ふたり回し

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陽動

そして迫る決行日。


「これだ!」

 気づかれずとまではいかずとも、時間を稼ぐことくらいはできる。浮かび上がった作戦の形に、隊員たちの顔つきが変わった。

「おい、アレク。その扉ってのはどうなんだ。中から破れる程度のもんなのか」

 ニコライに問いかけられてから、アレクは朧げな記憶を手繰った。鍵はかかっていたが、特別厳重ではなかった筈だ。

「そんなこと言われても……普通の防火扉くらいというか」

 多少の鉄板など、物の数ではないらしい。防火扉と聞いて、ニコライは小さく笑った。

「決まりだな」

 一枚めのピースが定まると、瞬く間に絵柄は広がってゆく。

「陽動と突入のタイミングはどうする? せっかく裏道を使えるんだから、火事でみんなが起き出しちゃもったいないわよね」

 エカチェリーナは見取り図の上に身を乗り出し、段取りを描き出した。見張りの交代を防ぐためには、交代要員の到着前に火災が発見されなくてはならない。発見されない内に救助にこぎつけるためには、見張りが巡回を終えたのち、山火事の連絡が入るまでに突入しなければならない。

「11時に陽動を開始、消防部の初動が到着すると同時に突入を開始する。それなら歩哨と遭遇しても、本部は対応できねえだろ」

 太い指が、一階の西階段を指し示した。

「侵入後、一人は見張りの押さえだな。アレク、他にはどこに誰がいる?」

 アレクは首を傾げ、カルラの話を掘り起こそうとした。昼前から夕方のことならばいくらでも答えられるのだが、深夜の研究所を見たことは殆どない。

「研究員と看護師かな。宿直室は2階の、東の方だ。起きてる看護師は病棟の監視室にいるだろうけど、研究員はどうかな」

 2階の診察室に詰めているか、1階の実験室で被験者の経過を見ているか。実験のない日なら、泊まっているのは2人だけだ。

「宿直室はともかく、実験室は避けて通れませんね。いっそ、最初から制圧するつもりで行きますか?」

 見取り図から顔を上げ、バトゥは思わせぶりに笑った。

「なんだ? お前、コソ泥で終らせるつもりだったのかよ」

 ニコライが笑い返すと、隊員たちは一斉に笑い出した。このメンバーが突入するのだ。ことが穏便に進むはずもない。ましてや施設の職員は、ユレシュの計画の一翼を担っているのだ。

「子供たちは、どうやって引き渡すんです? 置いてくと死にそうだし、人気のないところに呼び出すのも怪しすぎるっつうか……」

 作戦会議が熱を帯びるにつれて、低くて太い換気扇の音は次第に遠ざかってゆく。

「それも火事で何とかなるんじゃない? 地下の広場に子供たちを集めて、そこに迎えに来てもらうワケ」

 制圧した後なら、別にいいんでしょ? ざら付いた目配せに、ニコライは肩をすくめた。

「止めやしねえよ。ガキどもを拾ったら、後は何燃やそうとお前の勝手だ」

 当初の目的とは裏腹に、血の匂いはきつくなるばかり。それでも皆の熱に当てられ、アレクもいつの間にか乗り気になっていた。

「問題は人選だな。ガキのお守りはカティに任せるとして、何人まで陽動に回せるか……」

 ニコライは短い顎髭をさすり、隊員たちを見渡した。見張りを止めるのに一人、反対側の通路に一人、子供たちの誘導に3人。無論ニコライは数に入っておらず、バトゥ以下、数名のボルゾイ乗りを引き連れ、矢面に出ることが決まっていた。

「陽動の目玉はあくまで山火事だ。無駄にちょっかい出して尾行られるようなヘマはすんなよ」

 含みのある戒めは、猟犬たちの鼻をくすぐった。

「OK、OK。やむを得ずでしょ? やむを得ず」

 エサクの返事に、全員が笑い出す。これが彼らのいつも通り、幾度となく繰り返した、勝ち目のない戦いの、たった一つ。ただ一つ違うのは、今回彼らの照準が本当の敵を捉えるかもしれないということだ。

「よし、今日はもう終いだ。一遍向うさんとすり合わせてから細かいところを詰めてくら」

 さあ、さっさと演習始めるぞ。小さく手を叩いて、ニコライは隊員たちを追い出した。近づいた勝負の気配に、皆が勢いづいている。アレクはハンガーまで彼らについていき、そこで別れて持ち場についた。これで作戦の目途が立ち、ひとまずアレクの手を離れたことになる。後は必要に応じて、施設の詳細や駐屯地の内情を探るだけだ。それからアレクがブリーフィングに呼ばれることはなくなり、早その一週間後にはサハリンに向けニコライ達が出発した。

 

「作戦、もう始まってっかな?」

 先輩に尋ねられて、アレクは掃除の手を止めた。静けさの戻ったハンガーは、いつもよりやけに広い。もしもの時にすぐ出せるよう、残ったボルゾイには手を付けず、アレクたち居残り組は倉庫の掃除に明け暮れている。

「まだじゃないですか? 11時って話だったし……」

 天気や敵の動向次第で、延期ということはあり得る。今日という日付けも、天気予報で決まったに過ぎない。

「大丈夫かねぇ……裏切らないにしてもだ。ヘマをしないとも限らないだろ? その、何だっけ? の会」

 拭き終わった棚にゴムブッシュの箱を戻し、先輩は袖で額の汗をぬぐった。

「『守る会』というか、署長だそうだ。ノグリキかどこかの」

 カルラ曰く、オハ近辺では最も信頼のおける同志。冷静沈着だが果敢さも併せ持ち、志が低ければもっと出世できた筈だという。無論ここで話せるわけもなく、アレクは話を脇に寄せた。

「どちらかというと、みんなの方が心配だな。調子に乗ってやりすぎるかもしれない」

 顔をしかめるでもなく、先輩は笑い飛ばした。

「それこそ心配ないって。10年以上続けてるんだ。引き際くらい心得てるよ。でも、今度ばかりは、いつもとわけが違うだろ?」

 片が付いた筈の話から、しかし、先輩はなかなか腰を上げない。

「じゃあ、大丈夫ってことで」

 アレクが切り上げようとしても、先輩はずるずると食い下がり、ついには押し問答が始まってしまった。 

「そりゃ俺だって気になるさ。でも、今話し合ったってそれ以上の答えは出ないだろ」

 口を突いて出てきた声が、いつになく鋭い。黙りこくったアレクの前で先輩は耳をほじり、それから耳垢を指ではじいた。

「ええい、もう、鈍い奴だな……ホレ、お前は、アレで分かるんだろうが」

 オハがどうなっているのか、見に行けということらしい。アレクは棚を拭きながら、振り向かずに断った。

「駄目だろ。敵ならともかく、味方同士で腹の探り合いみたいなことになったりしたら……」

 煤けた棚から、黒い埃が捻り出されて来る。真っ黒な雑巾で払うと、みすぼらしい音を立てて棚の垢が床に落ちた。

「そこをなんとかさ。戦況の速報があったら、みんなの役にも立つだろ?」

 作戦はうまくいっているだろうか。皆は無事に帰ってこれるだろうか。これから俺たちは、今まで通りにやっていけるだろうか。先輩に吹き込まれて、アレクの動きは次第に錆び付いた。

「仕方ない。今回だけだからな」

 アレクは速足でハンガーに出ると、背筋を伸ばしてベンチに座った。寄せては返す息に体がそよぎ、ガソリンの匂いは静けさに沈んでゆく。気が付くと、アレクはいつもの廊下に立っていた。