連休のお陰で復調気味かな。
「おいおい! そんなこと急に言われても――」
しまった、声が大きすぎた。
俺は辺りを見渡してから、Kに尋ねた。
「ほ、他に頼れる奴はいないのか? トイレなら他にも女がいるだろ」
頭痛薬はともかく、生理用品は危険すぎる。
レジに持って行った時点で、完全に不審者ではないか。
「アホか! 人に知られるくらいやったら死んだ方がマシや!」
人に知られるくらいだと。
お前の生理を知られることと、俺が生理用品を買うことと、一瞬でも天秤にかけてからものを言え。
いや、天秤にかけるまでもない。
天才と糞ビッチ、どちらが尊重されるべきかは、誰の目にも明らかだ。
「貴様、俺にだけ恥を――」
そのとき、背後から何かが聞こえた。
さっきのカップルだ。
冷ややかに俺を見つめ、何やら囁き合っている。
クソ、覚えていろ。
俺は横道に引き返し、もう一度Kに尋ねた。
「って、それこそお前男連れじゃねーか。当の彼氏に――」
「無理! 絶対無理っ!」
凄まじい勢いで俺を遮り、Kは早口にまくしたてた。
「どう考えてもそれが最悪やろ! 少しは考えんかい!」
役立たずめ、何のための彼氏だ。
人様に迷惑がかからないよう、コイツのお守りをするのがお前の仕事ではないか。
一体何の負い目があって、俺がコイツの尻拭いをせねばならんのだ。
「考えろって、お前こそ自分の体面ばかり気にしやがって! お前こそ考えてみたのか! 俺が一体どんな顔して生理用品をレジに持って行くのか!」
俺の正論に、Kは何も言い返さなかった。
その代わりに返って来たのは、小刻みな笑い声だ。
「想像した……ちょっと元気出たわ」
Kめ、覚えていろ。
俺が通報されるか否かの瀬戸際だというのに、他人ごとだと思って笑いやがって。
「……それで? SOGO二階のトイレに行けばいいのか?」
そうだ、何も俺が恥を書くことはない。
人の善意に期待すればよいではないか。
ツイッターで拡散すれば、三ノ宮で買い物をしているお人好しの目に留まるかもしれないな。
零れた笑みを片手で覆い、俺はKの返事を待った。
「……お前、何か企んどるやろ」
コイツ、まさか俺の顔が見えているわけではあるまいな。
俺の反撃を先回りして、Kは釘を刺して来た。
「ええか? もし誰かに話したら……そのときは」
無視すればいいものを、思わず聞き返してしまう。
「そ、そのときは?」
Kの声は重く、冷たく、陰に鈍い光を放った。
「……楽に死ねると思うなや」
畜生。
返事の代わりに悪態をつくと、Kは最高に余計なことを思い出した。
「あ、そや。替えのパンツ、忘れんと持ってきてや」
最後の最後に、一番深刻な案件が待っていた。
通報どころの話ではない。
下手をすれば、二度と三ノ宮の街を歩けなくなってしまう。
「やめろ! それだけはだめだ! やめろ! やめてくれ!」
恥を忘れて命乞いをしても、スマホは何も答えない。
我に返って画面を確かめると、そこには通話時間だけが表示されていた。
好き勝手に頼むだけ頼んで、俺からの上告は阻止か。
生理用品だけならともかく、替えのパンツだと。
凡そオタクにとって、量販店以外の服屋は敵地である。
狭い空間に回遊するリア充、やたらとスカした格好をした店員。
連中自身にも分からない洋楽と、背中に突きささる敵意の眼差し。
虚飾に満ちた空間の中で、自分の体だけが違う場所にあるかのような、あの感覚。
場違いなどという陳腐な単語では、言い表し難いものがある。
ましてやこれから乗り込むのは、レディース、それもランジェリーショップだ。
俺が立ち入るとしたら、それはもはや入店ではない。
完全に侵入である。
万一入店を拒まれてしまったら。
いや、実力行使で侵入を阻止されてしまったら。
明日から、俺は一体どうやって生きていけばいい。
ポケットにスマホを突っ込み、俺は路地裏を歩き回った。
Kを見捨てて電車に乗って帰るか、全てを捨てて死地に突撃するか。
こうして二の足を踏んでいる間も、状況は悪化の一途を辿っている。
考えていてはダメだ。
この際パンツのことは忘れろ。
俺は足を止め、拳を握った。
ドラッグストアに入るだけなら、何の障害もない。
まずは一番手前の結び目を解くのだ。
商店街の入り口を目指して、俺は大股で歩き出した。
脇の下が汗をかく、こめかみを鼓動が駆け上がる。
当然だ。
俺がこれから買いに行くのは、バファリンとソフィサラなのだから。
そんなものを買う局面がこの人生に訪れるなどと、考えた例もなかった。
週末を楽しむ人で商店街は溢れかえっていたが、答えが出る程の猶予を与えてはくれない。
どうやって売り場を探すか、商品を籠に入れるか、怪しまれずにレジを通すか。
まだ何も決まらないまま、ドラッグストアについてしまった。
ドラッグストアとは名ばかり。
店の表に並んでいるのは、美容液とハンドクリーム、ファンデーションにコンディショナー。
これは殆ど化粧品売り場だ。
Kの鞄の中身もそうだが、人間よくもまあこれだけ色々な化粧品を思いつけたものだ。
それを実際使う女がいるわけで、全くもって恐れ入る。
小さなピンク色の買い物かごを肩にひっかけ、俺は店の中に分け入った。
この並びはスキンケアとビタミン剤。
ならば鎮痛剤はどこにある。
突き当りで隣りの棚を覗くと、そこにはシャンプーが並んでいた。
鎮痛剤も飲み薬である以上は、化粧品ではなく、風邪薬や便秘薬に混じっておいてあるはずだ。
俺はもう一つ奥の棚に足を踏み入れ、そして見つけてしまった。
けばけばしいトイレットペーパーの向う、赤ん坊に混じって、品のよさそうな婆さんが微笑んでいる。
おむつだ。
介護用、おむつ。
立派に大人として生き抜き、子供を無事育て上げたところで、最後に待つのはおむつライフか。
こういうものを目の当たりにすると、人間が生きることの意味を考え直さざるを得なくなる。
俺は深く溜息をつき、向かい側にある生理用ナプキンのコーナーを睨んだ。
問題は、コイツをどうやって清算するかだ。
なるべく怪しまれないよう、そして絶対に突っ込まれないよう、穏便に、さりげなく、ごくごく自然な様子で渡さなければならない。
横洩れ防止ギャザーがついて、寝返りを打っても安心な、このナプキンを。
だが、後一歩、いや、その場でつかめるところまで来て、俺は巨大な障壁に直面した。
手が上がらない。
伸ばした手が腕から抜け出し、徒に空を切る。
凍り付いた俺に気付き、店員の視線が突きつけられた。
急げ。
手こずれば手こずるほど、店員の疑惑が深まる。
落ち着け、生理用品だと、女性用だと思うからいけないのだ。
こんなものは、おむつに毛の生えたようなものに過ぎない。
そうだ、おむつ。
俺の頭脳に、天才的なインスピレーションが直撃した。
おむつでも、用を足せるのではあるまいか。
無論おむつなのだから用を足せるに決まっているが、糞尿がOKで排卵が駄目だという道理はない。
そして何より、おむつというものは、コイツはある意味、下着の一種なのだ。
こんな簡単なことに、なぜ今まで誰も気づかなかったのだろう。
ひょっとすると、これはちょっとした発見なのではないか。
俺は握りこぶしを作り、その場で回れ右をした。
介護用おむつならば、性的な意味合いが若干薄れる。
いや、俺が買ったとしても、そこまで異常なことではない。
多少はダサいかもしれないが、Kよ、悪く思うな。
これが一番単純で、合理的な解決なのだ。
俺は一番小さなパックを手に取り、両手で重さを確かめた。
嵩の割には軽すぎるが、紙で出来ているのだからこんなものか。
これで一件落着だ。
後はこれをレジに持って行けばいい。
俺はカゴに紙おむつを放り込み、棚に並んだ紙おむつをもう一度眺めた。
これで大丈夫だ、何とかなる。
何とか、なるのだろうか。
この老人用紙おむつを、Kに渡したとして、アイツは。
駄目だ、殺される。
俺は紙おむつのパックをひっつかみ、棚に押し戻した。
数週間カードを教えてきた今なら断言できる。
アイツがこれに我慢できるはずがない。
見栄の塊で実利に疎く、忍耐力はさらに壊滅的だ。
実に勿体ないが、結局買うしかないのだろう。
ナプキンと、替えのパンツを。
なぜだ。
なぜここまでして、神は俺に試練を課すのだ。
すでに十分虐げられた俺に、どうしても買って来いというのか。
神よ、いや、実際の所はKなのだが。
この報いは、絶対に受けさせてやるからな。