間が空いたせいでスピードが落ちている。踏ん張れ、私。
シャビィは言われるまま、リシュンについて昨日の道を引き返した。かめを担いで階段を上り、柱廊を抜け、螺旋階段を下りてゆくと、水汲み場には先客がいた。
「あら、リシュンちゃん、お早いお目覚めだね。」
浅黒い小柄な婦人は、親しげに笑いかけてきた。温かな笑顔を飾る、目じりの皺がやけに眩しい。
「おはようございます、シャンカさん。」
いろいろありまして。器用な微笑みを浮かべ、リシュンは肩をすくめてみせた。
「いや、それにしても珍しいもんだね。あんたが男を連れ込むなんてさ。それも、その……」
夫人は宙に視線を泳がせた。
「お坊さんをさ。」
リシュンはシャビィに目くばせしてから、口に手を当てて笑った。
「ご冗談を。情夫ならもっとましな人を捕まえますよ……なんといっても、私は恋の『専門家』ですからね。」
違いない、婦人に合わせて、リシュンは一層大きな声で笑った。いかにも酷い言われようだが、生臭坊主よりは、それこそ遥かにましである。
「先日リシュンさんに危ういところを助けて頂いたので、お手伝いさせてもらえるようお願いしたんです。力仕事なら、それなりに自信がありますから。」
嘘を付けないシャビィの怪しげな説明に、婦人は一応納得がいったらしい。
「ふーん、それで水汲みね……ちょっと待っててね、これで最後だから。」
両手でしっかり綱を掴んで、婦人は勢いよくつるべを巻き上げた。決して軽くはなかろうに、やせ細って筋の浮いた腕には、少しも疲れが表れない。ぜいぜいと喘ぐのは、半分壁に埋め込まれた、小さな井戸についた滑車の方だ。
たちまち井戸筒からつるべ桶が姿を現し、婦人は片手で桶を引きよせ、大きなかめに水を注いだ。
「よろしければ、私がお持ちしましょうか?」
シャビィが手伝いを申し出ると、婦人は再び大きな声で笑い出した。
「ありがとう。でも、ウチはすぐそこだから一人でも大丈夫だよ。私より、そっちの生っ白い娘を助けてやって。」
それじゃあ、リシュンちゃん、お先に失礼。大きなかめを軽々と持ち上げ、婦人はパティオの向かいにある部屋に帰っていった。
白い壁からむき出しのレンガで造られたかまどと煙突が飛び出している。リシュンの家にあるのと同じものだろうか。
「さあ、シャビィさん、ご待望の水汲みですよ。」
溜息混じりに名前を呼ばれて、シャビィは井戸の前についた。試しに綱を握ってみると、重くはないがやはりそれなりの手ごたえがある。
「すみません。どうも、私が来たのは失敗だったみたいですね。」
つるべ桶を手繰り寄せながら、シャビィは謝った。
「いえいえ、助かっていますよ。うちに戻ったら、何か変装を考えましょう。」
上ってきた桶を掴んで、シャビィは水を移し替えた。後六杯くらい必要だろうか。かめの中では、暗い泡が楽しげな音を立てて弾けている。シャビィは井戸につるべ桶を戻し、もう一方の桶を手繰り寄せた。
「どう?意外と楽でもないでしょ?」
ひたすら手を動かすシャビィの背後に、婦人が手ぶらで戻ってきた。
「いえ、そこまでは。なにせ体力がとりえですから。」
階段縦走に比べれば、こんなものは準備運動だ。そりゃあ結構、婦人は退いて、リシュンと世間話を始めた。
「そうそう、リシュンちゃん、どうせまだあんた薄暗い路地で仕事してるんでしょ?気を
付けなよ、最近奏国の兵隊がそこら中うろうろしてるみたい。昨日も、市場で騒ぎがあってね、干物屋が屋台をめちゃくちゃにされてね。誰も手を出さなかったけど、市場全体がギスギスしてて、やな感じだよ。」
胡椒の密輸を止められずに業を煮やした奏国は、ナルガの大使館にかなりの兵隊を送り込んでいた。リシュンにとっては、嫌がる商人たちから繰り返し聞かされた話である。
「ええ、最近は妙に増えましたね。聞いた話では、華人の店にまで押し入って検閲していくとか。」
リシュンが相槌を打つと、婦人は苦々しい顔で吐き捨てた。
「華人はまだましだよ。連中、あたしらキン族とか、タガログ族にはなんでもするんだ。店に上がりこんでタダで飲み食いしたり、押し借りしていくばかりじゃない、難癖を付けてカツアゲしたり、子供や年寄りをいじめたり、よそ者のくせに……あたしらのことを毛の生えてない猿程度にしか思ってないのさ。」
ふたりの話に耳を傾けながら、シャビィはひたすら水を汲んでいた。いつの間にか、かめの水が半分を超えている。リシュンは手を組み直し、目を伏せた。
「私もこんな商売をやっていますから、この先のことを思うと心配で……先日も、お客さんが大きな痣を作ってきて……」
豪商相手からお呼びがかかるのは、多くて週に二、三回。リシュンの主な客は、歓楽街の娼婦達だ。どんなに媚びへつらっても些細なことで殴られ、果てに斬られた仲間もいるのだと、リシュンの知り合いもこぼしていた。
「そりゃお気の毒に……とにかく、あんたも年頃の娘なんだから、用心しなくちゃダメだよ。しばらく柄の悪いところは避けて、大人しくしときなさい。」
念を押す婦人の手を、リシュンは強く握った。
「ご忠告どうもありがとうございます。シャンカさんも、くれぐれもお気を付けて。」
微笑んで頷き合う女達の後ろで、シャビィは最後の一杯をかめに注いだ。まだ満杯には至っていないが、持って帰ることを考えればこのくらいが調度よい。
「リシュンさん、あがりましたよ。」
リシュンはかめの中を横目で確かめ、婦人にお辞儀した。
「それでは、シャンカさん、ご機嫌よう。心配して下さって、どうもありがとうございました。」
婦人は腰に手を当てて、リシュンを足から頭まで眺めて、強く頷いた。
「あんたは賢い娘だから、きっとうまくやり過ごせるさ。そっちのお坊さんも、力になってやってね。それじゃあ、また。」
ええ御機嫌よう。何となくお辞儀を返したが、シャビィが自らの言葉の意味を知るのは、もっと後になってからのことだった。
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