ふたり回し

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軍議

今こそ反撃の時。


 ニコライに、急を要する報告がある。翌日、アレクは班長に断って大通りを引き返した。雑踏を掻き分け、先の見えない螺旋を駆け上がると、まばらな人影の奥から鋼鉄のハッチが見えてくる。

「入りな」

 カメラのレンズに映ったアレクは、どんな顔をしていたのだろうか。ニコライは待つどころか、声をかけるよりも早く返事をした。扉の間から、初めて出会ったときと同じ、ニコライの不敵な笑みが見える。ただ一つ違うのは、扉の先に待っているのが、可能性ではないということだ。アレクは力づくで笑い返し、思わせぶりな質問から始めた。

「一体どこにあったと思う?」

 イポリートの息がかかった、秘密の研究所。

 待ちわびた標的に、しかしニコライはじっくりと近づいた。

「ススマンか? それともルオヤンか? ……聞かせろよ。答えはあんだろ?」

 アレクは小さく頷き、自分の見たものをありのまま話して聞かせた。ただ一つ、カルラのことを除いて。

「イポリートのところに、ユーリって男がやって来たんだ。連絡係って感じだったな」

 促しも、急かしもせず、ニコライは息を潜めて自分の獲物を待っている。

 それでも鋭い眼差しはサングラスを差し貫き、喉元から離れない。

「その男が持ってきた菓子折りの中に、一綴りの報告書があった。中身はロボトミーの実験記録。ユレシュの実験を復旧させるのに、丸5年かかったそうだ……」

 アレクは乾いた唇を舐め、一歩だけデスクに近づいた。

 ランプシェードの切り子細工が、赤い絨毯の上に湿った襞を描いている。

「イポリートはその研究所を、オハとだけ呼んでいた。オハ国立擁護センター。結構手こずったけど、職員達の扉もいくつか押さえてる」

 曲がった唇の間から、小さく覗くニコライの牙。アレクが差し出した獲物を、アレクの何倍も追い続けてきたのだ。本物の匂いを嗅ぎ付ければ、ニコライは間違いなく食らいつく。アレクが見守る中、やがて大きく口が開き、刻み込まれた名前をなぞった。

「オハ国立擁護センターか……そこで間違いねえだろうな?」

 ああ。アレクは頷き、ニコライに訴えた。

「他にもあるかもしれない。でも、あそこではあの実験が続いてる……閉じ込められた子供たちが、自分の番が来るのを待ってる……」

 掌に爪が食い込み、激しい熱を握りしめた。漸く掴んだ手がかり、たった一つの手立てを放さぬように。

「分かった。これで漸く、連中の横っ面に一発ぶち込めるってわけだ」

 食いついた。猛々しいベルの音が、微かな煙草の匂いを打ち付ける。片手でアレクを制し、ニコライは真鍮の受話器を手に取った。

「いいところにかけて来たじゃねえか……いや、お前らも一旦切り上げろ。抜けてるやつも全員ブリーフィングルームだ……ああ、ハンガーの末っ子が、最高のニュースを持って来やがった」

 横目にアレクの姿を捉え、ニコライは受話器を戻した。

「エカチェリーナだ。実働部隊を集めるように言っておいた」

 勿論お前にも、来てもらうぜ。立ち上がると、ニコライの大きさが良く分かる。割と背が高いアレクを、頭一つ分はゆうに越えているのだ。

「行くよ。俺にも、できる限りのことをやらせてくれ」

 唇を結んだアレクを見て、ニコライはもう一度笑った。

「お前もらしい面をするようになったな……どうしたって、連中が許せねえって面だぜ」

 サングラスに映り込んだ獰猛な眼差しが、アレクを睨み返している。それが誰だろうと構わない。今、オハで踏みにじられている命がある。脅かされている未来がある。実験を止めるためなら、テロリストに手を貸すことも厭わない。この部屋に来る前から、とうに決めていたことだ。

「漸く分かってきたよ……皆が何と戦っていたのか」

 アレクには見えていなかった、母なる共産党の姿。懐を探っている今も、その淵は闇の中だ。ただ、無数に残った痕跡だけが、悪意の在処を示している。

「こっちだ」

 奥の扉は、小奇麗な廊下に繋がっていた。向かいが応接室、その隣は簡単なキッチンなのだという。後は私室とトイレがあるくらいのもので、唯一の出口は突き当りのエレベーターだ。テーブルほどの小さな筒は光の中にたたずみ、耳に詰まる静けさだけが速さと深さを物語る。

「着いたぜ」

 エレベーターは、驚くほど滑らかに止まった。扉の間から現れたのは、薄暗いブリーフィングルームだ。一面のモニターが入ったテーブルを、隊員達が既に取り囲んでいる。

「待ってました! 全員集合って言うから、こりゃ久し振りのカチコミだぞって話してた所だったんですよ」

 バトゥに合わせて、口々に戦意を表す狩人たち。思いがけない追い風だが、子供たちを助けることに、彼らはどれだけ意義を感じてくれるだろうか。ぎこちなく笑い、アレクはニコライの話を待った。

「先日、ロボトミーの実験施設が発見された。オハ郊外の森林に、イポリートの息がかかった収容所があるらしい……詳しくはまだ調査中だが、状況次第では襲撃も検討してるぜ」

 ニコライが歯を見せて笑うと、部屋は歓声で一杯になった。

「来た来た来た来た! こうゆうのを待ってたんだよ、俺は!」

 飛び上がった隊員を、エカチェリーナがたしなめた。

「ちょっと、クラウス。はしゃぐのはちゃんと話を聞いてからにして」

 隊員たちの眼差しが、ニコライに注がれる。自分で答える代わりに、ニコライはアレクを小突いた。

「聞いてるかもしれないけど、この間の立ち入り捜査、掴んだのは俺だ。夢の中で他人の意識を覗いて……って、随分嘘くさいな。人に話すと」

 前置きはいいんだよ、前置きは。ニコライに耳打ちされて、アレクは覚束ない説明を始めた。

「イポリートって男を見張ってた時に、研究所のことを知ったんだ。それからいろいろ調べて、そこの職員たちが子供の脳味噌を加工して、データを集めていることまでは確かめた。イポリートが言うにも、ユレシュの実験を再現してるとかなんとか」

 野郎共、やっぱり続けてやがったな。皆が口々に悪態をつく中、一人だけ眉を寄せた者がいた。

「再現ってどういうこと? それじゃまるで、ユレシュが……」

 お気楽なようでいて、肝心なところでやはり鋭い。アレクは浮かない顔で、エカチェリーナに打ち明けた。

「それが、本当にいないみたいなんだ。研究所にそれらしい奴はいないし、イポリートたちも、今ユレシュが何をやってるとか、そういう話は全然しない」

 アレクの理解には、大きな穴が開いている。ユレシュの消息を巡って、ざわめきは足踏みを始めてしまった。

「オイ、話がそれてるぞ」

 場が静まり返る前に、イワンがニコライに噛みついた。

「アテにならん。おいニコライ、そんな伝聞の寄せ集めで、俺を戦わせるつもりじゃないだろうな」

 前髪の陰から、荒々しい光が付きつけられた。換気扇の冷たい音が、錆の浮いた床に降り積もってゆく。隊員たちの見守る中、ニコライはいつものように歯を見せて笑った。

「ああ、勿論、裏を取ってもらうぜ。お前が確かめてきたことなら、誰も文句は言わねえだろう」

 顎を突き出し、イワンは鼻を鳴らした。

「フン、それは分かりやすくて結構だな」

 それで、どこに行けと? ニコライには、まだ仔細を話していない。アレクはイワンの前に歩み出た。

「道はまだわからないんだ。オハの近くで、森に囲まれてるってことくらいで。オハ国立擁護センターっていって、昔は伝染病の隔離施設だったらしいけと……知らないよな」

 イワンの目つきが、険しさを増した。イワンの言う通り、まだ大したことは分かっていない。ニコライがせっかちすぎるのだ。

「警備は?」

 たじろぎながら、それでもアレクは記憶を振り絞った。

「軍隊が出入りしてる。日用品も軍が持ってきてるから……そうだな、トラックが目印になるかもしれない」

 口にしてしまえば、随分と頼りない思いつきだ。うろたえるアレクをよそに、イワンは無精ひげをなぞっている。血走った獣の眼に、獲物以外は映らない。それでもアレクは息を吸い込み、ニコライ達に呼びかけた。

「俺、皆が何で戦ってるのか、今まではよく分からなかったんだ――確かに党のやってることは酷いよ。でも、だからって、命を懸けたり、奪ったりしてまで逆らう必要があるのかって」

 アレクを押し流そうとする、眼差しの重み。失われゆく命の前には、カルラが負った苦しみの前には、しかし、なんと軽いものか。

「やっと分かったよ。俺が躊躇っている間にも、踏みにじられている命があるってことが……みんなの力を貸してほしい。施設で死ぬのを待っている、子供たちを助けてくれ」