短いけれど、キリが良いので。
シェフチュカ通りを街中に向かって進むと、船の帆を象ったミラービルが見えてくる。ナヴィガツィヤという、割と新しい水上モールだ。ハバロフスクで一番のシネコンは、一番手前、A棟の6階にあった。元気の出そうな映画が一番だが、上映中のタイトルなど、今のアレクには分からない。
「カルラさん、気になる映画、ありますか?」
チケット売り場にごった返す予告編の音を押しのけ、アレクは尋ねてみた。カルラは難しい顔で、壁に並んだポスターを見比べている。
「弱りました……どれが一番面白いのでしょうか。あまり映画を見ないものですから、相場が良く分からないのです」
欲がないのも困りものだ。本人から希望を引き出す作戦は、あっという間にとん挫した。
「気分的にはどうなんです? どういう話が見たいのか」
アクション、コメディ、ホラー、ロマンスにドキュメンタリー。やはりカルラが選ぶのは、真面目なタイトルなのだろうか。
「そうですね……」
カルラが答えようとしたその時、隣画面で予告編が始まった。交通事故をきっかけに、超能力に目覚めてしまう女の子。教室でドタバタをやっているかと思いきや、廃校を巡ってひと騒動あるらしい。ありがちでいい加減な話だが、こんなことが意外と起こってしまうのが、世の中というものだ。二人は目を離せないまま予告編を見終わり、それから上映時刻を確かめた。
二人は手分けしてチケットとドリンクを買い入れ、上映間際のホールに滑り込んだ。
「そこ、違う。麦畑じゃなくて、ホントは霧なんだよ」
未経験者の描いた臨死体験に、アレクは小さくダメ出しした。
「アレクさん、気を付けて下さい」
カルラに従い、アレクはストローで口をふさいだ。隙を見計らってカルラの横顔を伺うと、やけに真剣な顔つきで、食い入るように画面を見詰めている。薄明りに照らされたあどけない横顔をぼんやりと眺めていると、カルラは俄かに笑い出した。
「やった、あの顔。見ました? アレクさん」
急に返事を求められても、君のことを見ていたなどと格好をつける余裕はない。
「勿論、見てましたよ……」
横目でちらりとスクリーンを伺うと、メッジをつけた主人公が仲間とハイタッチをしていた。バレーの試合だ。主人公が超能力を使ったに違いない。
「もう、完全に信じらんないって顔でしたね」
あいまいに答えたのが功を奏したらしい。カルラは笑顔のまま、再び映画を貪り出した。レフ達と遊んだ時には遊び足りないと言われたものだが、カルラはそれこそ、全く娯楽に触れてこなかったのだろう。主人公と一緒に一喜一憂し、他愛のないジョークでケタケタと笑っている。いつもの厳しいカルラの姿は、この暗がりの中にはない。全てが終われば、カルラも太陽の下で笑えるようになるのだろうか。アレクは軽く船を漕ぎながら、子供たちが談合現場を押さえるのを眺めていた。
これだけ楽しんでもらえるなら、夜更かしして街に出てきた甲斐があるというものだ。気が抜けると、眠気は途端に打ち寄せる。終盤まで相槌を打っていたはずが、カルラに袖を引っ張られたとき、スタッフロールはすでに終わっていた。
「もう、勿体ない。ホテルから逃げ出すところなんか、すごく盛り上がったんですよ」
シネコンからの帰り道も、カルラの熱は冷めなかった。よく見ていなかったアレクにも、お陰で土産話ができる。
「すいません。いつもはもう寝ている時間なもんで」
もう少しで12時なのだが、アレクはこれ以上起きていられそうにない。ランチは見送り、そのままカルラを送ることになった。幸いにもカルラの家はレスメンナヤ通りにあり、遠回りの必要はない。来た道をそのまま戻ると、高いポールにつるされた二階建ての家を指し、カルラはアレクに礼を言った。周りの家の殆どは人気のない別荘だが、カルラは常から、この家に住んでいるという。
「それじゃ、また。片手落ちになっちゃったけど、楽しかったです」
カルラに手を振り、走り出そうとしたとき、見覚えのある顔が目に入った。クロトだ。隣家のポーチに立ってこちらを見ている。アレクは咄嗟に身を屈め、ハンドルの陰に隠れた。国安とは無関係だろうが、万一記憶が残っていれば足取りが割れてしまうかもしれない。不意を突いて放たれた僅か3秒足らずの危機は、重たい眠気をハッチバックから蹴り出し、アジートにたどり着くまで後部座席に居座った。