ふたり回し

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仮説

設定が妖しくなってないか猛烈に不安w

 ニコライは振り返りもせず薄汚れた通りを突き進み、やがてカドルスキ整形外科と書かれた緑の看板の前で立ち止まった。白い壁には男性器の落書きがそそり立ち、少し奥にはさっきのエレベーターが見える。

「ここだ。順番待ちの患者がいなけりゃいいんだが」

 建付けの悪い引き戸が金切り声を上げて開くと、医院の中からは懐かしい消毒液の香りが滲み出してきた。外と違って、中はある程度清潔らしい。アレクは胸いっぱいに医院の空気を吸い込み、ニコライを訝しがらせた。

「あら親方さん、こんにちは。近頃あまり戦闘員が担ぎ込まれてこないと思ったら、病人を連れて見えるなんてね」

 声に気付いて、アレクは受付に目を向けた。受付の夫人は髪が短く、職務に引き締められた顔をしている。

「ああ、まあそういうことだ。今すぐ見てもらえるか?」

 そんなに顔色が悪いのか、アレクは病人ということにされてしまった。エカチェリーナたちもついて来ていたのだろう、表から小さな笑い声が聞こえる。

「ええ。目を刺された男が来てさっきまでドタバタしていたけど、手術も終わった所ですよ」

 夫人は冷めた返事を寄越し、それからアレクに名前を訊ねた。アレクも一応答えはしたが、カルテが作られることはないだろう。ニコライが自分から診察室に向かったのを見て、夫人は勝手に相槌を打ち、書類をまとめてアレクを急き立てた。

「先生、俺だ。例の男を連れてきたぞ!」

 ニコライがノックすると、内側から低く短い返事が返ってきた。こんな街に住んでいる医師だ。訳ありにせよ、物好きにせよ、ピョートルやクロトのような人当たりのいい男は出てくるまい。アレクは密かにため息をつき、ニコライに続いて部屋に入った。

「適当にかけてくれ。大将と……そっちがアレクか」

 果たしてコルレルは、目つきの険しい角顔の老人だった。

「初めまして。コルレル……先生?」

 歯切れの悪い挨拶に、コルレルは小さく鼻を鳴らした。

「イマイチ頼りない小僧だな。大丈夫なのか? こんな奴に任せて」

 コルレルに尋ねられて、ニコライは笑いをかみ殺した。

「まあそういってやるなよ、しばらくすれば馴染むさ……それに、まだコイツは状況が今一つ飲み込めていないみたいでな。詳しい話を聞かせてやれば、少しは身の振り方も見えてくるだろう」

 椅子を引きずって机を回り込み、コルレルはアレクの目を覗き込んだ。顔中の深い皺は長きにわたる風化との戦いによって刻み込まれたものだろうか。

「いいだろう。ワシも当事者の話は聞いてみたい――アレク、お前さん、城についてどれだけのことを知っとる?」

 コルレルは背筋を伸ばし、アレクを問い質した。

「バトゥがいろいろ話してくれたけど……他人の考えていることを変えられるとか。でも、俺が見たのは城の夢だけで、そんな実感はありません」

 アレクはコルレルにできるだけ目を合わせながら、控えめな答えを返した。何もこちらから期待を膨らませてやることはない。

「やはりな。知らされている筈が無い。が、城の外観くらいは覚えとるだろう」

 コルレルが椅子にもたれかかると、錆びついたバネが重苦しいうめき声を上げた。聞き手に回ることにしたのか、ニコライは口を挟まず、押し黙って膝を組んでいる。

「気がついた時には、鏡の前にいました。回廊に囲まれた、鏡で出来た立体……数学に出てくるような……」

 アレクは時々詰まりながら、城の構造について話し続けた。宙に浮かんだ城、四方に突き出した尖塔、反り返った床、二つの面を持つ階段、幾つもの階段に貫かれたホール、床から天井に向かって並ぶ扉。そして自分の扉の事を話した時、コルレルはわずかに目を細めた。

「その扉、扉の中には何があった? お前さんはそこで何を見た?」

 コルレルの質問に、アレクの目が僅かの間だけ止まった。悪夢のことを説明すると、どうしてもカルラが出てきてしまう。

「俺にもよく分かりません。工場の中で怪物に追い回されたかと思ったら、いつの間にか部屋の外に戻ってて……それっきり、ヤバいから出口以外は触らないようにしてます」

 半端に本当のことを話したせいで、余計に疑わしげな説明になってしまった。額に手を当て、コルレルは低い声でうなっている。

「心当たりはねえのか? 先生」

 ニコライは力を入れずに訊ね、コルレルは小さく首を振った。

「工場だの怪物だのは分からんが、少なくとも城の特徴はユレシュの論文と一致しとる。しかし、嘘ではないとすると……」

 これ以上疑われては不味い。アレクはコルレルに聞き返し、話をカルラから遠ざけた。

「何にせよ、俺にはやたらとデカい迷路としか思えませんでした。それがどうして人類洗脳計画みたいな話になってるんです?」

 コルレルは立ち上がり、診察室の隅にある戸棚に歩み寄った。

「今から十数年前の話になるが……」

 固太りした気深い両手がガラス戸を開き、ファイルをかき分けている。アレクは丸椅子を揺すりながら、コルレルがファイルを見つけるのを待った。

「あった、こいつだ」

 コルレルが取り出したのは、青く日に焼けたファイルだった。コルレルの払った埃は白熱灯の光に漂い、渦を巻きながら空気に溶けてゆく。茶色く日焼けしたシールの上にはサインペンで一言『調査用』と書かれている。

「演算素子理論という名前は聞いたことがあるか?」

 コルレルはファイルに目を通しながら訊ねた。ビニールをめくる薄っぺらい音が、診察室を横切ってゆく。

「まさか。俺にそんな学はありませんよ」

 だろうな。コルレルは僅かに手を止めてアレクに目をやり、それから再びファイルに目を戻した。

ポーランドにヨハン・バウアーという数学者がいてな。その男の研究は、本来電子回路に関するものだった。バウアーは回路の規模に応じた処理能力の限界を算出し、電子工学に寄与したわけだが、その先にとある副産物があった」

 コルレルの話を聞く内に、アレクの目は少しずつ開いていった。

「ああ、それなら主治医に教えてもらったことがあります。本当は脳細胞が5倍いるって

話でしょ」

 人間の大脳はエッシャーの城と通信することで初めて複雑な思考や結論を引き出せる。テルミンは廃れた学説だと言っていたが、ユレシュは間違っていなかった。

「なんだ、知ってるんじゃねえか」

 ニコライは軽く笑い、アレクの背中を叩いた。

「そうだ。人間の脳にはおよそ30億個の神経細胞が含まれているが、バウアーの試算によれば、それは迷路を解いたりリンゴの皮を剥くだけで使い尽くされてしまう規模なのだそうだ」

 コルレルはファイルを開いたままアレクに手渡した。『大脳生理学シンポジウム、ユレシュ教授の新説発表に騒然』。大写しにされた白黒のユレシュはやや骨ばった顔をしており、鋭いまなざしは色あせた誌面に今なおはっきりと焼き付いている。言い伝えの中から浮かび上がった男の影を忘れぬよう、アレクはスクラップをじっと見据えた。

「だが、知っての通り人間には知識を蓄え、理論を用いて演繹することも出来る。両者の間横たわった断絶はあまりにも大きかった。バウアーの定理が間違っていたのか、神経細胞には我々が想定している以上の機能があるのか、脳の中には我々の知らない何かがあるのか、それとも――」

 昔話の切れ間に気付いてアレクがふと上を向くと、そこにはコルレルの眼差しが待ち受けていた。

「……脳味噌以外の何かが考えているのか?」

 その通り。コルレルは再び話し出した。

「マウリ・ユレシュは人間の思考の大部分が、脳の外側で行われていると主張した。大脳新皮質に分布する機能を特定されていないグリア細胞が、未発見の信号を送受信している可能性がある、とな。既に実践的行動工学の分野で幾つかの業績を上げていたユレシュは、政府の本格的なバックアップを受けて新たな研究所を開設した。外部から市民の脳にアクセスすることが出来れば、あるいは脳のアクセスしている「何か」に働きかけることが出来れば、政府の人民誘導政策は真に完成される。西側の残存勢力を巻き込んだ、地球連邦が生まれる。当時総書記を務めていたイブレフスキは、ユレシュの研究所に国家予算の1割をつぎ込んだ」

 アレクはコルレルの顔を見守った。ここまでの話はカルラやテルミンの話と一致している。この老人には、アレクを担ごうという気は無いらしい。

「連邦中から被験者がかき集められ、危険なロボトミーや投薬実験が繰り返されたそうだ。実験の詳細は秘匿……されていたが、要は結果が芳しくないのだろうと、同業者も見切りをつけ始めた頃だった。ユレシュは突如として学会に舞い戻り、そして報告した。他人の意識を覗くことが出来る、一人の被験者の出現を」