、ゾーンに入った時の典型的な体験だ。
トップアスリートでもなかなかたどり着けない境地に、労せず到達してしまうとは。
つくづく自分の才能が恐ろしい。
ビニール袋の持ち手を俺は強く握りしめた。
自分の力を確かめるように、見えない何かを掴み取るように。
今の感覚だ。
今の感覚を自在に引き出すことができれば、試合に役立つかもしれない。
きっかけは最悪だが、これは予想外の成果だ。
Kよ、礼を言わせてもらうぞ。
一体どんな顔をして、と俺はお前に尋ねたが、あれがその答えだ。
穏やかに、凛々しく、迷いを捨て去った静寂の極致。
覚醒した今の俺には、もはや恐れるべきものなど何もない。
もう一つの成果を手に、俺は再び歩き出した。
それにしても、下着の店はどこにあっただろう。
見慣れている筈なのに、いざとなると思い出せない。
興味のない店というものは、やはり頭に残らないようだ。
男で覚えているのは、前を通る度にチラ見してしまうような俗物くらいのものだろう。
ビニール袋を下げたまま、俺は商店街を見渡した。
行き交うリア充ども、メニューを書いた立て看板、そして散在するマネキン。
見えた。
下着姿のマネキンが、ポーズをとって通行人を誘惑している。
ランジェリーショップは、ドラッグストアとはわけが違う。
オタクが一人で、ランジェリーショップ。
買い物どころか、入店できるかどうかさえ怪しい。
あのピンク色の空間には、計り知れない困難が待ち受けているだろう。
結び目だらけのショーツを履いた真っ黒なマネキンを見据え、しかし、俺は平静を保っていた。
紛れもなく、右手に下げたナプキンのお陰だ。
ナプキンは買えた。
最初は絶対無理だと思ったにも関わらずだ。
パンティーとて同じこと。
壁の高さが段違いだろうが、同じように踏み台にしてやる。
既に一線を超えてしまった俺を、この程度の障害で止められるものか。
俺は軽く笑い、目を閉じて鼻から息を吸い込んだ。
さっきドラッグストアで体験した、あの感覚を思い出すために。
大したことはない。
適当にパンティーを選んで、レジに持って行けばいい。
それだけだ。
簡単なことだ。
さて。
店に、入るか。
ランジェリーショップに向かい、俺は悠然と通りを横切った。
雑踏が、雑音が、遠くに退いていく。
この体は、なんと軽いのだろう。
この世界は、なんと広いのだろう。
凡人どもよ、見るがいい。
こんなにも清々しく穏やかな気持ちで、俺はパンティーを買い求めることができるのだ。
俺の常識は、臆見に過ぎなかった。
俺の予感は、間違ってはいなかった。
マネキンの横を通りすぎ、俺は一歩を踏み入れた。
ランジェリーショップには、壁などない。
ためらいの向うには、何も立ちはだかってはいなかったのだ。
解き放たれた俺の肩を、しかし、誰かの腕が捉えた。
無駄なことは止めておけ。
俺は自由なのだ。
今なら俺は自分の足で、どこまでだって歩いてゆける。
俺を留めておくことはこの世の誰にもできはしない。
俺は手を払いのけ、憐れみをこめて女を見つめ返した。
「申し訳ないのですが、当店に男性用の商品はありません」