ふたり回し

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朝日

ここからさきはちょっとほのぼのした展開になるかも。


 突然の誘いに、アレクは目を見開いた。ドミトリエフの言う通り、党に狙われている以上、彼らに匿ってもらうのが道理かもしれない。

「いやいや、流石にそこまでしてもうわけにはいかないって。それにほら、今の俺には大したお礼もできないしさ」

 だが、彼らは大学病院にミサイルを撃ち込んだ連中の仲間だ。関わり合いになっては、命がいくつあっても足りない。アレクは苦笑いを浮かべ、二人の勧めを断ろうとした。

「でも、まずはその手錠を壊さなきゃな。その恰好のままじゃ小便もできないだろ」

 ワゴンは再びヘアピンに差し掛かり、アレクはシートの上に倒れてしまった。

「それが手錠を外さなかった理由かい?」

 リヤシートに転がったまま苦し紛れに笑ったアレクを、エカチェリーナは真顔で見下ろした。

「切ろうとしたけど、それ、凄く硬かったのよ。それにね、どーしても手伝って欲しいの……何だっけ、あの、レッシー? だったかしら」

 エカチェリーナは首をかしげ、それから笑ってごまかした。彼らがアレクを助けたのには、やはり理由があったのだ。ヘッドレストを抱きしめたエカチェリーナの笑顔には年に見合った濁りがなく、そのあまりのあどけなさにアレクの強がりはあっさり立ち消えた。

「私達はね、昔、軍隊にいたのよ。アレク君が、絵本を読めるようになった頃かしら。党が真っ二つに割れたことがあってね。私達のいた方が負けて、彼らが勝った」

 アレクは強ばった顔のまま、エカチェリーナの顔を見上げた。髪に薄明かりが沁み込み、柔らかな光を放っている。

「彼らが現れた時、それは大きな騒ぎになったわ。党が直接子供を育てて、余計なことを知ったり、考えることを防ごうっていうんだもの。政治犯の洗脳はそれ以前にもあったけれど、それを皆がみんな受けるわけじゃない?」

 出鱈目にもほどがある。子供は元々党が育てるものだし、アレクは洗脳されたことなどない。アレクが眉を寄せエカチェリーナの目を穿っていると、窓の外を木立ちの影が流れた。いつの間にかすみれ色の夜は褪せ、淡いレモン色が上の方まで広がっている。

「予算の問題で反対した人もいれば、新しい勢力が広まるのを恐れた人達もいた。でも、そんなのは偉い人だけよ。子供と離れたくなかった人、独裁を防ごうとした人、人間の尊厳を守ろうとした人……覚えていないと思うけれど、アレク君も昔はご両親と暮らしていた筈よ。子供の頃、党に引き離されたんだと思う」

 エカチェリーナが目をそらしたとき、不意にワゴンが水平になり足元から空っぽな音が聞こえ出した。ワゴンが高架の上を走っているのだろうか。アレクは歯を食いしばり、小刻みに揺られているくたびれた体を起こした。

「あんた、何言ってんだ? 親はちゃんと俺を子供の家に預けたし、俺は昔から今の仲間と一緒に暮らしてたんだぞ」

 声を荒げたアレクに、エカチェリーナはあっさりと譲った。

「そうね。本当の意味で、もうそれが事実になってるのかも……でも、あなた達が当たり前だと思っている世の中になる前は、みんなが別の生き方をしてたっていうことだけはちゃんと分かっていて欲しいの」

 窓の外には、もうブナの影は見えない。遥か麓に田畑が広がり、尾根に隠れた太陽が山の形をなぞっている。

「別の生き方?」

 アレクの問いは静かに唇を離れ、逆光に沈んだエカチェリーナにとまった。よく見えないが、僅かに目を細めたように見える。

「そう、私達は、自由って呼んでるわ。その生き方を守る為に、私達は戦っていた」

 自由。耳慣れない言葉に、アレクは目をしばたかせた。

「でもね、結局駄目だった。彼らのリーダー、イブレフスキって言うんだけど――のブレーンの中に、ユレシュっていう博士がいたの。ユレシュは人間の上手い操り方を次々に編み出して、新しい政策は上手く行くってことを、人々に納得させてしまった」

 高架が流すノイズの中に、頭に響く鳶の鳴き声が混ざり出した。鳶の群れは獲物を探して、ワゴンと同じ高さを飛び交っている。

「彼らはどんどん大物を取り込んで、終いには私達の仲間まで引き抜き始めたわ。私達は銃を取って戦ったけれど、少しも歯が立たなかった……そして今、この国では、党の作った夢を押し込まれて、皆無理やり満腹にされてる。私達には、それが許せないの」

 エカチェリーナは席に戻り、夜明けを纏った尾根を見やった。冷たい熱を抱いた鋭く真っ直ぐな眼差しで。人を撃つのも街を壊すのも、みんな世のため人の為。思い上がった言い訳に、アレクは上目づかいで噛み付いた。

「でも、それなら――それこそあんな嫌がらせみたいなことで、世の中が元に戻ると思ってるのか?」 

 エカチェリーナが振り返ると、カールのかかった前髪が大きく揺れた。

「そこまでは望んだりしないわ。でも、聞いて。ユレシュのプランには――」

 アレクはエカチェリーナを遮り、沈んだ声を濁った陰に吐き捨てた。

「俺はあそこで、ちゃんと幸せに生きてた……あんた達が来なければ、俺の頭はおかしくならなかった、俺はまだあそこにいられたんだ……」

 鳶の声に打ちのめされて頭を垂れたアレクの肩に、ドミトリエフが声をかけた。

「ユレシュの計画には、まだ続きがあった。奴は全ての人間の考えを監視して、そのまま『修正』できる方法があると言い出した。その鍵を握っていたのが、『エッシャーの城』と呼ばれたプロジェクトだ。今となっては眉唾もんだがな」

 その名前が再び出ても、アレクは渋い顔のまま押し黙っていた。二人が何を知っていたとしても、一々応えてやる必要はない。

「こいつは党内でも総スカンを食らった。党の教育プログラムを免れた連中、腹にイチモツを抱えた天使階級の人間にとって、それは自分たちの特権を手放すに等しいことだった。結果、奴は飼い主のイブレフスキに殺された――ということになってる」

 高架が終わり、道路は稜線に向かって再び坂を登り始めた。低木もまばらな山肌をワゴンの影が滑ってゆく。

「でもね。私達はそれがカモフラージュなんじゃないかって疑ってるの。ユレシュは見えないところで、まだ研究を続けてるんじゃないかって……今でもソ連中で、目的不明のロボトミーが行われているから」

 カルラも同じことを言っていた。ユレシュはまだ生きている、エッシャーの城を狙っていると。赤みの差した山際をつぶさに見守るアレクの前を、いくつもの影が通り過ぎた。ユレシュの野望、エッシャーの城、それを食い止めようとする人々。

「ユレシュ達のプロジェクトを放っておけば、いつか私達の残された暮らしも終わってしまう。街で暮らしている人々の暮らしも、きっと……誰もユレシュを止められなくなるわ」

 アレクが重い頭を上げると、そこにはエカチェリーナの厳かな眼差しがあった。

「事故の経緯は調べた。俺達のせいだってことも。だが、お前は知っちまった、もう夢の中には戻れない。そうだろ?」

 アレクはポケットの中で残ったキーホルダーを握りしめ、渋々頷いた。知ってしまったことを元に戻すことは出来ない。アレクはそれを知らずに、確かめようとしてしまったのだ。あの霧の奥に、一体何が眠っていたのかを。

「なるしかないんだな。あんた達の、仲間に」

 おう、結構楽しいぜ。ドミトリエフは歯をむき出しにして笑った。一度は唇を結んだものの、気がつけばアレクもつられて唇をゆがめている。

「ほら、夜が明けるわ」

 エカチェリーナは窓から手を出し、向かいの尾根に向かって伸ばした。山々の間からは力強い光が漏れ出し、白くまどろむ空を穏やかに炙っている。

「……綺麗」

 眩しさに目を細めながら、アレクはオレンジ色の朝焼けを見守った。肌からしみ込んだ太陽の熱は、血潮に乗ってくたびれた身体を巡っている。アレクはまだ生きた体がある。先は思いやられるが、悪夢の夜は終わったのだ。

「私達のこと、ちょっとは分かってもらえた?」

 少しだけ振り返り、エカチェリーナが笑いかけた。アレクにはまだ真実を確かめる術がなく、分かっているのは、この世界の殆どはアレクが見たことのない物で出来ているということくらいだ。

「まあ、少しくらいは」

 アレクは朝日を見つめたまま、曖昧な返事で濁した。